七
「……そうか。よかろう、綱興。そちに免じてやろう」
みごとに充剛を制した男は、さらに、この場の空気を読むように、さも今思い出したとばかりに声を上げた。
「ああああ、失念しておりました! 久方ぶりの再会に水を注すようで、まことに差し出がましいのですが……」
充剛が無言で先を促すと、男は低く頭を垂れた。
「殿がこちらに向かわれるのとちょうど入れ違いに、こちらの六角定匡様より陣中見舞いの品々をいただきまして、急ぎそのお知らせをと私も殿を追って参った次第で」
「そのようなことなら、戻ってからで……」
「それが、いただいた中に近江の酒と肴が多分にあると分かって、陣中の者たちが浮き足立ちまして。このところ戦働きにて本領を発揮する場もなく、鬱憤のたまっている者たちも多くございます。早う頂きたい飲みたいと、このままでは殿のお帰りを待ちきれず、喧嘩になりそうな勢いでして……」
「かまわん、お前が行って飲ませてこい」
「めっそうもない! 私などが行ったら、袋叩きにされてしまいまする。みなはただ酒が飲みたい楽しみたい、だけではないのです。何よりも殿が振舞ってくださる酒だからこそ、大いに飲み、楽しむことができるのです。我が陣中の者たちは、みな古臭くむさ苦しい武士たちゆえ、決して口には出しませぬが、酒でなくただの水の一杯、米の一粒だとて、殿が振舞ってくださるものであればこそ、そこに特別な価値を見出しておるのですよ。それゆえみな、殿のご帰還を今か今かと待っておるのです。此度はありがたくも同盟相手の六角様からの酒……それを殿が振る舞ってくだされるのであれば、また格別でございましょう。何卒、殿もみなと一緒に飲んでくだされ。さすればこそ、みなの士気もよりいっそう上がりましょうぞ」
その熱い進言を受けて、充剛はかなり心動かされるところがあったようだが、ここは六角の本陣で、そもそも充剛から訪ねてきたところだ。
そのあたりの事情も心得ているように、男はさらに、六角との戦に関する相談は自分がしておくので、充剛は先に帰陣するようにと話をまとめた。定匡殿が快く承諾したのは言うまでもない。
「すまんな、六角殿。陣中見舞い、ありがたく頂戴することにする」
「早くから、先陣にて東軍を押さえこんでくださっている畠山の方々には、こちらこそ感謝しております。僅かですが、皆様の気晴らしになれば幸いです」
定匡殿に頷くと、充剛はお付の家臣たちを引き連れて、いそいそと本陣を後にした。
去り際に私を一瞥して、「今日のところはこれで。いずれまた」と意味ありげな一言を忘れないあたりも、この期に及んで、本当に相手の気持ちとか都合とかまったく解ってない奴だと、改めて思い知らされる。
充剛の後姿が消えたところで、はしたなくも私は、はーっと盛大に溜息をついた。その私の陰で、六角の家臣たちもこっそりと憫笑を漏らしたり、安堵の息をついたようだ。そりゃ、そうだろう。ここまでの展開になるとは、私も思ってなかった。
わずかな間に繰り広がられた怒涛のやりとりに、いっときは羞恥——ではなく、もちろん怒りで差した私の頬の朱も、今やすっかり色を無くしている。
それにつけても、と私の視線は一人残った充剛の家臣の男に釘付けになる。
男は改めて私たちの前に平伏すると、充剛の前とはまた異なる硬い声音で口上を切った。
「畠山充剛の家臣、林綱興と申します。君臣ともに場を弁えぬ非礼の数々、誠に……誠に失礼いたしました。申し開きの余地もございませぬ。——ただ主、充剛はあのとおり良くも悪くも愚直な方でございますれば、姫様を案じておられるお気持ちに偽りはなく、六角様に対しても感謝することは多々あれども決して他意はござりませぬゆえ、何卒……何卒ご理解いただきたく。また、私の姫様に対するご無礼な放言の数々は、無礼打ちを覚悟の上でございます。もとより、お許しいただけるものとは思うておりません。我が身につきましては、姫様のお気の済むよう存分にご処断くださいませ」
どこまでも、天晴れな男だった。こんなに良く出来た家臣が、充剛のところにいるなんて……豚に真珠とは、まさにこのことだ。
その出来た家臣ぶりに感動すら覚えていると、定匡殿が控えめに咳払いをした。
「林殿は、充剛殿の軍と六角軍との合議の場で、これまでも何度かお目にかかっており、われらとも気心の知れた気持ちのよい人物でしてね。難点といえば、器用すぎることでしょうか。沙羅姫の言動を逆手に取り、あの充剛殿を押さえ込んでしまわれるなど、他の者にできる芸当ではありませんよ。そんな林殿をここで失うのは、われらにとっても正直、手痛いのですが……」
温情ある判断を、と言うわけか。
好きに処断しろといわれたから、じゃあ、手打ちに——というほど私も短絡的ではない。
最初から、この男が私の本心を読み間違っていないことも承知の上だ。そして、この男が本気で処分されるつもりがないということも。
「———わかっています。この者がいなければ、あの場は穏便には収まらなかった。それに、この者をここで殺してしまっては、定匡殿との相談の結果を充剛の陣に持ち帰る者がいなくなってしまうでしょ?」
「よく判ってらっしゃる」
満足げに頷く定匡殿から、平伏したままの男に視線を戻して、その顔を上げるよう命じた。
「そういうわけよ。林……綱興殿」
「綱興で結構でございます。沙羅姫様」
綱興は爽やかな笑顔で応じた。
改めて見る綱興は、見た目も物腰も爽やかで、かつ落ち着いており、聡明な印象をうける。
端正な顔だちだが、清和や兄上たちのようにハッと人目を引く強烈な印象はなく、どちらかというと、定匡殿と似た外柔内剛な雰囲気を身に纏っている。
「……では、綱興。とても創造的な<私の女心>を不問に処す代わり、これからも充剛が面倒臭いことを言ってきたら、そのあなたの創造的な読心術で、私と充剛との間に血が流れないよう、うまく立ち回ってもらうわよ」
「なんとも恐れ多い役目ですが、御意に添えますよう、誠心誠意をもってお勤め申し上げます」
真面目にそういう綱興に、気づけば私は笑顔を見せていた。
定匡殿が評したとおり、器用な男だ。充剛を第一に考えながら、私にもそれなりの誠意を払おうというのだから。
「なんだか、不思議ね。あなたが定匡殿の家臣というなら納得できるんだけど、どうして充剛なんかに仕えているの?」
つい、あけすけな疑問を口に出してしまった。
さすがの綱興もびっくりしたらしい。だがとっさに驚いた表情を隠し、いやはや……と照れたように身の上を語った。
「私はこの山城の国人、狛家の分家筋の出身でございます。分家の上しかも三男では、百姓たちともそうかわらぬ半農半武のどっちつかずの生活で、本来であれば、日のあたらぬ一生を歩んでいくはずでございました。ところが、この戦続き……先の合戦で、私の兄……次男が討死した折、私を新たに武士として拾い上げてくださいましたのが充剛様でした」
充剛には感謝してもし足りない、武士としての人生を切り開いてくれた充剛のために精一杯お仕えするのが、自分に唯一できる恩返しだ、ということを綱興は爽やかに謙虚に、けれど熱く語った。
「国人衆でも、そんなに大変なの?」
「国にもよるでしょうが、今時分はどちらもそう変わりないかと。どこも嫡男は大切にいたしますが、次男三男以降になると、身の処し方に苦労するものです」
私の良く知らない世界の話だ。興味深く聞いていると、
「林殿は、分家とはおっしゃるが、山城の国人衆でも有力な狛一族のご出身。加えて、ただいま姫も目にされた優れた才覚を持つ者です。遅かれ早かれ、いずれかの大名や武将から士官の声がかかったと私は思いますがね」
もちろん六角でも、と綱興を買っているらしい定匡殿が、すかさず援護をした。綱興も、ずいぶん六角に好かれたものだ。
それに対して、綱興は曖昧に笑って「とんでもない」と謙遜する。そして真実、充剛への忠誠心なのか、自分の他にも充剛に拾われた浪人者や、百姓上がりの侍など、充剛に感謝している者は多いということを話して、ここには居ないあの充剛を持ち上げた。
そんなことで、私の充剛に対する評価は髪の毛一本ほども変わらなかったが、この綱興が本当に充剛のことを主として大切にしていることは、なんとなく理解できた。……こんなに出来る男が、充剛の家臣というのは、どうしても不本意だけどね。
それと同時に綱興の話から、充剛のところでは随分人の出入りが激しいことを知った。
私は目ざとく、けれどさりげなく訊ねる。
「そんなにあちこちから、たくさんの人が集まってきているの?」
「そうですね、坂東武者から西国の浪人まで、この乱世で主家を失った者などが、戦働きできる場所を求めて多く押し寄せてきているのは事実です。それらの者を一顧だにしない有力武家が多いなかで、充剛様は決して邪険にはせず、本当に才覚のあるものは迎え入れてくださるということで、評判が評判をよんで人が集まっているものと存じます」
「へええ。私は京育ちで、あとは紀伊に引きこもっていたから、他国のことをほとんど知らないの。そんなにいろんな国の者が集まっているのなら、ちょっと見てみたわ……」
軽く振ってみると、綱興は人の良い笑顔で、
「左様でございますか。では姫様さえよろしければ、陣中見舞いにおいでください。名にし負う<畠山の今かぐや>がみえられるとあっては、みな大喜びし、士気も上がりましょう」
いたく歓迎な姿勢で応じてくれた。
私は心中で、よっしゃ!と右拳を突き上げる。
機敏にそれを察したらしい定匡殿は、やや焦り気味に口を挟んだ。
「それは結構なことですね。ですが、われらも姫もこちらに来てまだ日も浅く、戦場にも慣れていないので、それはゆくゆく……また折を見て、ということにいたしましょう」
最後は、優しく私へと微笑みかける。他の誰でもなく、私にむけての牽制だ。
強引に戦場まで着いてきた私の目的を知るが故の、定匡殿の優しさか。
定匡殿の許しが出たら、いずれ充剛の陣中にも足を運ぶという約束でその場はまとまり、
「さて、今後の相談でしたな」
話が本題に戻って、私はその場から退出することになった。
*
出城での生活は、始まってみると予想に反して快適で平和だった。
兵たちが落ち着き準備が整いしだい、すぐに合戦かと思いきや、先陣との連絡やら合議やらで、毎日が淡々と事務的に過ぎていくばかり。
さらに普段は同行するはずもない<姫>のためにか、城での身の回りの世話をする侍女なども里から数人迎え入れ、ここでも私のお客様待遇は変わることがなかった。
人生で初めての戦場に臨むのだと、いささか気負っていた私にとっては、拍子抜けするほどだ。昨年の丹波合戦での緊迫した様子が、頭の隅に残っていたせいもあるのかもしれない。
いずれ、同じような状況にならないとも限らないが、少なくとも今しばらくは定匡殿は戦を本格化させるつもりはないらしい。
市辺城に居てもすることもなく退屈で仕方ないので、私は斉明と柴犬の小太郎を供に、付近を散策するなどして数日を過ごした。
その数日の中で、耳目にした情報から現状を整理するに……まず地理的には、本陣を構えるこの市辺城から少し下った——距離にして十二、三町程度か——木津川東岸に定匡殿の叔父上が控える六角の先陣が敷かれているらしい。さらにそこから一里ほど北上したところに充剛の本陣があるそうだ。
対する頼忠叔父や兄上の東軍は、充剛たちから見て西正面に位置する水主城と富野城を本陣に据え、この半年で木津川西岸の田辺城や草路城おさえて睨みを効かせているらしい。
戦況的には、秋口に布陣した六角の先陣は、川を挟んだ対岸の草路城を警戒しつつ、北からの東軍侵攻に備えているが、東軍との睨み合いが続くばかりで、互いに大きく仕掛ける様子はいまのところないようだ。充剛たちからしてみれば、西岸を取り戻すべく大きく打って出てほしいところだろう。
頼忠叔父と兄上の軍については、ここ暫く目立つ動きがないらしい。百姓たちの収穫も一段落して、戦を本格化するには最善な時期に突入しているのにいまだ動かないのは、畠山宗家または味方する東軍からの援軍を待っているのではないか、というのが大方の読みだ。だからこそ、それに備えて、ついに六角本体が出陣してきたとも言えるが……。
逆にそうであるなら、援軍が来る前に定匡殿が一気に仕掛けないのは、これまたなにやら策があるからということかしら? ただただ、向き合うだけで終わる戦がないわけではないが……、定匡殿がその為にわざわざ南山城まで兵を率いてきたとは思えない。
戦場となっている南山城の国人や領民からしても、長陣迷惑の空気が強く漂っている。この冬場に蹴りがついてほしいと願っているようなのが、私の世話にきている侍女たちの言動からも窺えた。
今の状態で双方が引くことは考えられないから、細川の丹波合戦ほどではないにしても、いずれこの戦でも多くの血が流れるのを避けることはできないだろう。
こんな状況の中で、叔父上の軍にいる清和は一体どうしているのだろか。<狂犬>について何かしら手がかりを得ているのだろうか……。私はいつも心のどこかで、そんなことを案じていた。
それと同時に、父上たちが細川との再同盟の手を打つ前に決着をつけねば、と気が急いているのも事実。
出城に入り十日あまりが過ぎても一向に動く気配のない定匡殿に、私は次第にいらだちを募らせていた。
いったい、いつまで動かないつもりでいるのか——、と声に出して問うてみようかと思案していた矢先、定匡殿が先陣に顔を出す運びになった。私が退屈していたのをみこしてか、「同行しますか?」と向けられた誘いに、私が飛びついたのは言うまでもない。
そして、向かった先陣で初めて、定匡殿の唯一年上の肉親でもある叔父・六角定親殿と対面することになった。




