六
*
—————それから十日。
弥生に入り——畠山でも細川でもない、六角の陣中で——私は琵琶を掻き鳴らしながら、桃の節句を迎えていた。
取引の日から間もなく、定匡殿の取り寄せてくれた六角家の琵琶・朱雀を手にして、私の思考はめでたく停止した——はずだったのに。
「人は、楽器のように便利にはできていないのね」
どこか壊れても……たとえば心が凍てつき、感情らしきものを失っても、すぐに回復はしないし、元のようになるとも限らない。逆に壊そうと思っても……記憶や思考を封じようとしても、封じきれない。
掌に滲んだ血を懐紙で拭い、新たな一枚でそっと顎の下を押さえた。
ふうっと息を吐き、それまで殺されていた感覚を呼び覚ます。
あたりには高貴な伽羅香の匂いが漂い、すぐそばの懸け盤の上には手をつけていない生菓子——引千切——がひっそりと用意されていた。以前にもまして戦場ではなく、都にいるような錯覚を覚える。私を気遣った定親殿が届けてくれた香や季節の菓子だ。
定親殿のほかにも、ここ数日、綱興や充剛ら大勢が見舞いに来たり、見舞いの品をよこしてくれた。
誰もが一日でも早く、私が元気を取り戻すことを願ってくれていた。その気遣いを否定はしない。だが、気遣ってくれる者たちは誰もが、なぜ私が伏せるに至ったか、その本当の理由を知らない。
自らの手を血で染めたことはたいした問題ではない。それよりも、凍てついた心が、そのまま壊死してしまいそうなことが問題だった。永遠の苦しみを内包したまま。
今もまた、言いようのない苦しみが私の心を支配しようとしてる。琵琶の音にかわり繰り返し反復する記憶は、壊死寸前の心を、その先に待ち構える地獄の闇へと引き込もうとしている。このままではまずい。思い出すことを、考えることをやめなくては……琵琶の音を……かき鳴らして……。
ビィイン……
不意に耳朶の奥に甦った旋律が、『月花』の一節に重なり、あの男とそっくりの姿を思い出させた。あの男のことを思い出してはいけない。けれど……、そのためにもう一人の影を消し去ることは罪な気がした。
ちょうど一年前、桃の節句を少し過ぎた日だった。曼殊院の呼び出しに疲弊していた私を助けに、あの人はやってきた。実家からの引千切を勧めたら、春の貴公子のくせに、やけに珍しそう眺めていた姿を今でも覚えている。『雪月花』を聴くだけと思っていたのに、まさか一緒に演奏するなんて———。
あの『月花』は……連弾は、もう二度とできない。
あの人には、もう二度と<会えない>———この世では。
もし、私がもっと早くに気づいていれば——二人は別人であると気づいていれば、結果は変わったのだろうか。
あの人——清成殿は、死なずにすんだ?
もし、清成殿が生きていたら、色々な相談に乗ってくれたのだろうか?
うん。きっと、乗ってくれたに違いない。文にも綴っていたもの。でも、解っている。それは残酷なことだ。
清成殿は私を好きだった。
にもかかわらず、優しい清成殿は自分の気持ちを殺して、私のためにあの男の心を変えようと手を尽くしてくれたに違いない。私と似ているという、あの男の心を。
いや、それとも……私のほうが変わった? 私が変心することもあり得たのだろうか。
備前の地で、清成殿と生活していたなら……それまでとは全く違う未来がひらけていた?
すべては仮定の話だ。結果が変わったか、そんなことはわからない。——理解している。ただ私の中にある清成殿への罪悪感がそう思わせるのだ。
『月花』の旋律を追いかけるうちに、ふわりと近くに清成殿がいるような気になる。心地よい連弾が耳の奥に響いていたが、それがふと止んだ。
振り返ると、部屋の入り口に斉明が控えていた。
「何やら物思いにふけっておられたようでしたので、お声をかけずにおりましたが……」
邪魔をしてしまったかと恐縮する斉明に、そんなことはないと鷹揚に笑って、中に入るよう促した。
「さっそく直してくれたのね」
その手に抱えられた琵琶を指すと、斉明はそうでしたと朱雀を差し出した。顎に当てていた懐紙をさりげなく袖の中に収めて、ゆるゆると琵琶を抱き取る。
張り直された弦をついとひとなでして、今し方の追憶の曲を奏でてみた。けれど、一人で弾く月花には、もはや清成殿の気配を感じ取ることはできなかった。一段弾いて撥を置いた。
まるで猫のようにじっと耳を傾けていた斉明が、軽く身じろぎをした。しかし、そのまま表に戻る様子はない。
「手間を取らせて悪かったわね。兵具の手入れをしていたのでしょう?」
「なに、ちょうど終わるところでした。それにご報告もございますので」
あの取引の夜から約二週間。定親殿の調略以降も、六角と充剛の軍は着実に東軍畠山を追い込んでいた。東軍の前線となっていた砦を二つと出城を一つ落として、三日前には本陣をさらに先に置くため、定匡殿も前線へと出て行った。
私はそれを見送って、この市辺城——旧本陣に残った。結果的に、守役の斉明もここに残された。槍も刀も出番は当分お預けになる。
「殿は富野に本陣を敷き、寺田城に引いた畠山頼忠殿の軍八千と睨み合う形になりましたぞ」
敵対するは頼忠叔父の軍ときいて、私は小さく頷いた。定匡殿は狂犬よりも先に、正体のわかっている影武者を討つつもりでいるのか。凍りついた胸に、またしても微かな軋みが生じる。
「それにしても」
出し抜けに斉明の明るい声が響いた。
「<お方様>の琵琶はすばらしいですな。なんだかこう、胸にじぃんときますわい」
私はわざとらしい苦笑をして返す。
「<お方様>はまだ早いわ」
とはいえ、斉明はもうすっかり私が正室におさまると決め込んでいる。
定匡殿は前線に出向くまでは、時間さえあれば私のところに顔をのぞかせて、他愛のない話や謎々をのこしていった。軽率なまねや私的な話題は一切なく、ただ私が「何か」を思い出すのを避けるための時間を作ってくれていた。本当にオトナで、計算ずくにしても、よい人だと認めないわけにはいかない人物だ。そんな私と定匡殿のやり取りを斉明は知っている。
「すでにご承知かと思いますが、我が殿は真実有能な方にございます。一度狙った獲物を逃すような方ではございません。この戦が終わる頃には沙羅姫様の本懐をとげていましょう。ゆえに、姫様は間もなく本当の<お方様>ですよ」
まるで我がことのように、斉明は自信満々に笑う。
「定匡殿が有能であることは十分に存じているわ。でも、定匡殿や斉明はよくても、ご側室の方々や定親殿はどうお思いかしらね」
「みな殿のお決めになることに否やはござりません。それに沙羅姫様の為人はすでにしれておりまする。六角に姫様を厭う者はおりませんぞ」
斯様なまでに六角の人々に望まれるのであれば、取引など待たずに正室におさまってしまえばいいではないか、とささやく声が聞こえてきそうだ。
軽口ついでに、充剛殿などはいかほど悔しがりましょうや、などとのたまって、斉明は腰を上げた。
「さて、もう夕餉になりまするな。様子を見てきましょう」
戦陣とはかけ離れた、穏やかな夕暮れ。
取引とはいえ、一度覚悟を決めた私には不安はない。自らの小舟の櫂を、定匡殿に預けたのだ。その行方を心配する必要もない。
斉明の言うように、定匡殿は遠からず約束を果たすだろう。だから私は、憎んだ男が討ち滅ぼされるのを待ち、しかるのち定匡殿を愛せばいい。
定匡殿は包容力があり、私を不安にさせない。無謀な行動にも走らせない。もちろん、争いにもならない。今度こそ、私は幸せに穏やかに生きていける。かつて兄上が私に望んだように、定匡殿のそばにいれば私の男の気性は消えていく気もした。
朱雀の琵琶を抱いたまま、幸せを夢想したその夕べ、しかし、運命は私に残酷だった。凍てついた心を溶かしたのみならず、いま再び、一度は消えたその情熱に火をつけた。
***
何かの常ならぬ気配を感じて、私は目を覚ました。
みなが寝静まる夜も更けた時分だった。
———なに? 匂う……? きな臭い……?
はっとして、夜具を跳ね除けて飛び起きる。真っ暗な部屋の中にじっと目を凝らせば、天井の梁のあたりをうっすら煙が漂っている。
火事だと気づいて、とっさに枕元に備えていた黒漆の太刀———天王丸を手に取り、夜具に重ねていた打掛一枚を羽織った。次いで部屋の隅の琵琶を抱える。
身を低くして中庭に面した簀縁へ出ようとしたが、とっさに踏みとどまり、くるりと方向転換した。煙の流れからして、どうやら表から火が回っているようだ。耳をすませば、表のほうから人の怒声のようなものも聞こえてくる。
この分では部屋から部屋を抜け、まだ火の回っていない奥の間から裏に出ることが最善の選択と見た。
京の都にいた頃、火事にあうこともままあった。何事も経験に勝るものはない。
表に近い部屋にいた者たちは、大丈夫だろうか? 下手に火消しなどせずに、さっさと逃げ出してくれているといいが……。
奥に向かい二部屋を抜けるが、家人の気配はなかった。旧本陣となった時点で、ここに残った人員はごくわずかだ。里の者は毎日通ってきているから、今は案ずる必要はない。
ならば、裏へはこのまま私一人が抜ければよいか……。
被害の規模を想定しつつ、続く部屋の引き戸に手をかけた。
なぜだろう。ピタリと足が止まった。
本能か、あるいは経験がそうさせたのか。
次の間に火の手はない。だが、微かにもれ出る灯りは、そこに何者かの存在を告げ知らせていた。




