九
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南山城に来て一月近くが経った如月の上旬。
いつものように定親殿の先陣まで遊びに来ていた私は、物見櫓から木津川の流れや、その下流に見える東軍の拠点・水主城、さらには西に広がる神南備丘陵やその手前の木津川対岸に位置する草路城などを眺めつつ、斉明からあたり一帯の地勢を教わっていた。
ひとしきり周辺に目を走らせ、自分たちのいる陣に意識を戻したとき、視界の端——奥の陣幕から人が出てくるのが見えた。櫓の内側に移動して見下ろすと、出てきたのはもはや見慣れた黒田という男だった。六角軍と充剛軍との連絡係を務めている男で、充剛の家臣の一人だ。
今日も何かしらの知らせを持ってきていたのだろう。その用件を終えて、これから充剛の軍に戻るところらしかった。
黒田の姿が見えたことで、陣中の合議は終了したと判断して、私は物見の兵にねぎらいの言葉をかけつつ、斉明とともに櫓を降りた。
早足で虎口に向かっていた黒田は、櫓から降りてきた私たちに気づくと足を止め、軽く会釈だけしてすれ違うように去っていった。決して目立たない大人しそうな、けれど賢そうな男で、その後ろ姿からも仕事に忠実な印象をうける。
「愛想はないけれど、連絡役としては安心して任せられるって定匡殿が言っていたの……なんかわかる気がするわ」
後ろ姿を見送ってつぶやいた私に、斉明も同意した。
「充剛殿の家臣にしては上出来な男ですな。無駄がないところなど、私も気に入っていますよ」
すっかり打ち解けた、あるいは私を信用した様子で、斉明は我が従兄妹の軍を評す。
「こう言ってはなんですが、充剛殿の軍は玉石混交と申しますか……。姫様はまだご存じないでしょうが、中には目を見張るほどに腕の立つ者や才長けた者もいる反面、媚び諂う事に熱心だったり、夜盗崩れのようなどうしようもないと思われる輩も混じっていて……正直、これで大丈夫なのかと案じたこともありますわい。まあ、そういった中にあって黒田はいい家臣ですな」
「そうね。それに、あの家臣もね」
定匡殿に続いて陣幕から出てきた爽やかな男——綱興を指して、私は笑った。
こちらに来ていたとは知らなかったが、彼が合議に参加していたということは、いよいよ戦略的な細かい打ち合わせが進行しているのだろう。
定匡殿と笑顔で会話しながら、綱興はゆったりとした歩調でこちらへとやってきた。
「ご機嫌はいかがですか、沙羅姫様」
嬉しそうな笑顔で問われて、悪い気はしない。
「まずまずよ。あなたも元気そうで何よりね」
充剛の相手で憔悴してるんじゃないかと案じていたのよ、とは心の内だけにとどめておく。口に出してこのよくできた家臣を困らせるようなことはしない。
出城だったりこの先陣だったりでチラリと姿を見かけることはあったが、綱興とちゃんと顔を合わせるのは、初見以来になる。
「さっき黒田が帰っていったけど、あなたもこれから陣に戻るの?」
「はい」
その返事に頷いて、私はすぐ側に立つ定匡殿を見上げた。
「定匡殿も、もう本陣に戻られるの? それとも、まだ定親殿とお話をなさったりするのかしら」
「今日はもう、市辺城(本陣)に戻るつもりです」
姫も一緒に戻りましょう、と続くことを察して、
「だったら、そうだ!」
私は素早く両手を打った。
さも今思い出したように、ここのところずっと言い出す機会をうかがっていた台詞を口にする。
「こっちの様子にも慣れてきたし、充剛の軍に遊びに行ってもいいかしら?」
「……これから、ですか?」
やや狼狽気味に問い返す定匡殿に、私は無邪気を装い、もちろん!と頷いた。
「いや、でも充剛殿にもご都合というものがあるでしょう。今日これからというのは、ご迷惑ではないかな」
また、日を改めて……と大人らしい思慮深さで牽制する定匡殿に、私は内心、やっぱりそうきたかと舌打ちする。
またしても話が後日にまとまりそうな中、ちらっと綱興を見るとばちりと目が合った。その一瞬に、彼は少し目を細めて、私の意を汲んだようだ。
「定匡様、しばしお待ちを」
綱興は爽やかな口ぶりで、自分が今から充剛の本陣に戻り、充剛の意向を確認してきましょうと請け負った。
「よいのですか?」
「よいも何も、私は大歓迎です。定匡様や姫には申し訳ありませんが、合議の報告は黒田が先に持ち帰っていますし、手ぶらで戻るよりも姫の陣中見舞いの話を持ち帰ったほうが、私の株が上がりますので」
誰にも角を立てない絶妙な気遣いに、思わず私は吹き出してしまった。定匡殿も、これはやられた、というように浅く笑う。
「おそらく、我が殿に否やの返答はないと思います」
「そうですか。……では、私と数名の家臣もご一緒してよいのなら、今夕、充剛殿の本陣に参上仕りたいとお伝えください」
「たしかに、承りました」
しぶしぶながらも定匡殿の許可が出て、私は去っていく綱興の背中に感謝の視線を送る。
「やれやれ」
小さな嘆息がほぼ同時に左右から漏れて、私は視線を定匡殿と、反対に立つ斉明に戻した。
「……私のわがままに、怒ってらっしゃる?」
「いえ、呆れているのです」
定匡殿のつぶやきに、斉明もうんうんとしきりに頷いて応じる。
「呆れる?」
「最初に観音寺城を訪ねてらしたときもそうだったが、沙羅姫はご自分の身分を軽んじられる傾向にあるのではないですか?」
定匡殿らしくない、どこか堅苦しい話だ。だが、私は黙ってその続きを聞いた。
「深窓の姫君であられる貴女は、本来側近くに仕えるごく限られた者にしか、その姿を見せぬものでしょう。この戦場という異例な状況にあっても、なるべく姫の姿は衆目に触れさせぬようしてきたが、充剛殿の本陣ではどのような扱いを受けるかは私も保証しかねる。粗野な男たちにその花の顔を晒すことにもなりかねない。貴女は平静でいられますか?」
「———定匡殿も、意外と常識的なんですのね。それとも、独占欲かしら?」
ほんの刹那、定匡殿の瞳が気色ばんだ気がした。だが、浮かんだ感情がどの類のものか判断する前に、いつもの落ち着いた大人な瞳へと戻っていた。
私は素直に謝る。
「軽口が過ぎました。お許しください」
口先だけの謝罪ではない。心底、定匡殿には感謝しているし、申し訳ないとも思っている。
六角では、なるべく人目にはさらされぬよう気遣われていると知っていた。実家も婚家も飛び出してきて、何もなくなった私のその身分だけは保ってくれるような——客でありながらも、六角一族同然の扱いをしてくれた。
「定匡殿や斉明ら六角の方々のお気遣いには、本当に感謝しております。ですが、京を飛び出してきたあのときから、姫としての身分も矜持も捨てております。目的の前には、耐えられぬ屈辱などないと覚悟のうえ。狂犬を探し出す機会は、できうる限り失いたくない」
私の目的——表の目的を知る二人は、黙して応じることを選んだ。
目的の前には、耐えられぬ屈辱などない———その決心は本物だ。清和が戻ってくるのならば、下々の女のように顔をさらすことくらい大した問題ではない。
自尊心が高いのは、昔から承知の上。だが、その自尊心を押さえ込むことも、今の私ならできると確信していた。
*
充剛の率いる西軍畠山軍は、木津川東岸の街道に程近い贄野池のほとりに建つ妙法寺に本陣を構えていた。この辺りの寺としては大きいのだろうが、集まった軍勢の数からすると、いかんせん埋もれてしまいそうな有様だった。あちこちに張られた陣幕や櫓、足軽や人足たちの生活区域をぬけて、ようやく本陣にたどり着く按配だ。そしてまた、その布陣状態が充剛の軍の現状を物語ってもいた。
充剛の軍は、一言で言えば烏合の衆だ。
現場を詳しく知る私ではないが、その私の眼から見ても、東軍細川や実家の軍、或いは同じ西軍である六角の軍とも比べるべくもなく、違いは明らかだった。当たり前のようにとれている統制が、ここには希薄にしか存在しない。
異様なほどの興奮状態の本陣に迎え入れられ、定匡殿や斉明に付いて充剛のいる奥へと進みながら、私は目の当たりにする充剛軍の情態に、湧き上がる驚きと不安を押さえ込むのに苦労する。
通された本堂には酒宴の用意がされていて、すでに充剛の主だった家臣たちが顔をそろえていた。
昔からの家臣や国人、それに加えて新参らしき地元や他所から集まった有象無象の浪人など、まとう空気がちぐはぐで一見して寄せ集めと分かるまとまりのなさ。唯一そこに共通するのは、ただただ自らの出世を狙うギラギラとした我欲と熱気だけだ。西軍畠山の為——では、断じてない。各々のよどんだ野心の澱が充満している。
正直なところ、充剛がこれを制御できているのが不思議でならない。今日の昼間、充剛の家臣について斉明が案じていたのも、いまならよくよく理解できるわ。
よそ者の私ですら嗅ぎ取っている、そんな空気を察しているのかどうか……、充剛は相変わらずの馬鹿大将ぶりで、やけに親しく大仰に私たちを歓迎してみせた。
「よく来たな、沙羅! みなの者、これがわしの従兄妹の沙羅姫じゃ。そして、こちらにおられるのは、存じている者もおろうが、わしの義理の弟でもあり、われらと同盟を組んでおる六角定匡殿じゃ」
おお、あれが畠山の沙羅姫か、あれが六角の総大将、などと居並ぶ家臣たちが喜色を浮かべてどよめく中で、充剛は次々と己の家臣を紹介していく。
いざ充剛の本陣に来てみたものの、武将格の家臣が多すぎて、また次から次へと挨拶をされて、狂犬を見つけるどころか、顔を覚えるだけでも精一杯。ましてや、名前までは頭に入らない。
やっつけ仕事のように家臣を紹介し終えると、充剛は戦の前の景気づけだと派手に宣言して、さっさと宴を開始してしまった。どこまでも、自分優先で勝手な男だ。
そして予想したことではあったが、酒宴は時間がたつほどに、無礼講の様相を呈していった。
家臣の手前か、最初のほうこそ威厳らしいものを装っていた充剛だが、酔いが回るにつれて、なれなれしく私に酌をしろとか、昔の思い出話をみんなに聞かせてやれとか、煩くうざい。
「なにせ、こう見えてこの姫はわしの顔に『へのへのもへじ』を書くような姫だったのだぞ!」
例の勘違いの仲良し小話を家臣の前で自慢げに口にする充剛に、私は薄笑いで応じる。
主人が主人なら、家臣も家臣だ。こちらの様子などお構いなしで、酔って口々に充剛をよいしょした。
「なんとなんと!」
「さすがは我が殿じゃなあ、幼き姫にもお優しい!」
「さようにお二人は、幼き頃から仲のよいお従兄妹同士であられましたか」
充剛は得意満面で、酒を呷る。
「そうよ、こやつの兄の義貴などは取り澄ましてつまらぬ奴であったが、こやつは幼い頃から美しいだけではなく、可愛げのある姫じゃったわ。そういえば、猫をほしいとねだられたことがあったな!方々探して、綺麗な白猫を見繕ってやったのう。わしが贈った猫だからと『みつ』と名づけて、ようかわいがっておったなぁ」
猫に自分の名前(の一部)を付けられて喜ぶなんて、本当に阿呆な男だと当時も感心したけれど、十年近く経った今も、相変わらず私の真意はわかっていないらしい。
ひらいた扇越しに定匡殿が「そんなに猫がお好きだったのですか?」と愉快そうに訊いてきたから、期待に応えるつもりで囁き返す。
「屋敷にねずみが増えて困っていたんです。どうしたものかと思っていたことろに、何か欲しいものはないかって充剛がいつもしつこく訊ねてきたから、渡りに船で猫を欲しいって」
充剛が猫を捕まえようと追いかけるところを想像したら面白かったし——、という意地の悪い子供の頃の想像は流石に口に出すのはやめておいた。胸の内だけに留めておく。
「それですごく綺麗な白猫をくれたのは良かったんですが、これが『みつ』って名前が駄目だったのか、ねずみを捕るのが本当に下手な猫で……時には、猫の癖にねずみにおびえて、私がねずみを追い払う始末で」
くっと定匡殿が吹き出したが、酔って自分の話を家臣に披露するのに夢中な充剛は気づかない。私は横目それを確認しつつ、話を結んだ。
「そんな猫でしたので、もっぱら私の暇つぶし相手でした。もちろん、誰がくれた猫であろうと猫に罪はないので、老いて死ぬまでは可愛がりましたけど」
「ならばその猫は、贈り主同様に幸せ者だな」
そんな私たちのやり取りなど知らず、充剛と家臣たちは勝手に盛り上がり、
「お従兄妹とはいえ、お似合いのお二人ではありませぬか!」
「殿には、やはり同じ血の流れるお美しい姫御がふさわしい」
「そうか? そう思うか?」
などと、身の毛がよだつようなことを、ぬかしている。
陣中見舞いとして私から訪ねて来た立場上、やむを得ず最低限の愛想は振舞ってきたが、このままの調子が続くと、忍耐の緒がどこかでふっつりと切れてしまいそうだ。




