一
<登場人物>
沙羅姫…主人公。畠山宗家の姫君。細川家に嫁ぐが未亡人となる。現在は六角に身を寄せる。
細川清和…細川京兆家の若君。弟の敵討ちのため片桐高遠と名乗り、南山城の東軍畠山に潜入中。
細川清成…清和の双子の弟。丹波合戦で細川清和として討死。
六角定匡…六角家の当主。亡き妻の遺言で西軍に与する。
六角定親…定匡の叔父。定匡の後見役兼参謀。
山内斉明…六角家の重臣。沙羅のお目付役。
小太郎…定匡の猟犬。柴犬。
畠山充剛…沙羅の従兄弟。南山城の西軍畠山を率いる。
林綱興…充剛の家臣。
青砥…充剛の家臣。
黒田…充剛の家臣。連絡係。
畠山義貴…沙羅の兄。叔父とともに南山城の東軍畠山を率いる。
畠山頼忠…沙羅の叔父。南山城の東軍畠山を率いる。
暦の上ではとうに春を迎えたとはいえ、冬の寒さはまだまだ健在だ。今年は例年よりも寒さが厳しく、如月の半ばになっても春めくどころか、なお一層冷え込みが増している気がする。先陣の櫓から南西にのぞむ金剛山の峰は、うっすらと白い化粧をしていた。
少しでも寒さを逃れようと陣中や焚き火の近くに集う者たちを横目に、私はいつものように櫓に登り、一人のんびりと見慣れた景色を見下ろしていた。
斉明は定匡殿たちとの合議に参加していて、私の近くには物見番の兵が二人いるだけだ。その二人ともすでに顔なじみなので、私は誰に気兼ねすることもなく櫓の上を堪能することができているというわけ。
先陣に顔を出し始めた最初の頃こそ、みんなが色々な意味で私を注視していた。だが、もうこの頃ではそれもない。斉明が私を四六時中見張っているということも稀で、本陣あるいは先陣の内に限っては、家中の誰かしらが私を見ているだろうという暗黙の了解がうまれつつあった。その流れに、私も正直ほっとしていた。
斉明についていえば、今までが酷なことだった。六角の重臣であるのに、私のお守りばかりしていては戦支度もままならない。内心、ひどく申し訳なく思っていたので、こうして斉明が重臣として合議に参加できるようになったことで、私も——私自身への監視が緩んだことよりもむしろ——気が楽になったというわけ。
ほうっと白い息を吐いて遠い峰々から視線を足元に戻すと、ちょうど動くものが目についた。虎口を抜けて、足早に去っていく男が一人。後姿だけでもそれが誰かわかった。いつもの連絡係、黒田だ。
黒田が充剛の陣に帰るということは、合議が終了したということでもある。
ぼんやりとその後姿を目で追いかけながら、私も定匡殿に一声かけて、市辺城(本陣)に戻ろうかなと思案する。落ち着いた陣中の様子からして、おそらく今日も大きな動きはない。だが———、
「ん……?」
結論を出す前に私の思考は中断した。
何とはなしに追っていた黒田の姿が突然、視界から消えたのだ。すでに十分遠ざかっていたので、草木に紛れて見えなくなってもおかしくはなかったが……それにしては妙な違和感があった。充剛の陣がある北方向へ視線を泳がせて、見失った黒田の頭を探したが、動くもの自体を捉えることができなかった。
知らないうちに見過しちゃったのかしら。物見番なら失格だわ。
独白して、当の物見兵の二人はどうしているのかと振り返ろうとした矢先、私の両眼は再び動くものを捉えた。だが、それは充剛の陣とは逆方向の道上だった。
枯草の間を野良笠が小さく左右に揺れて移動している。
……なんだ、このあたりの百姓か。
視線をそらしかけて、だが三度、私は動くものに目を戻した。勘のようなものが働いたというか。
おかしいわ。あの百姓は今まで動きがなかった。
先刻からあのあたりで野良作業をしていたのなら、物見をしていた時点で視界に入っていたはず。また、いずこからか移動してきたなら、黒田を目で追っていたときにすでに気づいたはず。急に畦から上がって来たにしても、何か不自然だ。
私は上体を乗り出して、遠ざかっていく百姓の笠を凝視する。
もしかして………あれは黒田? 黒田の変装なの?
突然消えた黒田と、突然現れた百姓に、整合性のある答えを見つけた気がした。
でも、何のために?
考えるよりも先に、体が動き出していた。
「邪魔したわね。私、もう降りるから!」
お喋りに花を咲かせていて、案の定、黒田の動きなど見ていなかった物見番二人にそう言い残して、私は急いで梯子段を降りる。地上では私を待ちくたびれていた柴犬の小太郎が、わっと起きあがり尻尾を振って歓迎してくれた。そういえば、斉明が側を離れることが多くなってからは、この小太郎が常に私の側に付き従っている。犬ではあるけれど——人並みの名前以上に、一番お役目に忠実な存在かもしれない。
その小太郎に「行くわよ」と一声かけて、私は腰の太刀——天王丸——を軽く握った。小走りに虎口へと向かう。早く追いかけなければ、黒田らしき百姓を見失ってしまう。
勢いよく、枡形門から駆け出した私に、
「姫様、何処へまいられまするか?」
さすがに門番は声をかけてきた。振り返り様に、いつもどおりにこやかに笑ってみせた。
「小太郎が用を足したいみたいなの。ちょっとそのあたりを散歩してくるわ」
「左様でございますか。でしたら、くれぐれもお気をつけて!」
「わかってる、わかってる!」
こんなやりとりで、単身——と一匹——で外に出てしまえるくらい、私も信用されているというのに。それを裏切るような行動とならなければいいのだけど……。
自らの行動には責任を持っているつもりだ。本当ならちゃんと説明をした上で、供をつけて外出すべきだった。だが、それをしていては黒田を見失ってしまう。否、それ以前にそんな外出は許可されない可能性が高い。
募る好奇心が、寄せられる信頼に僅かに勝ってしまった。
緩やかな坂を小太郎と一緒に一気に駆け上がる。
そのまま真っ直ぐ東へ進めば市辺城に向かい、北に向かえば充剛の本陣だが、そのどちらでもない南に進路をとる意味とは………道の先には、今や小さく黒い影になりつつある百姓の後ろ姿がみえた。
斉明から仕入れた地勢や時折の散策で、南へ向かうと少し先には多可郷などの集落があり、それを抜けると木津や大和へと至ることは私も識っている。
あれが黒田だとしたら、彼は充剛の本陣ではなく、大和方面に向かっていることになる。充剛の父——頼長伯父の本拠地はそちら方面だが、伯父上への連絡係にしては黒田は荷が勝ち過ぎている気がする。代々仕えている重臣の遊佐や黄瀬の者が遣わされそうだ。ならば、西軍にはなびかぬ国人衆への謀略とか、何か密偵としての使命でも負っているのかしら……?
小さな後姿を見失わないように、けれど尾行を悟られることのないようにある程度の距離を保ったまま、私と小太郎は黒田らしき百姓の跡を追った。
空気はいつもにも増してしっとりと冷たく、空は低く重い鉛色の雲で覆われている。午後の早い時間だったが、行きかう者は不思議となかった。
黒田らしき男が集落を微妙に避けているのも、人と行き会わない理由だ——といくらか進んで気づいた。
跡をつけ始めてすでに一里(4キロ)は来ただろうか。木津川を右手にして南へと進んでいたが、ここにきて黒田らしき男は進路を西に変えた。木津川にかかった橋を渡り、西岸へと移動する。
目的地は、大和じゃないの? 河内方面に向かうつもり?
木津川とその向こうに悠然と横たわる生駒山系を眺めて、私は一人唸る。
どうする……?
逡巡している間にも、百姓の背中は小さくなっていく。結局、見失う寸前のところで私も慌てて橋を渡った。
そうして気づけば、物見櫓から見える風景とは異なる場所にまで来ていた。小太郎は遠出を喜んでいるようでもあったが、時々こちらを見上げてまだ行くのか?と問いかけるような仕草も見せるようなっていた。
たしかに、一体、どこまで行くつもりなのか。というか、そもそもこれが黒田じゃなくただの地元の百姓だったら、私はまったく無意味なことをしていることになる。
どこまで……と迷いながらも追い進むうちに、ついにはハラハラと白い破片が空から舞い落ちるようになってしまった。
先陣を出て、半刻(一時間)は過ぎている。完全に、戻る潮時を見失っていた。
さらにその選択の失敗に追い討ちをかけるように、舞いはじめた雪が見る見る間に吹雪へと変化した。あっという間に辺り一面を真っ白に染めてしまったのだ。この地域にはよくあることなのかもしれないが、これだけの激しい降りは南山城に来るまで経験がなかった。
吹雪の中に立ち尽くし、私は戻ることをあきらめた。どこに行くのかは知らないが、黒田と思しき男に追いついて一緒にどこかに寄せてもらったほうがいいと判断する。
「小太郎、急ぐよ!」
いまや茶色ではなく、白い塊になりつつある小太郎に声をかけて、私は足を速めた。
*
ほとんど視界が利かない白一色のなか、かろうじて見えていた人影が山裾の森の中に消えた。まずいと思い、積もりはじめた雪に足元を取られないよう気をつけながら、私と小太郎は大急ぎで後を追う。
人影はこんな天候にもかかわらず、迷いなく木々の中を進んでいるように見えた。やがて、ふいと右に折れると、枝が払われた木立の間に消えた。
どこに行ったの!?
焦りつつ同じところまで来てみて、枝の払われた木に見えたものが、実は色の剥げ落ちた鳥居であると気づく。つまり、ここは神社なのだ。
人影は鳥居をくぐり、参道を社のほうに向かって進んだとみえる。
こんなときに、神様に御参り?
たしかに出陣に際して、戦勝を祈願するのはよくあることだ。だが、こんな悪天候のときにこんなところまでわざわざ出張ってくるほど、霊験あらたかな神社なのだろうか。古そうではあるが、規模的にはどこの集落にでもある鎮守さま級だ。
首を傾げつつも、しかし、ここでぼんやりと雪まみれになっているわけにもいかない。私と小太郎は人影に少し遅れて境内へと足を踏み入れた。
そう広そうな境内とも思えなかったが、黒田らしき男の背中は完全に消えていた。視界は相変わらず白く、少し前までは地についていたであろう足跡も、すでに雪によって上書きされてしまっている。
私は勘をたよりに社殿のほうへと進んだ。
社殿のほう……と読んではみたが社の影もみえず、白い闇の中で、迷子になった気分だった。ひどく心細い。
だから、不意に白い闇の中から伸びてきた腕に絡めとられた刹那、私の中には複雑な二つの感情が交差した。何者とも知れない存在への恐怖と、誰かに見つけてもらえたという安堵。
「何者っ……!?」
反射的に絡んだ腕を振りほどきながら、———ああ……なぜか私は予感していた。
知っている、と。
順当に考えるなら、その腕の主は私が追っていた黒田であるはずだ。なのに、私の五感———否、予感を含めた六感は、もっと近しい人物の存在をそこに感じていた。
果たして、振り返った先には———




