九
「沙羅姫様……? やはり、どこかお加減が優れませぬか?」
なおも口元を強く引き結んだままの私の顔を、斉明の心配そうな目が覗き込む。
「いえ……体は、大丈夫よ」
言葉を濁していると、ひときわ大きな音がしてぶわりと火柱が上がった。崩れ落ちていく市辺城を振り返り、私たちはただその最期を見届けることしかできなかった。
退避してきた家臣が、斉明に何事か耳打ちした。
裏門の見張りをしていた二人は、少し離れたところで死体で発見されたらしい。焼死ではなく斬死だったことから、此度の出火は敵勢力による放火だと判断された。
いまさら旧本陣に火をかける意味があるとすれば、狙いはそこに残った私——沙羅姫ということになる。
「私のせいで、城一つ燃やしてしまったわね。門番も無駄に命を落とした」
すまないと詫びる私に、斉明はゆるゆると首を振った。
「ここに残った者たちは、警護のための者たち。姫様の命が無事であったなら、決して無駄死にではございません」
慰めとともに斉明は、日が昇ったら我々も本陣に参りましょう、と提案した。
「何者が火をつけたのかは定かではございませんが、軍を率いてではなく、少数で敢えてここを襲うということは、狙いは姫。相手が沙羅姫様を狙っているなら、近江の観音寺城よりも殿のそば近くが安全でしょう」
「そのとおりかもしれないわね。うん、斉明の言うとおりにするわ」
歯切れよい返事に、斉明もホッとしたように頷いた。
しかし、返事とは裏腹に、心の底では定匡殿の元に行くことを心苦しく思っていた。
後始末の差配をとるために離れていく斉明の背中を見送り、左手に握る太刀へと視線を落とした。
清和の太刀———竜王丸。
あんなに憎んだのに、あんなに苦しいと思ったのに、そして今もまた苦しみが甦ろうとしているのに、わたしは懲りていないのか。諦めるということが出来ないのか。
夜明けの原野で発した己への問いかけに、思わず嗤笑が漏れた。
たしかに、もともと諦めるのは得意ではないわね。
清和が云うように、私は馬鹿だ。どうして、あれだけの強い想いを憎しみにすりかえようとしたのか。
私は長らく自負していた。自分は強い人間だと。
———だが、違った。
私は、弱い人間だった。現実を受け入れられない弱さを持っていた。
愛を憎しみに変えなければ、生きていけないと思った弱い人間だった。
そしてこのままでは、また苦しみが続くだろう……私の恋は、まだ終わらせることができない。
***
旧本陣が炎上してから五日。
私や斉明は定匡殿に合流して、新しい本陣となった富野城で生活をしていた。正確には、富野城のすぐ脇にある聖徳寺という寺院とその境内を中心に陣幕を張った野営の陣だ。
富野城は叔父上が撤退する際に、かなりの損傷を残していったらしい。要害としてはかろうじて使えるが、身を置くには心許ない有様だという。ゆえに聖徳寺を借り受けて、実質的な本陣に据えている。
そんな限られた空間にあっても、急遽、私のための部屋が用意され、また新たに侍女まで雇い入れられた。
私のせいで城一つを焼失したというのに、斉明同様に定匡殿も定親殿も私を責めることはなく、むしろ危険な目に合わせ守りきれなかったことを詫びる始末だ。私の「人質」の性質を含んでいるにしても、本当に申し訳なく思う。
ましてや、これから私がしようとしていることを、口に出すのは躊躇われた。
でも、もう心は決まってしまった。あとは、行動に移すだけ。
ここ数日、本陣の様子を見ているが、なかなか切り出す機会は巡ってこない。でも今日こそは、と思っていた。これ以上遅らせると、時機を逃すことになりかねない。
ちょうど本堂では、定匡殿と充剛らが合議中だ。私はそれが終わるのを手持ち無沙汰で待っていた。
鐘楼の上り口に腰掛けて、薪の小さいのを投げ拾いする遊びで、小太郎と時間をつぶすこと四半刻。ざわざわと人の出入りする気配が伝わってきて、合議が終わったことを察する。定親殿とその腹心の数人が颯爽と出てきて、先陣へと戻っていった。
残る充剛たちが自陣へと引き取った後にゆっくりと話をしようと、そのまま彼らが帰るのを待っていたが、なかなか充剛たちは姿を現さない。それどころか、幕外から慌ただしく酒などが持ち込まれる様子を見て、やむなく私も幕の内へと顔を覗かせた。
すぐに斉明が私に気づき、定匡殿が了承している合図をくれたので、少し躊躇したもののそのまま中へと入った。あくまでも目立たないように、ひっそりと。
本堂の一番奥の座に定匡殿が着き、その隣には充剛がいて、何やら一方的に話しかけている。私の気を引いたのは、その充剛のすぐ横にぴったりと侍っている目つきの悪い男だった。ギラついた目をした、粗野で下品な男…青砥何某だ。あの青砥が、充剛の側近くに当然のようにいる。
果たして、充剛とあの男とはそんなに近しい間柄だったろうか? むしろ、充剛なら明らさまに下賤の者よと蔑んですらいそうだが……。
入り口近くに佇んだまま彼らを観察する私に、定匡殿のそばに控えていた斉明がこちらですよ、と着座を目配せした。
つられて充剛が私に気づいたが、わざと私の存在を無視するように定匡殿と何事か話し続ける。
へぇぇ……ここにきて、そういう態度に出るのね、充剛。
もとより充剛にもあの青砥にも近寄りたくない私は、どうしたものかとあたりを伺う。ちょうど幕の外に何かを指示して戻ってきた綱興の姿が目についた。そのまま目礼をすると、彼の方からそっと歩みよってきた。
「大変な目に遭われましたね。お加減はもうよろしいのですか?」
低く抑えた声音で、開口一番に私を気遣ってくれる。
黒田の一件で体調を崩して以来、会うのは久しぶりだった。旧本陣に一度見舞いに来てくれたが、あの時の私は生ける屍も同然だったので、実のところ何を話したかも覚えていない。
「おかげさまで、酷い火傷もなく済んだわ。前に見舞いに来てくれた時も随分と気遣ってくれたのに、なんだかすげない態度をとって申し訳なかったわね」
あの時の非礼を詫びる私に、綱興は恐縮する。
「沙羅姫様から、そのような言葉をいただいては……」
それから目元を和ませると、持ち前の爽やかな微笑を見せてくれた。
「大変な目には遭われたものの、なにやら生気を取り戻されたようで、この綱興も安堵いたしました。今日の姫様は、まこと姫様らしく目映いばかりですね」
定匡殿もかくやという台詞を臆面もなく口にできるあたり感心したが、それよりもよく人を診ている男だ。内心、舌をまく。
そして、そんな観察眼を持つ綱興だからこそ、私の疑問にも応えてくれるに違いない。
「ねえ、綱興にちょっと訊きたいことがことがあるのだけれど……」
「さて、私でお答えできる事でしょうか?」
「あの男の事よ。……何故、充剛の近くに、あの青砥とかいう男が侍っているの?」
見ると青砥はじっとこちらを見て、いやらしく口の端をゆがめている。
綱興は表情はそのままに一段と声を落として、やや早口に応えた。
「姫様のいる城が焼き討ちにあったという報せを受けて以来、殿は私や遊佐殿、黄瀬殿だけでは身辺心許ないとおっしゃって……」
綱興の説明によると、私が黒田の首を持って帰ったあと、情報が漏れている——しかも自軍からだということで、充剛はそれはもう怒り狂ったらしい。当然、徹底的に関係者をあぶり出してことの真偽を問いただし、場合によっては一族郎等制裁を加えるつもりでいたという。
しかし、炙り出す以前に、黒田を推挙した家臣が死体で見つかり、今度は一転、不安になったらしい。一族から裏切り者を出した責を負うての自刃と判断したが、真実そうと言い切るだけの材料にも乏しい。
そうして充剛は味方の中にあっても常にびくびくし始めた。いついかなる時、自分に刃を向ける者が出てくるやもしれぬと疑心暗鬼に陥った末、出自はともかく兎にも角にも腕が立つという理由で、青砥を用心棒のように側近くに置くようになった。さらに、旧本陣が焼き討ちにあってからは、片時も青砥が離れるのを許さなくなったという。
「充剛はあの男を信用しているの!?」
その驚異的なまでの愚かさに、裏返った高い声が出てしまった。しまったと口を押さえたが、もう後の祭りだ。綱興は慌てたように充剛と青砥の方を仰ぐ。案の定聞こえていたらしく、充剛が片頬をひきつらせた。
しかし、実際、阿呆すぎるだろう……と嘯くしかない。
黒田が情報を流していたのは、たしかなこと。それと同時に、黒田もむこうの情報をこちらに流入させていた可能性が高い。犬飼という男が何を企み、何を目的としてこの南山城の戦場に身を潜めているのかは未だわからない。が、黒田と犬飼がつながっていたことは確かであり、犬飼がこちらの西軍に潜んでいる可能性もある。そして、黒田を推挙した家臣が不審な死を遂げたということは、少なくともそれが可能な位置に、犬飼もしくはそれに近しい者が存在することを暗示している。
私は、青砥こそが犬飼——<狂犬>ではないかと疑っていた。嫌な奴だからという感情論ではなく、すみやかに黒田の推挙者を始末した点、そして今回の旧本陣の焼き討ちに関しても、青砥なら東軍の刺客に情報を流せる。あの赤目が狂犬の部下だったなら、なんとなく頷けるというものだ。
旧本陣に手薄な裏門から侵入し、表と裏を分断するように要領よく火をかけ、焦点を絞り私の部屋近くに潜み、実際に私の逃亡を阻止した。それを可能にするだけの情報を、兄上たちの東軍が持っていたとは思えない。
「やれやれ」
青砥がわざと聞こえるように、大きな声をあげた。
「林殿は、いったい誰のご家臣か。以前より、なにやら親しげであったが、こうしてみると傍目には沙羅姫の家臣のようですなあ」
その言葉に迎合するように、充剛が笑う。
「たしかに、沙羅は幼少より面食いだったから、綱興のような優男を側においておきたいのだろうよ」
かぶせるように青砥が「林殿、いっそ男妾になられてはいかがか」と軽口をたたいたが、誰も笑う者はいなかった。
充剛は面白くなさそうに私たちを見やり、ぼそりと吐く。
「綱興も、わしよりも沙羅がいいというなら何時でも暇を……」
その言葉にさっと顔色をなくす綱興をみて、
「充剛ぁああ!」
みなまで言い終わらないうちに、私は充剛を一喝していた。
「あんたがそんなのだから、あんたの軍は烏合の衆なのよ! 誰があんたのためにそれを纏めているか、もちろんわかって言ってるんでしょうね! 本当に大事な家臣は誰か、もう一度よく考えなさいよ。飼い犬に喉笛を食いちぎられないうちにね!!」




