五
「どのような、ことでしょう?」
小太郎に水を与えて、定匡殿はゆるりと振り返る。
「この夏以来、六角は南山城にて西軍畠山とともに東軍畠山を相手に陣を構えている。未だ小競り合いで大きな合戦には発展していないが、いずれ勝敗を決するような大戦になるだろう———そう聞いていたので、私もこちらを頼って参ったのですが………なにゆえ、此度はこの東西の戦に参加されるのですか?」
今更それを訊くか、と思われたのかもしれない。
六角の当主は黙ったまま、じっと私を見つめた。背後の斉明も、口をはさまない。
水を飲み終えた小太郎が、自らの居場所に帰っていくのを目で追いながら、私は言葉を継ごうと小さく息を吸い込んだ。
立ち入ったことなのだから、無理にその理由を訊くつもりはなかった。ただ、純粋に知りたかっただけのことだ。
だが、私が声を発するよりも先に、定匡殿が口を開いた。
「———血縁、地縁というものは、容易には断てないものなのですよ」
真冬にあって、南風のようにふわりと届く穏やかな声だった。
「ご存知かもしれませんが、一昨年、病で身罷った私の正妻は、畠山充剛殿の妹姫でした。沙羅姫にとっては充剛殿同様お従姉妹にあたる姫です。もとより面識はなく、私の父と畠山家との間でかねてより決まっていた政略結婚でした。私個人としては、どこかで沙羅姫に似ていればという淡い期待もあり、受け入れた話でもありましたがね」
深刻な話を茶化すように、定匡殿はいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「実際、輿入れしてきた姫は、沙羅姫には似ていませんでした———が、沙羅姫とはまた異なる愛らしい姫でした。そして、良い妻、良い母でもありました。ただ……もともと、あまり丈夫な性質ではなかった。姫を産んでからは病がちで、一昨年の春先に病で臥せってからは……快復する間もなく、とてもあっけなく逝ってしまいました……。いろいろと気遣いが過ぎるような優しい妻でしたが、亡くなる間際、遺言までして、どうか兄である充剛殿を助けてくれと頼まれて……」
「まさか——」
口を挟むのは無礼だと思ったけれど、もう雄叫びのような言葉が口から飛び出していた。
「その約束のために此度の戦をっ!?」
ただ静かに頷く定匡殿を、私は茫然と見つめた。
義理堅いのは、そりゃ人として、とても大切で立派なことよ。だけれど、充剛の妹姫が亡くなることで自然に解消される同盟を——ましてや六角にとって特段有利でもない同盟を——あえて続けるなんて……人がよすぎるというか、なんというか……。
「…………」
言葉が見つからず、ただもう定匡殿のその義理堅さに感心していると、定匡殿は一転、にやりと笑って、こちらの顔を覗き込んだ。
「いま、沙羅姫は私のことを善人だと思いましたね?」
え、どういうこと? と眉をひそめた私に、
「もちろん、妻の遺言を守ってやりたいという思いもありましたが、それだけではなく、計算もあってのことですよ」
残念ながら、私は根っからの善人ではないんです——、と定匡殿は今度は開けっぴろげに笑う。斉明はやれやれと嘆息して、近くの濡れ縁に腰を下ろした。
私は二人を見比べて、これが定匡殿の冗談ではなく、本心なのだと理解する。
「六角としては、火の進入を領地手前(南山城)で防ぎたいというのが、本音です。そのためなら、戦もやむなし」
それは、至極納得のいく理由だった。
戦場になっていないからこそ、いまも豊かで落ち着いている近江の国。百姓たちの暮らしも、商人たちの商いも、京よりよほど順調なくらいだ。
現状の維持のためには、領地に戦を持ち込ませないこと。そして、そのためになら、他所での戦いも辞さないと。
想像していたよりも、六角定匡という男はしたたかなのかもしれない。
それと同時に、私は悟っていた。
六角の人々がのんびりしているのは、みんなこの定匡殿を信頼しているからだ、と。家臣も領民も、絶対の信頼を定匡殿においているのだ。
六角の門をくぐったあの日、亡命先に選んだ理由として、噂程度の知識で定匡殿のことを優秀な領主だからと評したが、あながち間違いではなかったということか。
家臣や領民のためにならないことを、この男は選択しない。
今回の戦でも、充剛たちが自軍だけで南山城を死守できるのであれば、おそらく定匡殿は様子見に徹しただろう。たとえ、その結果が、義理を欠くことになったとしても。
兄上たち東軍の勢力と、充剛たち西軍の勢力を冷静に秤にかけて、今回は加勢しなければいずれ六角にとっても不利な事態になるという判断があったからこその、出陣か。
私の頭の中を見透かすように少しの間を取って、戦の話とは対照的なにこやかな雰囲気のまま、定匡殿は切り出した。
「年の瀬を迎えていて、六角の人々の生活もあわただしい。だが、準備も整ったので、このぶんだと年が明けてすぐに、私も南山城の前線にいる我が叔父・六角定親の軍と充剛殿の軍に合流することになると思います。———いまでも、沙羅姫のお気持ちはお変わりありませんか?」
本気で、戦場へついてくるおつもりですか? と訊ねる定匡殿に、私は短く応じる。
「ええ。変わりありません」
きっぱりとした返事に、定匡殿は少し困ったように斉明と顔を見合わせた。
六角にしても、私にしても、冷静に考える時間は十分にあったはずだ。
六角にとっての私は、人質としての価値が高く、それゆえ家臣も保護を認めている。ゆえにこうしてお客様扱いで落ち着いた生活ができていた。しかし、外部との接触はもちろん、政の場には近寄れないように斉明に見張らせていたり、緩やかではあるけれど余所者である一線はきっちりと引かれていたのも事実。そんな私を戦場に出したくない、というか出せるわけがないのは、十二分に理解できることだが……。
「私は、戦場に出るためにこちらに来たのも同然ですから」
「この屋敷で最初にお会いしたときにも、確かにそうおっしゃっていましたね」
早くも諦観に似た声音だった。とはいえ、その心情とは裏腹に、六角の当主として課せられた役割を果たすべく、彼は破粘り強く私を説得をするつもりのようだ。
「六角の者たちは、沙羅姫の人となりも、また夫君の仇を討ちたいという事情も、それなりに理解はしています。それらを加味した上で、貴女を南山城までお連れすることは、そう難しいことではありません。しかし、そこまでです」
「出陣は……」
「難しいでしょう。皆が賛成するとは思えません。たしかに貴女の武術の腕は、昨日今日の侍よりはずっと確かだが、稽古と実践は恐ろしく異なるものです。私個人としても、姫が戦場に出ることは許可しかねます。それに加えて、いいですか? 戦に参加せずとも、不審な動きがないか、貴女は常に監視されることになる。また、前線のいずれかの拠点での生活は、おそらく貴女が想像しているよりも遥かに不便で不潔で、危険なものになるでしょう。なにより——」
一拍おいて、定匡殿は私の瞳を正面からまっすぐ見据え言った。
「ご実家である畠山宗家と貴女との溝は、決定的なものとなってしまう」
この期に及んで、私と実家の関係を案じてくれるとは。
感動を通り越して、どこか白々しい気分で、私はじっとりと定匡殿の眼を見返した。
無言の応酬ののち、勝利したのは私の方だった。
定匡殿は小さく溜息をついて、今度こそあからさまに困ったなと、自分の顎を右手で何度もさすった。斉明はそんな主人を不憫がるように、そっと視線をそらせて庭の立ち木を見やる。
やがて定匡殿は、妙案あるいは隠し玉ともいえる話を持ち出すことにしたらしい。
「貴女が我ら六角と行動をともにしているとなると、それだけで東軍への敵対は明らか。貴女の狙いどおり、東軍三好家への<沙羅姫の輿入れ>話はもちろん消滅するでしょう。しかし、私の手にしている情報では、畠山宗家は細川宗家との同盟は依然、続けるおつもりらしい」
「……それは、どういう……」
清和の生存が、父上たちに知れているということ!? 兄上が、父上に清和のことを漏らした……?
やや顔色を失くした私だったが、淡々と繰り出される話の内容を理解するにつれ、今度は頬が紅潮してきた。
「細川家のご嫡男である清和殿が亡くなり、沙羅姫も細川を出られた。現時点で、細川家の跡を継ぐのは清和殿の弟君にあたられる清国殿……でしたか?先ごろ元服されたばかりの若君です。その清国殿の御正室に、細川頼義殿(沙羅の長兄)の姫君を輿入れさせる計画があがっているらしいのです」
「頼義兄様のところの菊姫を……!」
いかにも、あの父上の考えそうなことだ。私が駄目なら、代わりを……それも、清国殿と年の似合いの孫娘を細川に差し出す。そこまでして、和睦に拘るか。そこまでして、この戦に勝ちたいか……!
「この和睦が成立すれば、貴女の夫君の実家——東軍細川家までもが、貴女の敵方となる」
血縁というものは、簡単に断てぬもの……。
定匡殿は声には出さなかったが、六角も同じ原理で戦に関わっているのだ。
彼の押し付けがましくない説得は、なるほど現実的で悪くはなかった。
「私も知らない私の実家の情報を握っているなど、さすがとお褒めするべきかしら?」
気を取り直して、口元に微笑を浮かべながら私は定匡殿を見つめた。彼は小さく肩をすくめて、嘯いた。
「近江商人は、商い以外も優秀ですからね」
そういったものをも含めて、六角家は侮れない存在なのだと改めて思い知らされる。
いずれにせよ、もたらされた情報が真実か否かはこの際、あまり大切ではない。父上の策に対して怒りを覚えるのはもう何度目のことかわからないくらいだし、今湧き上がる怒りの感情はとても冷ややかでもあった。
兄上のところの菊姫はまだ十にもならないはず。いたいけな姪姫に、私と同じ苦労——曼殊院の嫁いびりは体験させたくない。
何よりも、清和はまだ生きている。畠山と細川の同盟は反故にはなりえないのだ!
ましてや、二重の同盟など不要!!
心の中で叫んで、人知れずこぶしを握った。
「定匡殿や六角の皆様が気にかけてくださるのは、とてもありがたく思っています。ですが、夫の仇討ちのためならば、私は実家はもちろん細川家とも敵対する覚悟はできております」
「ですが……その仇の山名の<狂犬>の情報については、私のところにもまだ何も入ってきていない。この状況で果たして、貴女が大切な方々を敵に回し、前線にまで出向くだけの価値があるのか、私にはいささか疑問です」
たしかに、狂犬の潜伏先については、南山城の戦場に関係するくらいしかわかっていない。それも、清和からの情報に過ぎない。
ここにきて目立たぬように観察した結果、六角には新参者はほぼいないことが判明した。まあ、今まで中立を保って戦になっていなかったので、兵力が削がれることもなかったのだから、家臣を追加補充する必要もないのは当たり前。狂犬がまぎれているとしたら、充剛の軍か、頼忠叔父と義貴兄様の軍か……。
「———上等です」
きっと私は今とても好戦的な眼をしているのだろう。
清和が見たら、そういう勝ち気で引かぬところが気に入らん!……と即喧嘩になるような、私らしい眼。
私を黙って見つめていた定匡殿は、やがてゆるゆると首を左右に振って、これまで聞いたことがないくらいの大きな溜息をついた。
「お覚悟は、変わらないのですね。ならば、仕方ない」
「……どうなさると?」
「同行を許可するしかないでしょう」
瞬間、私は自分でも抑えようがないくらいの笑みを満面に浮かべていた。
定匡殿も濡れ縁に控えていた斉明もあっけにとられたようだったが、さすがというか定匡殿はすぐさま気を引き締めるように言を継いできた。
「ただし、四六時中、護衛兼見張りがつくことと、私の側を絶対離れないことをお約束していただきたい」
「もちろん、お約束いたしますわ!」
浮き立つ返事に、定匡殿と斉明は再三顔を見合わせる。
「いやはや、斉明。私はとんでもない勘違いをしていたのかもしれぬな。<今かぐや>を妻に迎え、死してなお仇討ちをというほどに想われて、細川清和殿のことをずいぶん羨ましいと思ったが……こうしてみると、実に大変な女性を妻にされたものだ」
「知らぬが仏……といいますが、これでは細川殿も姫のことが心配で成仏できないのでは……」
二人のひそひそ話を聞こえない振りで流して、私は次なる目標へと狙いを定める。
父上たちの策が成るよりも早く、清和を細川に返さなくては……!
こうして、平和な年の瀬を思いもしなかった近江の国で迎え、新年明けてすぐに、私は当初の目論見どおり、清和のいる——そしてそれは同時に、清成殿の仇のいる南山城の戦場へと向かうことになった。




