三
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それは昨日の狩りでの一件を、きれいさっぱり忘れさせてくれる清々しい朝だった。
如月とはいえ、さすがに朝は冷える。特に山間のこの出城は朝夕の冷えが厳しい。
だが、太陽の光りは冬の頃よりずっと強くなったし、夜明けもずいぶん早くなった。春は確実に近づいている。
私は袿を肩から羽織ると、こっそりと戸を開けて、まだ朝霧の立ち上る庭を眺めた。
岩の上の苔が小さな水泡をたくさん乗せて、見事な輝きを見せていた。
たまには早起きもいい。
戸口に腰を下して、しばらくぼんやりと庭を見つめた。
昨夜はあれから自分の部屋に戻って読書などをしていたが、兄上達が来てくれる気配は一向になかった。
痺れを切らせて霞を探りに行かせたところ、父上と兄上達は厳戒体制で会議をしていて、とてもすぐには終わりそうにない様子だという。
そこで私は仕方なく兄上達との語らいを諦めて、さっさと寝たのだ。
おかげで今朝は早くに目が覚めた。霞が予定通りに私を起こしに来るのは、もう半刻(一時間)ほど後だろう。
余った時間を想像して、私は再び部屋の奥に引っ込むと、適当な単衣や袿を選んで身につけた。
我ながら深窓の姫君ではあるけれど、侍女にあれやこれやとされるのは好きではなかったし、物覚えが悪いわけでもなかったので、必要最低限のことは自分自身で出来るようになっていた。
「さて……」
一応の身支度が整った私は、再び戸を開けて本殿に続く渡殿へと足を向けた。
厳戒体制で一体何を話しあっていたのかは知らないが、もしかしたら夜通し会議をしていたのかもしれないと思ったのだ。
それくらい重要な話し合いだとしたら、結論がつき次第、兄上達はそれぞれの持ち場に帰ってしまうに違いない。
ちょっとでもいいから、兄上達と話しがしたかった。
が、しかし、本殿の会議をしていたと思しき一室は、既に何の警備もなく空っぽだった。
夜を徹して話し合わねばならぬほど差し迫った議題ではなかった、と言うことだろうか。
ならば、慌てることはないか。兄上達はしばしこちらに滞在するかもしれない。
私は、それではと進路を本殿の奥の西北殿にかえた。
この館は京の畠山邸や紀伊の本邸に比べれば規模はかなり小さいが、いちおう京風の造りになっていて、私が使っている部屋や来客用の部屋がある東殿のほか、父上達が政に使う本殿、そして義母上の陣地になる西北殿を有していた。
ここに来て十日ほどになるが、父上は本殿で執務をする以外は、義母上の西北殿で生活をしている。昨夜のうちに会議が終わったのなら、当然自室に戻っているだろう。
私は袿の裾を持ち上げ、そろそろと渡殿を渡った。
人生、五十年の今日だ。
今年五十路を迎える父上は、十分に老境に達している。それが証拠に、最近はめっぽう朝が早い。
起きているようだったら、今度の戦のことを訊いてやろうと思いついたのだ。
ただし、義母上には聞こえないところで。
そんなわけで、なるべく音をたてないように、私はゆっくりと簀子縁を進んだ。
確か父上達の寝室は東側にあったはずだ。
ところが、どうもそれらしき見覚えのある部屋が見当たらない。
「西側だったっけ……?」
寝室までは滅多にいくことがない。こと、この館に移ってからは一度、行ったか行かないか……。
足を止めて首を傾げているうちに、どこからか小さくボソボソと話す声が聞こえてきた。
すぐ脇にある扉の向うから、その声は漏れてきていた。だが、特に見覚えのある部屋ではない。
「………?」
一切の動きを止めてしばらく耳を澄ませていると、どうやら特別小さな声というわけではなく、奥のほうで話をしているのだとわかった。
こんなところで、こんな時間に誰が話しをしているのだろう。
次第に高くなる太陽を背に、私はそっと目の前の妻戸を押し開けた。
衣擦れの音を立てないように袿の裾を持ち上げると、にじり寄るように奥へと進む。
近づくにつれ聞こえてくる声から、そこにいるのが誰だか分かってきた。
父上と義母上、それから驚くことに兄上たちだった。
会議は終わったものと思っていたけれど、こんなところに場所を移した上、義母上まで引き込んでとはどういうことだろう。
いや、それよりも何よりも、私だけ仲間外れというのが気に入らない。
家臣を抜きにして、身内だけの話し合いをしているのは明らかだ。
私は部屋を仕切っている引き戸にぴたりと耳をつけ、その内容に神経を集中させた。
くぐもりがちにではあるが、父上の話す声が聞き取れる。
「……に参詣や狩りだのと、この出城に来るように仕組んだのは、ただこの目的を達せんが為だけだ」
「……でも殿、いくらなんでもそれは急すぎますわ。せめて、半年いや三月は……」
義母上のどこかおろおろとした声を、父上の事務的な声が遮った。
「いや、だめだ。今が大事な時なのだ。先に申したよう、向うもすでに同意なさっている。現状をいつまで維持できるとも限らんし、ここは性急すぎるくらいでよい」
「それは状況が変われば、翻意されるということでございましょうか?」
「その心配はないはずだ。なんと言ってもあの娘は『畠山の今かぐや』だからな。利害は含まずとも、受けぬわけがなかろう」
嫌な予感がした。
『畠山の今かぐや』……とは、とりもなおさず私、沙羅姫のことを指す。
絶世の美貌と類まれなる聡明さを持ち合わせていながら、多々ある縁談を断りつづける畠山家の姫君……ということで、古の物語——かぐや姫になぞらえて、世間が勝手に私のことをそうあだ名しているのだ。
もっとも——美しく聡明……はともかく、縁談を断りつづけていたのには、別に帝や将軍と結婚しようという野望があったからではない。
ただ私自身にこの自由の楽園である畠山から出るつもりがなかったのと、父上が私の我儘に寛大であっただけのことなのだ。
それを知らない世間は、いくらか誤解を含んだままそのあだ名を、私の実像と思いこんでいる節があるようだが……。
しかし。
私は口の端を歪ませながら、ひしひしと嫌な予感を強めていた。
実像を知っている父上が『畠山の今かぐや』を使うなんて、どう考えてもおかしい。
第一、私の話を私抜きでするなんて公平じゃない
にわかに緊張する私の耳に、幾ばくか置いて、それでもやはり納得いかないというような義母上の声が響いた。
「でも、やはりそれは、もう少しお考えなになったほうが……」
「母上」
義母上の言葉を遮ったのは、今度は義教兄様だった。お得意のなだめる声が優しく続く。
「これは我々三人も、よくよく考えた末の結論です。これ以上良い条件は、あの子にとっても、この国にとってもないはずです」
あの子って……私よね?
息を殺して、額にじっとりと浮かんでくる冷や汗を袖でぬぐい、もっとよく声を聞いてやろうとほんの少し引き戸をずらした。
その瞬間、私の体は硬直した。話の全貌を明らかにする頼義兄様の言葉が、大きく耳に飛び込んできたのだ。
「沙羅も、もう十八。輿入れには早いどころか、遅すぎるくらいです」
「——っ!?」
私は叫びそうになる口を両手で押さえて、かわりに心の中で絶叫していた。
輿入れ————っ!?