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 我が声ながら、天気の話をしているように淡々と響いた。


「は……⁉︎ いや、まさか……」


 身を乗り出した綱興は、次の瞬間声を無くした。その両眼はいつもより大きく見開かれ、斉明同様に見知った男の首に釘付けになっていた。綱興と同じ西軍・畠山充剛の軍に属する男——黒田の首に。

 さすがというか、定匡殿は落ち着いたものだった。


「もう一つは、何者ですか?」

「東軍の間者みたい。名前は何と言ってたか……よく覚えてないわ。人気のない古社でおち合って、情報を交換するところを私に見られて……襲いかかってきたから、止むを得ず返り討ちにしたの。悪く思わないで」

「それは、致し方ないこと。いやむしろ、貴女がご無事で何より。二人の他には……?」

「………二人だけだったわ。だから、何とか討ち取れた」


 瞼の内にちらついた第三の影を払うように瞬きをして、私はいくらか早口で言葉を継いだ。


「私の心配より、この戦の心配をしたほうがいいわ。これまでの情報は、黒田を介してすべて東軍に漏れているとみたほうがいい」

「なっ……!」

「黒田が⁉︎」

「一体、どうやって黒田を……」


 首の正体が黒田と知れ、遠巻きにしていた家臣たちが私へと詰め寄ろうとした。その圧を前に、私は不意に吐き気を覚えた。急速に増した生者の熱量を感じとって、胃の腑のあたりから溶け出した何かがむっとこみあげる。微かにではあるが、感覚が正常に戻りつつあるのかもしれない。


 そもそも、人を殺しておいて、具合が悪くならないわけはない。それもあれほどの返り血を浴び、首を断ち落として。でも、それだけではない。それ以上に———あの男に拒絶されたことが、私を弱らせている。私を、常ならざる状態に追い遣っている。

 顔をそらせて生唾を飲み込んでいると、見兼ねた定匡殿が素早く一歩前に出て、私を庇うように手を差しのばした。家臣たちを遮り、私たちとの間に距離を設けてくれる。


「詳しい話はまた後で伺うことにしよう。まずは、穢れを落として休まれたほうがよい」


 私を連れて本陣に戻るように斉明に指示する定匡殿の声が、次第に大きくなる耳鳴りにとってかわられ聞こえなくなった。どうやら、私はそこで意識を失ったらしい。


      *


 後で医師に知らされたが、この時の私には予定よりも半月も早く月のものが訪れていたらしい。もともと周期の乱れがない私にとっては珍しいことだった。それもあり、心身ともに具合は悪いまま、私は本陣(市辺城)の一室で寝込んでしまった。


 そうして私が寝込んでいる三日のうちに、定匡殿は急遽この戦を進めた。

 本当はもう少し期が熟すのを待つつもりだったが、情報が漏れているとあっては愚図愚図もしていられなかったようだ。これまで定親殿が水面下で仕掛けていた調略により、東軍側についていた国人衆が寝返ったのだ。結果として、味方の予期せぬ裏切りにより、叔父上の東軍は水主城を含む三つの城を捨てて、義貴兄様の陣まで退却することになった。


 その勝利は粛々と調略を仕掛けていた定親殿の功績であり、むしろ本来であればもっと時間をかけてより六角に有利な形での勝利をもたらすはずのものだった。が、これまでの膠着に苛ついていた、なかでも物事の表層しか見ることのできない西軍の一部の者たちは、私が間者を討ったおかげと喜んだ。


 私が勝利の知らせを聞いたのは、意識を取り戻した日の夜だった。

 斉明が語る此度の戦の顛末を、私は死人のように天井を見上げてただ聞いていた。体は温もりを取り戻しても、心は凍てついたままだった。喜びも悲しみもない。思い返せば、定匡殿の安否すら訊ねることをしなかった。

 それなのに、黒田の身元については確認をせずにはいられなかった。


 連絡係をしていただけあって、黒田の身元ははっきりしていた。新参者ではあるが、充剛の家臣である郎党の筋という触れ込みだった。しかし、その黒田を推挙したという家臣が直後に死体で発見された。先手をうたれて口をふさがれたのか、自らも裏切りに(くみ)していて自害したのか……。


 戦勝の知らせから間をおかず訪ねてくれた定匡殿の報告を聞きながら、いずれにせよ、そこで<狂犬>——犬飼とのつながりは絶たれたということか、と私は独白する。

 あの男の努力は水泡に帰した。


 あの日の、

 あの場の、

 あのやり取りが———、

 凄まじい勢いで脳裏に甦り、私は激しく瞬きをする。


 ———だめだ。思い出してはいけない。


「沙羅姫……?」

「なんでもありません。何か眼に入ったような気がしただけです」


 一週間ぶりに床を払い、私は姫らしい打ち掛けに袖を通して定匡殿と対面していた。中庭に面したこの空間だけは、本陣にありながら戦の気配(いろ)があまりに薄い。

 宵の刻限でもあり、妻戸の外にはひたひたと闇が忍びよっている。その闇の気配に便乗するように、それとも戦場とはかけ離れた京めいた佇まいが無意識に呼び起こしてしまうのか……再び脳裏に甦ろうとする男の姿に、私は組んでいた両手を強く握り締めた。氷ったまま心臓に何度も執拗に楔を打ちこむように、苦しみと痛みがじりじりと戻ってくる。

 黙って私を見舞っていた定匡殿は、やがて一つ大きな溜息をこぼした。


「どうやら私は、貴女を見くびっていたようだ。本気でその手を血で染められるとは……」


 その言葉には私を責めるよりも、どこか定匡殿自身を責める響きがあった。

 何があったのか、あえて問うてはこない。が、私が黒田ら裏切り者を処分した、その前後にも何かしらの事があったのだろう、とすでに彼は察している。しかし、私は頑なに口を割らない。

 定匡殿を信用していないからではない。あまりに私的で、秘密裏で、何よりも私には残酷な結果を———他の誰にも知れらたくないからだ。

 それを定匡殿が、己の責…未熟さゆえであると思うのなら、あまりにも申し訳ない。


 微かに唇がわなないて、言葉が溢れかけた———が、歯を食いしばりそれを抑えた。握る拳と同じく、口を開けばあの男の記憶をこの場に呼び覚ますことになりそうで、できない。

 そんな私を見定めて、ややして定匡殿は老獪な提案をよこした。


「こう見えて、私は取引(ビジネス)上手なのですよ。貴女がこれまでになく弱っているところに付け入ることを承知で、私は貴女とある取引をしたいと思っている」

「……取引?」

「貴女はご自分の命をかけてまで、亡くなられた夫君の(かたき)を取ることを望んでおられる。私としては、貴女にはどうしても死んでほしくはないし、貴女ほどの人が今は亡き人に囚われ続けるのも口惜しい。そこで、私は貴女の望みと私の想いをいちどに成就させる妙案を思いつきました。すなわち———この六角定匡が貴女に代わり細川清和殿の仇をとるという策です。……無論、これは最初にお話しした通り取引ですから、無償(ただ)というわけにはいかない。故に、仇を討ち取った暁には、沙羅姫にはこの六角定匡の正室になってはいただけまいか。万一、此度の戦で仇と(まみ)える事が叶わずとも、この定匡、生涯かかって必ずや貴女の悲願を果たしてみせましょう」


 そのもちかけに、私はじっと定匡殿をみつめた。

 まるで私以外のすべてが結託しているようだ。


 あの男と、同じことを云うのね……。


 取引と言いながらも、其のじつ篤い申し出だ。私の目標も計画も、すでに消失したに等しい。六角にいる意味も価値もない私を、ここまで必要としてくれるなど……。

 心が打ち震えて、人らしく感涙に咽ぶことができればどれ程よかったか。

 しかし、相変わらず私の心はいまだ、凍てついたままだった。たとえ、計算尽くの打算的な想いであっても、真心から寄せられる好意であったとしても、この時の私には何も感ずるところがなかった。

 望むものがあるとすれば、ただ一つ。

 私は重い口を開く。


「狂犬に加えて、もうひとり、首を取ってくれるなら——」

「もうひとりとは?」

「……役目を果たせず細川を追放された夫の影武者が東軍畠山にいるのです。片桐と名乗るその男の首もとってくれるなら、この取引に応じてもいいわ」


 ついと眉を上げて、意外そうな顔をしたものの、


「悪くない条件だ。———取引成立ですね」


 と、その場で定匡殿は私との交渉を結んだ。

 判断力も決定力も、この人らしい鮮やかさだった。

 それに比べて、私は……。


 私の恋は破れた。もう二度と会うことはない……とあの男はいった。もはや細川清和の妻という肩書きも必要ない。愛はすでに憎しみに変わっている。だから———あの男の目論みどおり、私は六角定匡の正室となる。あの男の首と引き換えに。苦しみから逃れるために。


「皮肉ね」


 小さく呟いた言葉は、定匡殿の耳には届かなかったらしい。

 上々の取引に気を良くしたのか、体を大きく揺らせて定匡殿は立ち上がった。


「今はまず、しっかりと休んで沙羅姫には元気になっていただきたい。狂犬と影武者の首は、この私が必ずや討ち取って参りましょう」


 それまではここでのんびり待っているよう残し、満面の笑みを浮かべて定匡殿は去って行った。

 その背を見送る私の心に、良心の呵責などなかった。

 今は何もしたくないし、考えたくもない。

 それなのに、一人になったその瞬間から、寄せては返す波のように、記憶が……思考が、押し寄せてくる。いっそ、この世界が滅んでしまったらいいと思いながら、その場に座したまま瞳を閉じた。

 もう、あの男のことだけは考えたくなかった。



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