十
充剛はしばし唖然とし、次の瞬間、鬼の形相で立ち上がった。定匡殿が止めに入ろうと腰を浮かしたが、それよりも早く私の隣で綱興が動いた。
飛び込んだのかと思うほど勢いで床に額づいて、綱興は充剛に許しを乞うた。
「分不相応に出すぎたまねをいたしました! 殿のご不興も尤もなこと。申し訳ございませぬ!! されど私は、沙羅姫様はもとより、充剛様以外の主人に仕える不義不忠の心は持ち合わせてはおりませぬ!」
斯くなる上は、ここで充剛自らの手によって断罪を……という覚悟を示した。
綱興の決死の覚悟に、原因を作った私も言葉を挟めず、もはやただ見守るしかない。見かねた定匡殿が、とりなすように間に入ってくれた。
「充剛殿も、何も本気で林殿を手放すとおっしゃったわけではあるまいに。かねてより、よい主従であると、私も内心羨ましく思うておりました」
「うん……いや、しかし定匡殿……」
「沙羅姫も、お従兄妹ゆえの気安さで、ついその軽口に過剰に反応してしまわれたのでしょう。充剛殿と林殿の信頼関係をよくよく承知しているが故に、たとえ軽口でも姫ご自身がその関係に罅を入れるようなことは許せないと……そうですね?」
振られて、私はただコクコクと頷いた。
「それでもなお、林殿を許せぬ、側にはおけぬとお思いになるなら、ここは沙羅姫ではなく私に預けてはくれませぬか。失うにはあまりにも惜しい男です。……と言っても、当の林殿が『忠臣は二君に仕えず』と申している以上、生かす方法は限られてしまいそうですが……」
さて、どうしたものかと思案するように定匡殿は自分の顎をなでる。斉明が膝を進めて、充剛に頭を下げた。
「不肖、山内斉明からもお願い申し上げまする。林殿は、まこと忠勤のご家臣。此度の戦でも、その命を賭して充剛様にお応えなされるでしょう。何卒、今一度活躍の場をお与えください」
充剛はここまでされて、なお綱興を処分できるほどの度胸を持った男ではない。それと同時に、綱興の価値というものを再認識することになったのだろう。
不承不承という体で、前言を撤回した。
「よかろう、綱興。今回きりだぞ」
そのまま陣を出るらしく、充剛は再び腰を下ろすことなく大股で幕の外へ向かった。私を一顧だにせず通りすぎ、未だ平伏したままの綱興には鷹揚に「行くぞ」とだけ声をかけ、さっさと先を行く。
ひっそりと息を吐いて立ち上がった綱興と目があった。私は声には出さず、視線で詫びた。綱興はそれを受け止めて、踵を返し充剛の後を追った。
猛省しているといえば少し大げさだが、もう綱興に気軽に接してはいけない、迷惑になると私は自分に言い聞かせた。
「……いつまでその居丈高なお姫様でいられるのか、楽しみに見てるぜ」
すれ違いざまに青砥が囁いた。私にしか届かない、下卑た嫌な声だった。
あんたが何者なのか、私も見ているわよ。覚悟したほうがいい。
背中を一瞥して、今はまだ見えない青砥の尻尾をどうしたらつかめるかと思案する。
充剛の家臣たちが全て引き上げるのを見送って、定匡殿は深い嘆息を一つついた。
「気になさるな」
私を近くへと呼んで、慰めをかけてくれる。
もちろん、充剛のことは気にしていない。ただ——
「定匡殿、充剛たちの軍には気をつけたほうがいいわ。こんな騒ぎを起こした後で、私が意見するのもなんだけど」
説得力に欠ける進言だ。しかし、定匡殿は向き合う用意を見せた。私は彼の前に改めて着座する。
「彼らの中には、まだ裏切り者が潜んでる可能性が高いわ。黒田の一族は、あまりにも手際よく葬られたと思わない?」
「それについては、私も少し調べさせているところです」
定匡殿も充剛の軍の危うさは理解している様子だった。それから、思い出したように、
「なにかご相談がおありだと、斉明から聞いておりますが?」
と切り出されて、私も当初の目的を思い出した。ただ、すぐには言葉が見つからない。
幾許かの間に気持ちを落ち着け、まっすぐに定匡殿を見つめて、私は自らの願いを告げた。
「一度だけ、私を戦場に出してください」
側にいた斉明の方が顕著に反応した。目をむいて、私を見つめる。口を開きかけて、だが思い留めたようだ。
定匡殿は腕を組んだまま、静かに両目を閉じて沈黙を守っている。
定匡殿が容易に了承しないだろうとはわかっていた。しかし、私にはもう、こうするしか自分を納得させる……あるいは、諦めさせる方法はないと確信していた。
凍てつき、朽ちていけるなら、それも良かったのかもしれない。憎しみと引き換えに、定匡殿が清和の首を持ってきてくれるなら、私は凍える苦しみから逃れられたのかもしれない。
けれど、そうはならなかった。じくじくと氷の下でくすぶっていた熾が、あの焼き討ちの夜、炎に触発されるように再び勢いを持ってしまった。燃え上がった恋の炎を消すことはできない。
この恋は私が存在する限り……或いは清和が存在する限り———つまり、どちらかが存在し続ける限り、終わらせることはできない、と観念している。
だから——この恋を終わらせるために、私は戦場に出る。
どれくらいの沈黙が続いたのだろう。私は深い呼吸を何度も繰り返した。
寂莫とした幕の内側に雲雀が舞い込んできて、カチチとささやくような足音を響かせた。
その雲雀の動きを察したように、定匡殿は瞼を開けた。彼の身じろぎで、武具が小さな音を立て、驚いた雲雀が幕の外へと飛び出した。
「<一度だけ>というからには、それなりの算段があるのでしょう。ぜひ中身を聞かせていただきたい。出すか、出さないかは、それからの話です」
定匡殿らしい論理的な問いかけに、私は唸る。
「以前……私は定匡殿に亡き夫の仇をとってくれとお願いしました。しかし、他力本願は私らしくないやり方です。定匡殿とて、内心そう思っておいでだったのでは?」
六角の当主は答えることなく、先を促す。
「やはり、できることなら、私は自分の手で決着をつけたい。もともと、そうするために全てを捨ててきたんですもの。でも、それが定匡殿を含めて六角の皆の心配の種となるのも、足を引っ張ることになるのも嫌。だから……ただ一度だけ、機会を与えてほしい。——運命が私の味方をしていたら、夫の仇に巡り会えるでしょう。そして自らの手で夫の仇を討てるはず。もし返り討ちにあっても、それは本望。そうして無事、本懐を果たせたなら、晴れ晴れとした気持ちで、ようやく私は前へ進める」
「それは、六角に骨をうずめる覚悟もできる……という事ととって良いのでしょうね」
どこか冷ややかな問いかけに、私は曖昧に頷いて応えた。言質は取らせない。
「………」
これまでの言い分を、すんなりと定匡殿が信じるとは無論思っていない。なぜならそれは、定匡殿への建前に過ぎず、私が細川清和以外の妻になることはないと、いまや私自身が知っているから。決心しているから。それでも、本当のことを言えば、絶対に定匡殿は私を戦場には送り出してくれない。
私が隠しているものごと呑み込んだ上で、定匡殿にはこの取引に応じてもらいたい。虫が良すぎるのは、承知の上だ。
もう何度目になるかわからない、後ろめたさや申し訳なさを覚えつつ、私は定匡殿の出方を伺う。
「この上なく勇ましく、正論にも聞こえるが、私の心中は穏やかじゃないですね……」
案の定、私の提案を歓迎しない様子で、定匡殿は組んでいた腕をほどいた。
やはり、この人は私を止めるのか。
「だけど、私は……」
どうしても行かなくては、と続ける前に、定匡殿が右手をあげて続く言葉をとめた。
「いいでしょう。貴女の好きにしなさい」
あっさりそういわれて、えっ?と聞きなおす。
自ら打診しておきながら、定匡殿がそう簡単に出陣を許可するとは思えなかった。
「もちろん、私の本心は貴女を行かせたくはない」
人のいい笑顔を少し困らせて、定匡殿は断言する。
「本当は行かせたくはないが、貴女はきっと聞きはしない。沙羅姫……貴女は今、とても貴女らしい瞳をしている。行く手を阻むことは、きっと誰にも出来ない。この私にも」
「ああ、定匡殿……」
声が詰まって、それ以上言葉にはならなかった。私は泣き笑いのように顔をゆがめる。実際、泣いていた。涙が頬を伝って膝へと落ちていく。
願いが聞き届けられた安堵からなのか、申し訳なさからなのか、自分でも判然としなかった。炎の中で、清成殿に流したものとも違う気がする。
うつむいた私の肩を、定匡殿はただ静かに抱き寄せた。
打掛の袖で涙をぬぐい、私は笑顔に戻ってすぐ隣にある定匡殿の顔を見上げる。
「六角に……定匡殿のところに来てよかった。定匡殿に会えて、本当によかった」
「その言葉は、ともに老いたときに聞かせていただきたいですね」
定匡殿は老獪に釘を刺すことを忘れない。微笑むだけで、ここでも私は言質を取らせなかった。だって、その日が来ないことを私は知っている。
陣中に差し込む日の光が穏やかで暖かい。
定匡殿は話題を変えるように、囁いた。
「春はもう、そこまで来ているようですよ」
私の肩を抱いたまま、ゆるゆると立ち上がる。一緒に、幕の外まで出て、空を仰いだ。明るく澄んだ青い空に、二つ三つ、雲がなびいている。境内の庭木に目を落とせば、すでに花を散らせた梅が新芽を息吹かせていた。
まさしく、去年の今頃だった———。
春まだ浅い山中で、清和に出会った。細川へ輿入れし、再会した夜にお互いの正体を知った。そして、桜が舞う春の嵐の夜———私は清和に恋をした。
あれから、あまりにもいろんなことがありすぎた一年だが、春はまたいつものように巡ってくるのだ。
「一年で、春が一番好きです」
自然と呟いていた。同時に、偽りのない微笑みが浮かんでいた。
定匡殿も微笑みを返してきた。この人らしい、余裕のある笑みだ。
「六角の領民たちが田植えを始めるまでには、この戦に決着をつけましょう」
雲雀が空に舞い上がり、ピュルピュルと高く鳴いた。




