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 幻のように見えた清和は、何も言わず、どこか切なげな瞳を私に向けていた。

 私の知らない瞳、表情。


 ———ああ、そうか……と思った。


 清和じゃない。清成殿だ。

 清成殿が迎えにきてくれたのだ。


 嬉しいような遣る瀬ないような、どうしようもない気持ちになりながらも、何故か笑みが浮かんだ。

 長く凍てついた心に、春の暖かな陽光が一条射し込んだようだ。


 ああ、今この瞬間(とき)だけは他の誰でもなく、清成殿に———清成殿のためだけに微笑もう。


 私は人生で最後の、けれど最高の微笑を浮かべた。

 もう声は出なかった。ただそれでも伝えたくて、唇を動かした。


「———ありがとう……」


 最期の時に、来てくれて。

 最期に、また会えて。


 清成殿は、虚をつかれたようにぼうっと立ち尽くしている。まるで、婚礼の日、初めて顔を合わせた時のように……。


 ずいぶん懐かしくて、切なくて……。


 だから私は、微笑みながら泣いていたのかもしれない。

 触れるほどそばに近づきたかった。でも、わかってる。それは決して許されない。

 私は清成殿ではなく、清和を選んだ。


 清成殿の姿は、煙にのまれて次第に遠く薄れていった。

 私は、このまま一人堕ちていくのだろう。闇の中、地の底に。深い罪の淵に。炎に焼かれながら。

 それでも、悔いはない。

 盲目の恋と知りながら、身を滅ぼすことを承知の上で、私は生涯で一度の恋を貫いたのだから。


      ***

 

 体中が悲鳴を上げていた。苦しい。

 地獄の業火に灼かれているのだろうか。これが、そうなのだろうか。

 誰かが遠くでわめいている。息をしろ、空気を吸え、と。


 息? どうやって? 呼吸の仕方なんて習ったことあったっけ?

 今はそんなこと考えられない。

 だって、それよりも苦しくて、我慢が出来ないもの。苦しい……誰か、助けて。


 地獄に堕ちて、なお助けを求める。罪を犯した自らを呪いながら、受け入れながら、しかし身を締めつけるこの苦しさは、生きていたあの時の苦しさとはまた違って……誰でもいい、神や仏でなくてもいい、助けてほしい。苦しい。


 不意に何か柔らかいものに包まれるような、ふわふわした不思議な感覚がした。波間を漂うように身を任せていると、それから間もなく胸を締め付ける苦しみから解放された。


 楽になっていく、死ぬのだろうか……?


 柔らかいものが肌に——唇にだろうか——触れるたびに、苦しさが遠のいていく。

 凄惨な苦しみから逃れて、ほっとしたのか……しばらくの間、意識が混濁していた。

 やがて土の冷たい感触にハッと目を開けた。

 真っ暗な中に、無数の小さな輝きが瞬いている。


 これは、何だっけ……。地獄……?


 仰向きのまま首をかしげた拍子に、柄杓(ひしゃく)の形に輝く七つ星の姿を捉えて、自分の見ているものが満天の星空であると認識した。

 同時に、しっかりと覚醒する。地獄に堕ちたのではない——私はまだ生きているのだ、と。


 ……ここは?


 (きし)むようなぎこちなさを感じつつ上体を持ち上げると、枯れた草むらの向こうに赤く染まる空が広がっていた。

 市辺城が……旧本陣が燃えている。


 出城の外? でも、どうして……? どうやって……。


 立ち上がろうとして動かした右手に、自然界には異質な硬く冷たい金属の塊が触れた。星明かりの下で、それが一振りの太刀であると知れる。かつては清成殿の分身のように、そして今や私の分身のように存在している黒漆の太刀——天王丸。


 またしても、私は混乱する。

 太刀を抜いて……刺客たちを討って、でも赤目という男を前に全てがどうでもよくなって………。

 記憶を辿ろうとするけれど、煙と同じように頭の中に靄がかかって、あの時のことを鮮明に思い出せない。


 ——そう、死を覚悟した瞬間、幻を見た。最期だと、微笑んだ。

 それから自力で……? いや、それは無理だ。もう、私は自分で動くことはできなくなっていた。

 そういえば、赤目は、いったいどうしたのか。


 不意に戦慄が蘇り、ざっと辺りを窺う。しかし、周辺には赤目はもちろん人の気配は皆無で、枯れ草が風にそよぐだけだった。


 幻ではなく、まさか赤目は本当に死んでしまった……? ならばなおのこと、なぜ私だけが———。


「ふ……うぅ………」


 思い出そうとするも、頭が痛んで思わずうめきが漏れた。深更の冷えた夜気に、白い息が拡散する。


 これ以上は、今は無理だ。整理できない。


 そして、訳が分からないながらも生きているのならば、私にはしなければならないことがある。

 斉明たちと合流しなければ。色々と心配しているはず……。

 立ち上がる支えにしようと天王丸を手にとって、しかし、そのまま私は硬直した。


 ———何かが、違う。


 微かな違和感に、しげしげと手の中の太刀を見下ろした。

 一見したところ、間違いなく清成殿の太刀——黒漆の天王丸だ。だが、感触が微妙に違う気がしてならない。

 火事で死にかけたせいで、私の感覚がおかしくなっているのだろうか。


 目の前に持ち上げて、右手で柄を握り、左手で鞘に包まれた刀身を切っ先に向かいするりと撫でてみた。そうして、違和感の正体に気づいた。

 指で触れることが出来る、鞘の表面にうがたれた傷。天王丸にはないはずの傷。それは、かつて私自身がもう一振りの太刀に穿った傷痕にひどく似ていて……。


 心臓が、どきり——と大きく鳴った。


 深く息を吸って、柄を裏返す。

 細川の松笠菱紋の反対側には、唯美な三日月の意匠が施されていた。

 天王丸の日輪ではない。

 太刀を持ち上げる腕の力が抜け、そのまま膝の上に太刀を下ろした。


 これは、清和の太刀……竜王丸?

 では、あれは———幻ではなかったの?


 同時にまざまざと甦る感触に、私は震える指先で唇を押さえていた。


 幻では……夢ではなかった? としたら、あれは……息をしろと怒鳴っていたのは清和の声。そして苦しみから解放されたのは、清和が口移しで呼吸をさせたから?


 やがて、身動ぎもできず、私は原野に悄然と(こうべ)を垂れた。


 どうして……清和が、私を……。


「———どうして……っ‼︎」


 もう二度と会わない———そう言ったのは清和の方。

 どうして助けたりするの⁉︎ 私はまた期待をしてしまう。

 拒絶されるとわかっているのに、期待をしてしまう!

 清和、あんたはずるい。また私を狂わせる。


 うつむいた両の眼から涙が溢れた。我慢できずに、それはやがて嗚咽となり闇のしじまに響いた。

 どうすればいいのか、わからなくなる。


 私の覚悟は……、

 清成殿の想いは……、

 愛は……、

 憎しみは……。


 ただ流れ落ちる涙が熱く、そしてまた凍てついていたはずの心もいつしか氷解し、今はおなじように熱く鼓動を、情熱を燃やし始めていた。

 柔らかな星明かりの下で、私は泣き続ける。答えを見出せないまま。


       *


 しばらく泣き続けたあと、私は出城の侍たちに発見された。

 裏門からしばらく下ってきたところに、焼け焦げた私の打掛を、その少し先に琵琶を見つけ、私にたどり着いたのだという。

 侍たちの報告を受けて駆けつけてきた斉明と合流する頃には、私もいい加減、冷静になっていた。

 夜明け前の原野に、私たちは互いの無事を喜び合った。


「消火にやっきになり、この斉明、姫様を避難させるのにおくれをとってしまい、申し開きもございません。慌てて姫様をお探しするも、城の中にお姿がないのでもうお逃げになったと思って外に出ると、誰も姫様を見ていないというではありませんか。肝を冷やしましたぞ。とにかく、ご無事でよかった!」

「都で火事には慣れていたから……こちらこそ、さっさと一人で逃げて申し訳なかったわ」


 刺客のことも、清和のことも今は話したくない。一人で逃げたことにして、言葉を継いだ。


「でもね、逃げる時に、誰か一緒だったような気もするの……市辺城に残っていた家臣たちは皆無事かしら?」


 私のいた付近で誰か何か見なかったかと訊く。だが、侍たちの中に特に何かを見た者はいないという。


「裏門の見張りをしていた侍二人の行方が知れず……あちこち声をかけていた折、裏門から黒い馬が駆けていったという者がおりましたが……」


 (うまや)から逃げたと思って追おうとしたが、火のほうが気になってやめたという。

 黒い馬は、黒帝だろうと思う。その背には、きっと清和が乗っていたに違いない。


 やはり、清和は来たのだ。


 私は確信する。

 私が脱ぎ捨てていた打掛で火を避けて、琵琶まで持ち出す如才なさはあの男らしい。とはいえ、さしもの清和も急いだために、太刀をとり間違えたのだ。


 いったい、何を考えて……。


 あの男の行動は矛盾に満ちている。

 でも、それは私も一緒か……。

 こちらには整合性があるつもりでも、相手にしてみたら、きっと理解できないのだ。

 清和には清和なりの理由があって、ここに来た。そして私を助けた。


「いやはや……」


 押し黙ったままの私に、何を感じ取ったのか。斉明は心底安心したように大きく笑いかけてきた。


「被害のほどは、鎮火してみないことには分かりませぬが、それでも<お方様>がご無事で何より。殿に危うく顔向けできなくなるところしたわい」


 私を気遣っての言葉だったが、その言葉が鋭く胸にささった。定匡殿との約束をここにきてようやく後悔し始めている。

 他人の手に、自分の運命をゆだねるなど、そもそも私の好むところではなかったはず。



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