七
「………」
ここで退いたところで、表からの火に捲かれる。柱や梁を伝う火の勢いは、思いのほか疾いものだ。
それに、この火事の原因が、もし私にあるのなら———ここは進むしかない。
打掛の中に抱くようにしてきた琵琶を、床に下ろした。ことりと乾いた音を立てて、愛しい楽器は独り寝となる。せめて、火の粉を被るのが少なくて済むようにと、肩からかけていた打掛を脱いで、その上にかぶせた。そして、琵琶よりもなお愛しく大切な黒漆の太刀——天王丸——の鯉口を切って、いつでも飛び出せる体勢で引き戸を開けた。
果たして、次の間には三人の男が待ち構えていた。
正面に二人。左脇に松明を持った一人。その松明の炎が天井を燻って、黒く嫌な煙を充満させていた。
いずれも見知らぬ顔だ。私を助けに来た六角の家臣ではない。
「東軍からの刺客か……」
確かめようと訊ねたのではない。独白に過ぎない。だが、律儀にも正面の一人——覆面で口元を隠した男——が頷いて返した。
そうか。ならば仕方ない。
鞘から天王丸の冴え渡る刀身を抜く。と同時に、私は部屋に飛び込んだ。慌てて退路を断つように、松明の男が間を詰めた。
「畠山の沙羅姫、にござるな?」
左手に松明、右手に抜刀した太刀を構えて、男は太刀越しに口を切った。
「もう、<畠山>と名乗るつもりもないけれどね……ここに火を放ったのはお前たち?」
私の問いには答えるつもりがないらしい。言葉を発しない刺客たちだが、その代わりか、いずれも緊張した眼は充分に殺気を発していた。
「さすがに兄上じゃないわね……叔父上のところの武将、よね? 私ひとりのために夜討ち、しかも城に火をかけるとは、随分とセコイ真似をする」
声音に嘲笑を感じ取ったのか、正面にいた覆面とは別の男が「黙れ!」と激した声を上げた。
「もはや貴様は宗家の姫ではなく、ただの裏切り者!」
太刀を振り上げ、真正面から一気に踏み込んできた。その正直な斬撃を受け止め、背後の松明の男を視界の端に収めつつ、私は正面の男と組み合ったままじりりと一歩右足を退いた。
打掛を脱いだ私は白練りの小袖姿だったが、この期に及んでは是非もない。小袖の裾をさばいた次の瞬間、右脚を膝からぐっと振り上げた。腿の中程まで白い肌が露わになるが、躊躇なく、組み合う男の股間を蹴り上げる。
男は私の攻撃を予想もしなかったのか、もんどりうって倒れた。代わりに、覆面の男と松明の男が同時に飛び込んでくる。
とっさの判断で私は二歩左に踏み込んで、松明の男の太刀を躱した。返す刀で下から切り上げ、切っ先で松明の外半分を斬り飛ばす。火の粉が激しく舞い上がり、視界を一瞬、眩く朱く染める。
怯えてはならない。その火の粉の中をくぐり抜けてくる覆面の男の太刀を受け止めなくては。
こちらからも踏み込んで、激しく太刀がぶつかった。火花が散る。もう一歩踏み込んで、押しもどす。意外にも、覆面の男は素速く後方に飛びのいて、私との距離をとった。
火の粉が消えて、最初より幾分薄暗い部屋になった。
低いうめき声を上げながら、倒れていた男が立ち上がった。太刀をゆらりと構えて、再び三対一の睨み合いとなる。
出来ることなら、最初の男にはそのまま倒れていて欲しかった。倒れた男を連れて、残りの二人が引き上げてくれることを、私は甘く期待していた。
戦いを恐れるほどに強い相手ではない。ただ、東軍……かつての身内を傷つけたくないと思う気持ちがあった。私自らが裏切り者であることを、自覚してるが故に。
殺されるわけにはいかない。しかし、殺したくもない。
隣の間から、忍び寄るように煙が流れ込んでくる。だが、まだ火は見えない。
逃げ道を探る私の前に、再び最初の男が立ちはだかった。
「実の叔父や兄を危機に陥れ、自分ひとりだけ六角定匡に取り入って身の安全を買ったな」
切っ先を向けたまま、男は頬をひどく歪ませた。
「その綺麗な顔で、穢れのないような体で、閨で六角定匡に何を囁いている? 昨年の今頃には細川に嫁ぎ、つい十月前にはその夫を西軍のせいで失ったというのに、今はのうのうとその西軍の一大将について、こんな戦場にまでついてくる卑しい女め!」
吐き捨てられた言葉には、私の迷いを振り切るだけの威力があった。
応えるかわりに男の懐に飛び込み、その喉元を刺し貫いていた。まだ何か悪態をつこうとしていた男は目を見開いて、悪態のかわりに血を吐き、絶命した。
もう、後には退けない。お互いに。
「何も知らないくせに……知ったようなことを言うな! お前たちに何がわかる!」
好んで敵になったわけではない。一つにはお前たちが……父上たちが私を追い詰めた。
だが、敵となるもやむなしと選択したのは確かに私自身だ。あの男を細川に連れ戻せるなら……もう一度、妻として、あの男とやり直せるなら、そのためなら、何もかも捨てて裏切り者になってもいいと思った。
残った二人を前後において、太刀を構える。死んだ仲間をみていささか青ざめる松明の男と、まったく動じた様子のない正面の覆面の男。出来るのは、覆面の男だと読む。その上で、どちらから片付けるか。
じりじりとすり足で出方を考えていると、遠くから斉明の私を呼ぶ声が聞こえた。ここだと叫べば、斉明はすぐさま駆けつけて加勢するだろう。だが、私は返事をしない。ここは、私一人でけりをつけたかった。
何の拍子でか、ぶわりと煙が降りてきて、目をやられた。片目を閉じて、涙に滲む視界で敵を捉える。正面の覆面の男が動いた。大きな掛け声と動作で前へ出るように見せかけて——、けれど私にはそれは通用しない。その動きは囮で、松明の男への合図だ。果たして、横から打ち込んできた松明の男を、私はあっさり斬り倒した。松明が床に転がり、柱に燃え移る。絶命はしてないだろうが、これからの火の中では助からないだろう。転がった太刀を松明のそばに蹴り飛ばし——、そして私は奥へと続く部屋の前で、最後の男と対峙する。
煙だけではなく、隣室から炎がちらちらと見え始めていた。斬り倒された松明の男が、仰向けになって呻く。
「あ、あ、赤目殿、裏切り者の首を……と、殿の、御前へ……」
そして虫の息で、沙羅姫……貴様も道連れだ、と嗤った。
本当ならこんなところで会うはずのなかった東軍の武者を一瞥して、赤目と呼ばれた覆面の男へと視線を戻した。出来る男だ。無駄に口も利かない。というか、この状況で口を開くのは、煙を吸うだけでおろかだ。徐々に勢いを増す煙と炎のせいで、呼吸するのも苦しい。
しかし———。
本当にそのせいで苦しいのか? それとも……。
思えばこれまで、私は<死ぬ>という選択を考えたことはなかった。
生きていることを煩わしいと思うことはあっても、積極的に死を選びはしなかった。報われることがなくとも、憎しみしかなくとも、この先も私は生きていかなければならないと思っていた……。どんなに苦しくとも。
なぜ、<殺されるわけにはいかない>と決めてかかっていたのだろう。苦しみから解放されるのに、死という選択がないわけではないのに。
不意にすべてがどうでもよくなった。
心が冷え冷えとしていることに気づいた。
そうだ、私の心はもう凍てつき、あるいは粉々に砕け、あるいは壊死しようとしている。そんな心を抱えて、いったい、どうするつもりだったのか。
赤目は目を細めて、私を見つめた。口元を隠した覆面の下から、くぐもった声で問いかける。
「どうなされた? まだ戦いは終わってはおりませんぞ」
右手の太刀を正眼にして、一歩前に間合いを詰めてくる。それをぼんやりと見つめて、このままここで殺されるのも悪くはない、と私も覚悟を決めた。
したたかに血を吸った天王丸をびゅんとひと薙ぎする。血振るいしても落ちない脂は、左袖に挟んで拭い去った。それから左手で握りしめていた鞘を目の前に持ち上げ、ゆっくりと刀身を収める。
赤目は怪訝そうにそれを見ていたが、やがて小さく頷く。
「そうですか、意外と諦めがよろしいようだ。さすがは、名門の姫君……」
独り言のような呟きを耳に、両手に天王丸をしかと握りながら、私は思う。
———死んだら、清成殿に会えるだろうか?
優しい清成殿だから、迎えに来てくれるかもしれない。しかし、たとえそこで会えたとしても、清成殿と同じところにはいけないだろう。彼はきっと極楽浄土にいる。私が行くべきところは……地獄だろう。
———いいじゃない。それを後悔はしていない。それを覚悟の、恋だったもの。
一歩一歩近づいてくる赤目の姿を静かに捉えながら、私はいまだ心が凍てついているのを実感する。恐怖すら感じない。それどころか、煙が天井に渦を巻き、炎による熱気があたりを満たそうとしているのに、熱いとも感じない。ただただ、苦しい。
もう間合いに入るというところまで、赤目は近づいていた。奴の太刀を握る右腕が緊張しているのがわかる。
地獄に落ちるのはかまわない。今よりひどい苦しみを想像できないし。
でも、その前に出来ることなら………
———清成殿、私を迎えにきて。
清成殿に会いたい。会って詫びたい。
———私はやっぱり、清和が好きで、好きでどうしようもなかった、と。
赤目の右腕が、私の覚悟と呼吸を合わせるように振り上げられた。頭上で左手を添え、一気に振り下ろす!……はずが、むだに一拍おくように、赤目はびくりと上体をそらした。
頭上に太刀を構えたまま、赤目の視線が自身の胸におりる。私も何気なくそれを追う。そして、知らず震えた。
赤目の左胸には、赤黒く光る刃が生えていた。刃先が不気味に向きを変えた次の刹那、姿を消す。そのままの姿勢で振り向こうとして、しかし持ち堪えきれず赤目は崩れ落ちた。
赤目の背後にみえたのは、清和の姿だった。
もうもうと広がる煙に呑まれるようにたたずむ清和の姿は、あの吹雪の中の姿に重なる。
———清……和……?




