三
だが———。
瞬きをした一瞬の後、清和はいつもにも増して皮肉気な表情をみせた。
「何か勘違いしていないか? お前を愛していたのは、俺ではない———清成だ」
俺では……?
微笑を凍りつかせて、私は心の中で清和の答えを反芻する。
お前を愛していたのは、俺ではない——俺では、ない……。
……そう、なの。
びゅうとひときわ強く吹雪が舞い、束の間、私と清和の間を白い幕が遮った。
目に飛び込んでくる雪にも、瞬きしなかった。
できなかった。
幕の向こうの清和は、残酷なほど強くまっすぐに、私の瞳を見つめていた。
私を捉えるその双眸が、何よりも真実を告げている。
その冷ややかな瞳は、愛する女に向けるものではない。
私は甘かった? そうね、うぬぼれていた。
好きだといえば、清和は私に応じ、従ってくれると、心のどこかで勝手に期待していた。
———そう、この男は違うのに。そんな、優しい男じゃないのに。
「…………」
望みが絶たれるというのは、こんなに寒々しく、空虚なものなのか……。
身も心もこんなに凍えているのに、頬には熱いものが伝う感触があった。
気づけば、私は涙を流していた。
「……どうして……」
続かない言葉に、清和は低くとても静かな声で楔を打った。
「どこで生きようとも、お前の自由だ。だが、お前を愛し、お前の幸せを願っていた、清成の菩提だけは弔ってやってくれ」
そして、背を向ける間際に届いた厳かな宣告が、最後の一撃となって私を打ち砕く。
「—————もう二度と、お前と会うことはない」
心が砕ける音を初めて聞いた。
極寒の冬、寒さゆえに氷が割れる音に似ているな、と妙に冷静に思った。
またそれは同時に、今まで怖れながらも踏みとどまっていた足下の薄氷が割れる音にも似ていた。
薄氷のその下には、何があるのか? もちろん知っている。
絶望の淵が、私を呑みこもうと待っている———。
短い指笛の後、白い闇の中から黒い大きな影が躍りだした。清和の愛馬——黒帝だった。
清和は黒帝の鬣や鞍の雪を落として、黒い大きな体をねぎらうようにぽんぽんと叩くと、ひらりと馬上に上がった。
何事もなかったかのように、振り返ることもなく一人と一頭は去っていく。
その背が、白い闇に呑み込まれていく。
あの春の夜———嵐の夜は、決して見失うことのなかったその背中が、今は吹雪の中に消えていく。
追いかけていくことは、できない。
「——————っ」
これが、悪夢であるならいいのに。夢ならばどんなに残酷でも耐えられる。これまでもそうだったように……だけど、これは夢じゃない。
頬を伝う涙が、熱い。
心は砕け散りばらばらになって、まるで骸のように冷たく凍てついているというのに、流れる熱い涙が己のまごうことなき「生」を知らせる。夢ではなく、現実だと知らせる。
私の恋は破れた……。もはや、報われることはない。
行き着くところまで、行ったのだ。
あぁ……苦しくて、息ができない。
でも———私は、生きている。
*
どれくらい吹雪の中に取り残され、立ち尽くしていたのか分からない。須臾でもあり、永劫でもあるような時間だった。
小太郎の低い唸りと近づく殺気に、私はほとんど無意識のうちに腰の太刀を抜いていた。体をひねり、背後からの一撃を受け止める。髪に積もっていた雪が飛散した。
そして、受け止めた白刃の向こうに、私は黒田の顔を認めていた。
清和の追っていた男と、この黒田こそが狂犬の手下だ。
憶測は、一瞬にして確信へと変わった。
「よう受け止められた」
涙の痕の残る私の顔を見下ろして、嘲笑を浮かべた黒田は太刀ごと跳び退さった。
黒田の顔を見た瞬間から、私の涙は乾き、頭は恐ろしいくらい冷静に、しかも高回転に運動を再開していた。
一定の間合いを取って、私と黒田は向き合う。おとなしそうな雰囲気はそのままに、賢さとはどこか違う、これまでにはなかった狡猾さが今日の黒田には見て取れた。
黙って睨みつける私に、「しかしなぁ」とやけに馴れ馴れしく黒田は話しかけてきた。
「まさか、あの細川の御曹司が生きていたとは! したら、わしらがそっ首刎ねたあの細川清和は、一体何者だったのかぁ……さすがの、犬飼様もびっくりなさるだろうて」
その声は、どこか楽しげにさえ聞こえる。
だが、これでこいつが狂犬の手下であることも、気配を殺して私と清和のやりとりを全部聞いていたらしいことも判明した。確信はさらに、真実へと移行する。
「白井はおっ死んじまったが、その死に値するくらい……いんや、釣りがでるくらいにだな、この情報は犬飼様への良い手土産になるのう。それに加えて……」
黒田の眼に、卑猥な色が浮かんだ。
「畠山充剛をはじめ、みなが涎を垂らして欲しがる美しい姫御前を、あの世に送る前に味わえるとはのぅ、わしは本当についておる」
自らの幸運を雪しかない周囲に喧伝する勢いだったが、ふと可笑しそうに目を細めて「いやいや、こりゃ失敬」と黒田は思い出したように慇懃に続けた。
「みなが欲しがる、とは間違いでしたな。細川清和は、なんと姫を要らぬと申された。まさかねぇ、姫を袖んなさる男がこの世にいようとは、知りませなんだわ。夫婦でもあった仲でぇ……いひひっ。生きていると、面白れえことに行きあうってもんだ」
「……私も知らなかったわ。お役目に忠実で寡黙に思えたあんたが、こんなにおしゃべりだったなんて」
「残念ながら、姫とは気安く口を利ける立場にござらんかったですからなぁ。でも、まあ立場は違えど、細川清和もわしも同じ男。中身は同じ男ですわい」
卑しく笑う黒田に、吐き気を覚える。
「あんたや狂犬なんかと、細川清和を一緒にしないで」
「やれやれ……こんなに想うておいでなのに、お可哀想にのぅ。どれ、わしがこの世の思い出に、精一杯慰めて進ぜましょう!」
言いざまに一気に間合いを詰めると、黒田は正面に構えていた私の太刀を容易く弾き飛ばした。
太刀を飛ばされた勢いで、多々良を踏んだ私は、さらに雪に足をすくわれてその場に尻餅をついた。その私に伸し掛かるように、黒田が迫る。
私の喉元に刀身を押し当てて、舐めるようにしつこく黒田は私の顔を眺めた。やがて、直垂の襟に左手をかけ、ぐっと私の胸元をはだけさせた。
「よい匂いじゃあ……」
囁く黒田の顔は、肌に息がかかるほどに近い。嫌悪で肌が粟立つ。私は身を仰け反らせたまま、低く訊ねた。
「先に……狂犬は誰なのか、教えろ。名を変えて、どこに、潜んでいる?」
まさぐるように私の胸元に近づけていた顔を上げて、黒田は哂う。
「いまさら、そんなことを知ってどうなさる? うんにゃ、そんな怖い顔はいけねえよ、別嬪がだいなしだ。どうしてもっていうんなら、そうさなぁ……わしを存分に楽しませてくれた後なら、褒美にその可愛らしい耳元で囁いてやりましょうや。冥土の土産とはよういったもの。まぁ、知ったところで……ひひっ、どうしようもないですがな」
この———下衆が!
「……なら、教えてもらわなくて結構」
「はあ、さすがお姫様は育ちが違う。諦めがよいですなぁ」
「自分で探すわ!」
言い放って、太刀を握る黒田の右腕を強く握った右の拳で突き上げた。突きつけられていた白刃が鼻先を掠める。
それとほぼ同時に、ずっと唸りを上げていた小太郎が黒田の左脛に噛みついた。
「うがっ……!」
黒田が腰を浮かせた一瞬に、私は身体を転がしてやつの太刀から逃れる。もとより、黒田ごときに太刀を飛ばされ、組み敷かれるような沙羅姫ではないのよ。
そのまま、すぐ近くに弾き飛ばされていた私の太刀——天王丸を拾い上げると、慌てて立ち上がろうとした黒田に容赦なく一太刀あびせた。
百姓に化けたその軽装が災いして、黒田は左額から右胸にかけて、深々と切り裂かれた。勢いよく血が噴出する。
激しい返り血を浴びて、白一色だった視界が真紅に染まった。
この男は、死ぬ………殺さなくてはならない。
呼吸を整えながら、私は何度も自分にそう言い聞かせていた。
狂犬の正体を知る絶好の機会を失ってでも、この男を殺さなくてはならないの?
それは何故? 清成殿の仇の一味だから? この私を辱めようとしたから?
自問する私に、揺るぎのない最も強い感情が応じる。
いや、それよりも、この男は清和の生存を知っているから。……だから、この男だけは生かしておくことはできないのよ。
この状況下にあっても、なお清和のことを優先している自分が可笑しかった。
白い雪を赤や黒に染めながら、激しくのたうつ黒田を前に、私は自分の手の中の天王丸を———清成殿の太刀を見つめた。
———ごめんなさい。だめなの……。清成殿じゃ、だめなの。
私は先に、清和に出逢ってしまった。
だけど、清和は———私じゃだめなの。
どうしてなの?
どうして、清和は私を好きじゃないの?
清和はどうしても、一歩踏み込めないところにいる。
私を見縊ったように笑う。
清和は、私なんか好きじゃない。
………そう、わかっていた。肩書きだけの妻だと。
だけど、こんな結果をみるために、すべてを捨てたわけじゃなかった。
苦しい……。また、息ができない。胸が潰れてしまいそう。
ぎゅっと目を瞑り、見開いた次の瞬間———視線の先に、のたうつ清和の姿が見えた。
この苦しみから逃れるには、原因を取り除くしかない。……苦しみの原因を。
のたうつ清和に歩み寄り、逆手に持ち替えた天王丸を振りかざし———私は清和の心臓に止めを刺した。
愛を憎しみに、掏り替えた瞬間だ。
肢体を激しく痙攣させた後、清和は動かなくなった。
私の呼吸は、ほんの少し楽になる。
抜いた太刀の先から、まだこんなに残っていたのかと驚くほど返り血がどっと噴出し、私は再び血まみれになった。
周囲に積もっていたまだ汚れていない雪を無造作に取り上げて、血まみれの顔をぬぐう。
やがて明瞭になった瞳が見たそこには、清和は存在していなかった。
汚れた黒田の死骸だけが転がっていた。




