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      ***


 家伝の琵琶曲———『雪花』の旋律が、耳朶に鳴り響いていた。

 ハラハラと舞う風花が、いつしか猛烈な吹雪と化し、その果てには白い雪原へと至る。……あの日のように。

 琵琶をかき鳴らす手が、一瞬だけ、行く方を見失う。


 私は、いま何をしている? どれだけの時間が経った?


 現実に戻りかける意識と、それを許さない自我の刹那の鬩ぎ合い。勝利したのは、後者だ。あの日以来、常にそうだった。

 (ばち)は再び、我が身に長く深く染み付いた旋律を追い始める。

 そう、今は『雪花』を奏でるより他にできることはない。それ以外に、思考を拒む術を持たない。


 定匡殿がわざわざ六角から取り寄せてくれた琵琶——朱雀——は、母上の琵琶(初瀬)よりも少し大きく、音色も低く男性的な響きだ。とても良い琵琶だった。おそらく六角家でも代々大切にされてきた名器なのだろう。それを、こんな戦場に惜しげもなく持ってこさせるなんて……定匡殿は本当に人がいいのか、計算高いのか……。


 でも、そのおかげで、人の感情を持たぬ雪女……あるいは魂の抜けた屍同然だった私は、息を吹き返した。人に戻った——ように振る舞うことができた。少なくとも、起きて、食事をして、琵琶を弾いて、そして眠ることを、私の身を案ずる人々に見せることができた。


 油断すると永遠に反復するあの日の記憶を封じるために、夜も昼も朱雀をかき鳴らし続けた。おかげで、かつてない境地に達した。琵琶を弾いてなくても、常に耳朶にその音色が響きわたるほどに。

 食事をしている時も、眠っている時も、一時も絶えることなく、琵琶の調べが響きわたる。

 そうして私の思考は停止した。

 勿論、わかっていた。現実の時は滞りなく進み、私だけ止まっていることは許されないのだと。

 あの男が死んだと思った、あの時と同じように。否———あの時よりも、状況は悪いのかもしれない……。


「——っ⁉︎」


 撥に違和感を感じた。

 摩耗した弦が切れて、その切れ端はここまでの酷使を恨むかのように、私の顎先をしたたかに打った。


 目を醒ませ。もう分かっているはず。いつまでも逃げることは出来ない——。


 朱雀が私に(さと)しかける。顎の下が、チリリと火傷のように痛んだ。


 そうか……。


 宙に垂れたその弦を無言で見下ろしながら、私は自分の覚醒を知る。

 もう、逃げ続けることは許されない。その証に、もはや私の耳には琵琶の音は響かない。この十日余り耳鳴りの如く続いたあの音が止んでいる。

 代わりに、小走りに近づいてくる足音を、我が耳は拾っていた。私のために雇われた侍女の足音だ。里の娘だから、宮仕えのような優美さはない。

 その足音は私の部屋の入口の少し手前でたたらを踏むように止まり、一拍置いてから静々としたものへと変わった。ややあって、ひどく遠慮がちな声が届いた。


「あのぅ、姫様……どうか、されましたでしょうか?」

「っあ、ああ……」


 久しく口をきいていなかったせいか、喉に引っかかったように声が詰まった。咳払いをして早口で続ける。


「大したことではないわ。弦が切れてしまったの」

「そうでございましたか」


 どこかホッとしたように頷く侍女に、私は訊ねる。


「斉明はいるかしら?」

「へぇ。確か、表にて兵具のお手入れを……」

「では、斉明に頼んで、誰かに弦を張り替えてもらって」


 畏まりましたと頭を下げ、侍女は私の差し出した朱雀を恭しく両手で受け取る。そして顔を上げた際に「あっ」と声をあげずに口だけを開けた。


「……なに?」

「あの、その……恐れながら、姫様のその、玉のようなお肌に……」


 しどろもどろになりながら、侍女は私の顎の下に血が滲んでいると訴えた。先ほどの弦がつけたものだろう。


「急いで、お手当てを……」

「いらないわ、擦り傷よ。それよりも早く琵琶を直してきて」


 ぴしゃりと言われて、侍女は素直に従った。両腕に朱雀を抱えて部屋を出て行く。

 その後ろ姿を追いながら、私は右手をそっとヒリつく顎の下に当てた。ややして離してみると、掌にうっすらと一筋の紅い痕がついていた。小虫に刺されたのとかわらないほんの擦り傷だ。手当ては必要ない。擦り傷など、いずれ自然に癒えて塞がる。


 でも、心の深手は———。


 滲む血の色が、あの日流れた真っ赤な血を思い出させる。

 琵琶を手放した時から、私の記憶はそれを手にする前に戻っていた。


      *


 あの日———。


 まるで一時の悪夢であったような吹雪は、その始まりと同じように唐突に止んだ。

 西の山際に沈みゆく太陽がその日最期の輝きを強く放ち、雪に覆われた辺り一面の原野を黄金に染め上げていた。極楽浄土を思わせる、この世とは思えぬ美しい景色だった。すべての業が真っ白に、神々しく清められたようだ。

 その静謐で厳かな世界の中を、私は小太郎に先導されるように、ふらりふらりと歩いていた。

 黄金に輝く清らかな世界は、しかし確実に俗世に通じていて、視線の先にはぼんやりと先陣にそびえる櫓が見えていた。キュッと軋む音を立て、私は雪の中に立ち止まる。


「ああ……帰ってきたのか」


 無意識に呟いていた。小太郎がそんな私を、また心配そうに振り返った。

 ここまでどこをどうやって歩いてきたのか、記憶は(おぼろ)だ。ただずっと目の前を、何度も何度も振り返りながら小太郎が歩いていた。小太郎がいなければ、私はあのまま吹雪の中で、あの古い社で、己の業とともに雪に埋もれていたのかもしれない。小太郎に励まされるようにして、何も考えず、ただその小さな茶色い背を追ってここまで帰ってきた。


 だがひどく疲れて、もう歩きたくないと思った。一度止めてしまった足を前に出すのが、億劫で仕方なかった。その思いを汲んだように、小太郎が(やかま)しく吠えながら雪を蹴り上げて、桝形門へと続く道なき道を駆け上がっていく。ぼんやりと小さくなる茶色い塊を目で追っていると、門の中からわらわらと人が出てきて、茶色い塊を取り囲んだ。かと思うと、次の拍子には一斉にこちら目がけて駆け出していた。


 ああ———、帰ってきて……しまった。


 それは安堵ではなく、後悔あるいは慙愧に他ならなかった。

 もう、帰る必要はない場所だったのに。もう、ここに私がいる意味も価値もないのに。

 立ち尽くす私に、男たちは口々に雄叫びをあげながら駆け寄ってきた。


「姫様、姫様! ああ、ご無事で何よりっっ……おうっ」


 勢いよく先頭を走っていた斉明が、雪に足を取られて派手に転倒した。その横をするりとぬけ、綱興が得意満面で振り返った。


「どうです、山内殿。沙羅姫様は聡い方ゆえ、吹雪の間どこぞかで凌がれていると私の申した通りだったでしょう」

「綱興の読みが正しかったようだな」


 斉明を助け起こしながら、定匡殿もいつもの人の良い笑みを浮かべている。

 突然の<沙羅姫不在>に、六角の者たちはさぞや慌てたに違いない。ただ、その慌て方は世の人々が想像するものとは異なっていたようだ。

 すわ、人質を逃したか!と歯軋りして悔しがるのが常道のところ、お人好しの六角はあろうことか、ただの人として私の安否だけを気遣っていた。


 集まる家臣たちの濡れ凍りついた髪や衣服から、吹雪の間も辺りを必死に捜索する姿が想像できた。今日は先陣にいるはずのない綱興がこの場にいることも、充剛の陣にまで連絡を入れた証だろう。

 本来であれば、申し訳なく恐縮し身勝手な行動を深く詫びるのが、正しい心のあり方だ。でも、私の心は冷え切った体同様に、どこか凍りついていた。愛想の微笑みすら見せることができなかった。

 黙して立ち尽くす私に、何か言いかけた綱興がそのまま表情を固めた。彼に追いついた斉明が、その隣で息をのむ。太陽が雲間に隠れるように、すうっと定匡殿も笑みを消した。


「姫様……その血は!」


 斉明の押し殺した悲鳴のような声に、ポタリと赤い雫が一つ、雪に落ちた。


「どこを……どこをお怪我なされたのでございます!?」


 凍りついていた返り血が西陽に温められ、髪から顎を伝って流れ落ちたか。

 足元の紅点に視線を落とし、私は億劫に思いながらも口を開いた。再び凍てはじめた空気が、肺を刺すように流れ込んで、出しかけた言葉を詰まらせる。


「……沙羅姫?」

「大丈夫……私は、無傷よ」

「では、その血は……それに、その背に負うているのは……」


 斉明の視線は、すでに私が来し方より点々と続く赤い跡を捉えていた。

 定匡殿も逆光に目を細め——あるいは私の背後にあるものの正体を予感して剣呑な目つきにならざるをえなかったのか——平素は見せぬ厳しい視線で、私に答えを求めていた。


 胸の前で結わえていた結び目を解くと、どさりと音を立てて背中に負うていた重い荷が落ちた。同時にツンと鉄錆た血臭が鼻をかすめる。全身に浴びた血よりもなお生々しい臭いだ。

 瓜に似た丸い包みが二つ、重さに負けて半分ほど雪に埋もれている。沈んだその端からじわじわと赤黒く白い雪を染め始めていた。


「……狩りでもなさっておいでだったのか?」

「まさか、熊の肝とか……!?」


 遠巻きに私を見守っていた家臣たちの口からそんなささやきが漏れたが、側近くで私を取り囲む定匡殿たちの眼には、そうでないことは自明だった。

 ふた呼吸ほどの間があり、斉明が動いた。私をそっと脇へ退けて、包みをほどいていく。やがて、そこに現れた二つ首———その片方の首に、斉明は低い呻きを漏らした。


「これは……!」

「内通者の首よ」



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