四
斉明の前でするすると開いた文には、霞も無事に山科の小備前の元に辿り着けたということ、石清水八幡で鷹丸をまいた後はもう畠山には帰らぬ決心をしたこと、小備前のところでは客として大切にしてもらっているので心配はいらないということ……などが、滑らかな筆跡で記されていた。
一見なんということのない日常の報告の最後に付け足すように、『細川の屋敷にいながら今まで知らなかったことなどを色々教えてもらっている。それにつけて、己の恩知らずなことを、恥ずかしく申しわけなく思う』云々と綴り、そこに霞なりに清和と清成殿とのことを思い返している様子が窺えた。
今となっては推測するしかないが、彼女がかつて泣きついた相手は、おそらく清成殿のほうだったのではないだろうか……<氷の貴公子>を知らない霞にとっては、二人を区別することはかなり難しいだろうが、彼女自身がそう判じているように文面からなんとなく察せた。
私の身の回りのことなど、不便があり人手が必要であればいつでも呼んでください、すぐに駆けつけます——と感情の抑えた文字で文は結ばれていた。
そしてまた文に添えて、私の愛用品である母上の琵琶——初瀬という銘がある——が届けられていた。
おそらく覆手の下——隠月の内にとても大切な文を潜ませたままの母上の琵琶。
初瀬そのものが掛け替えのない大切すぎる品であり、危険を伴う今回の作戦では持ち出すことを躊躇われた。同時に、もう一つの大切なものを隠して置く場所として、私はそれを選んでいた。初瀬と同じくらい、身近に置いておきたかったもの——清成殿が残した文だ。
私自身ですら持ち出すことを諦めていたのに、霞は巨椋池の別邸を出るあの緊急のときに、石清水八幡への奉納品という名目で、気を利かせて持ち出してくれていたらしい。本当に、私の知らないうちに出来る侍女になったものだ。
無事に畠山を出て、これまで霞の元にあった琵琶と文。もう一度、この胸に抱くことができるとは……。
ほんの一瞬、込み上げる想いが溢れそうになって、私は慌てて顔を起こした。
琵琶の唯美な曲線を右手で撫でながら、私は文遣いの者をここに呼んでくれるよう斉明に頼んだ。効率よく、それと同時に六角に対して警戒心を抱かせないための返答……すなわち、口頭での返事のためだ。
「お久しゅうございます」
私の前に現れた文遣いの男は、簀縁に腰を下ろすと深々と首を垂れた。
年のころは二十歳前後、柔和な雰囲気を纏い、日に焼けた健康そうな肌色にも変わりはないが、以前よりもほっそりとした首筋にここ半年の変化が見てとれる。
まさか、こんなところに文遣いとして来るとは想定していなかった人物——和気泰之だった。
「———弾正のところで、見かけたことがあるわね。名をなんといったかしら?」
「泰之と申します。小備前の甥にございます」
清和——いや、清成殿亡き後、この者はどうしているのだろう……と偶さか気にかけることもあった。だが、私は長く細川邸を留守にしていたし、自身のことで余裕を失っていたので、ついぞ姿を見かけることも声をかけることもないまま細川からは離れてしまった。
「そう、泰之だったわね。少し痩せたようだけど、息災にしていたようで何よりだわ」
清和の側近としてではなく、敢えて『小備前の甥』と名乗ったことから、今日この場での泰之の立場を推しはかり、無駄な言葉や態度は控えることにした。
この男は、清和の側近である以前に、清成殿の乳兄弟だったのだ。巨椋池の別邸で、清和から事の真相を訊いたときには、泰之や弾正は清和生存の事実を知っていながら、黙っていやがったのか、こんちくしょー!と恨みには思ったけど、それも今では呑み込めている。清和の無事を喜ぶのとは別に、彼らは清成殿の喪失を抱えて今日までを過ごしてきている。二人の秘密を堅持したまま……。
「早速だけれど、霞への返事を口頭で預かってちょうだい」
「御意」
頷いて面を上げた泰之に、私は小さく笑んで短く返事を託けた。
霞の無事がわかって私も安心したこと。私は六角のご厚意で毎日を元気に過ごしてること。いまはまだ無理だけど、本懐を遂げたあかつきには必ず霞を呼ぶから、それまでは辛抱強く待っていてほしいこと。
「霞ほど信頼している侍女はいない——そう、彼女に伝えてくれる?」
「承知いたしました」
「それから、この初瀬を…」
私は手元に届いたばかりの琵琶を、再び泰之に渡した。
袋に収められた琵琶を受け取りながらも、さすがに怪訝に思ったらしい。ほんの少し、彼の目が泳いだ。
「わざわざ届けてくれたのに悪いわね」
伝言ではなく、泰之本人にむけて言葉を繋ぐ。
「これはね、私の母の形見でもありすごく大切な琵琶なの。それと同時に、いろいろと……亡き人を思い出す品でもあって———。琵琶の演奏が上手な人だったわね。いつも私を気にかけてくれた、特別な人だった。一緒に備前に行くことはなかったけれど、この先も決して忘れることはないわ……」
泰之の肩がかすかに震えた。
亡き人のなかに清成殿が入っていることを、この男は気づいたはず。
「今はまだ弾けない……思い出すことが多すぎるから。でも、必ずまた近くに置くときがくるわ。その日が来るまでは霞に預けておきたいの。だから、もう一度お前に託すわ」
「——しかと承りました」
「くれぐれも、よろしくね」
何をとは口にしなかったが、この男ならば察してくれるだろう。琵琶と清成殿の思い出……それ以上に、霞をお前に託すからよろしく———と。
偽りのない本心をいうなら、霞にも琵琶にも傍にあってほしい。しかし、霞を呼ぶことで彼女の身に危険が及ぶことや、彼女の存在が私の弱点となることは避けたかった。小備前のところならば、霞も琵琶もそして清成殿の文も安心だ。きっと霞なら、私の本心を理解してくれるはず。そして、この泰之ならば、霞に寄り添ってもくれるだろう。霞の清成殿への感謝や哀悼の気持ちにも。
「ご実家では、よい侍女をお持ちだったようですなぁ」
私を慰めるように、斉明はしみじみとした声でつぶやいて、琵琶とともに六角を去っていく泰之を一緒に見送ってくれた。お目付け役とはわかっているけれど、それでも人情味のあるこの斉明のことを私はけっこう気に入っている。おかげで、文が連れてきた郷愁とそれにまつわる一抹の寂しさも、やんわりと拭われた気がした。
*
観音寺城の館に逗留して二月が過ぎ——季節は晩秋から冬へと移り変わった。巷の社には出雲より神々がお戻りになり、日を追うごとに夜の長さと寒さが強まる霜月を過ごして、気づけば師走を迎えていた。
庭木にまじって植えられている南天が、小さく赤い実をつけて、今年の冬の到来を告げている。
風に揺られる赤い実から視線を戻して、私は目の前の子供たちに木刀を拾うよう指示する。
「先程の一撃で、なぜ木刀が落とされたかわかる? 普段から刀を強く握っては駄目よ」
鼻と頬を上気させた二人の子供は、はいっ!と元気な声と白い息を吐いて、再び木刀を構えた。
琵琶湖の湖上を渡る風が、北国の雲を連れてきた、その日の午後。かすかに風花が舞うなかを、私と斉明は定匡殿の二人の息子——弥太郎殿と慶次郎殿——に剣の稽古をつけていた。六角に来てから特にすることがなかった私に、定匡殿や斉明が気を利かせ設けてくれた役割だ。
まあ最初はきっと、戦働き云々を口にしていた私の腕を試してやろう、それには子供相手で十分だ——くらいの思惑で用意された役割だったのだろうが、実際に剣を握らせてみて、私の言を信じてくれたらしい。おおよそ三日に一度、本来の家臣に代わって私と斉明が二人の相手をすることになった。
とはいえ、嫡男の弥太郎殿は御歳七つ、次男の慶次郎殿にいたってはまだ五つなので、基本的な所作を繰り返し鍛錬することが主な稽古の内容だ。それは言い換えると、変化に乏しく忍耐力を要する。真面目に取り組んではいても、幼い二人の集中力がとぎれがちになってしまうことは仕方のないことかもしれない。
木刀を打ち下ろす稽古を、汗で握りが甘くなるくらい繰り返したころ、庭の生垣から茶色い塊が猛然と駆け込んできた。動きはそのままに、視線をそちらに向けるのと、慶次郎殿が無邪気に声をあげるのが同時だった。
「あっ、小太郎だ!」
小太郎と呼ばれた茶色い塊——柴犬は、丸まった尻尾をぷりぷりと振りながら、子供たちのところに駆け寄ってきた。こうなるともう駄目だ。慶次郎殿だけでなく、弥太郎殿までもが稽古を放り出して、二人して柴犬をもみくちゃにする。
小さな吐息を一つついて、私は手にしていた木刀を下ろした。そうして、子供たちに毛をくしゃくしゃにされても、はあはあと舌を出してどこか笑顔にも見える表情を変えることのない、奇特な柴犬をしみじみと見た。
そもそも、犬に『小太郎』なんて、なんだか変な感じ。まるで、人扱い? ……いや、でも似てる……誰かに。
はて、誰に似てるんだ?と人懐っこい犬の顔を見下ろしながら首をかしげていると、人の話し声とともに、木戸をあけて定匡殿を先頭に家臣の男たちが数人庭へと入ってきた。みな狩り装束で、手には山鳥や兎などの獲物を引っさげている。
「おや、まだ稽古の途中でしたか?」
小太郎と戯れる子供たちを愛しそうに眺めつつ、定匡殿は右手の籠手を解きながら私のいる縁側へとやってきた。
「ちょうど、もう終わろうかという時分でしたから」
そうよねと斉明に同意を求めるように顔をむけると、斉明は苦笑気味に頷いて返した。
「若君たちには、十分な稽古でございました。されど、姫様にはいささか物足りぬやもしれませんので、その分は後ほど私めが」
「あら、本当にいいの?」
「お手柔らかにねがえますれば」
「山内殿、姫様の前だからと年甲斐もなくええ格好をして、怪我でもされては、殿も姫もかえって迷惑じゃぞ」
「そうじゃ、そうじゃ」
家臣たちが、からかい半分に声をかけるのを、斉明は泰然と受け流していたが、定匡殿までもが、
「斉明、無理はしないでくれよ」
と真面目な声で言うに至って、なんですとっ!? と目を大きく見開き抗議をしてみせた。
「然らば、わしの衰えぬ実力のほどをここで証明して見せましょうや!」
「いやいや、それには及ばんよ。其方が六角の誇る矍鑠たる家臣であることは周知のこと……」
定匡殿の笑い含みの声も、最近では珍しくなく耳になじんでいる。
こんな他愛のない挨拶のようなゆるい雑談が、私たちの間では日常となりつつあった。
客としては居心地よすぎるほどの待遇で、時折、申し訳なさが喉元までこみ上げて来る。私は自分と清和のため、六角を利用しているに過ぎないのに。
「この子達も、すっかり沙羅姫に馴れてしまったようですね。行儀が悪いときは、容赦なく躾けてくださってけっこうですから」
定匡殿の視線の先では、小太郎をめぐって、兄弟間での小さな諍いが勃発していた。弥太郎殿が小太郎を独占する勢いで、慶次郎殿も小太郎を触りたいのに、手が届かない。ついには「父上っ、わたしにも、小太郎をください…っ」と慶次郎殿が泣き出すしまつ。周りの家臣たちも、困ったような可笑しいような顔つきで、二人と一匹を眺めている。
「これ、いい加減にしなさい。小太郎は私の猟犬だ。これ以上、そなたらが好き勝手するなら、小太郎自身も黙ってはいまいぞ」
小太郎は相変わらず人懐こい様子だったが、父親の言葉に息子二人は感ずるところがあったらしい。びくりとして、伸ばしていた手をそろそろと引き戻した。それを潮に、お子達は母君たちのいる奥殿へと戻るように指示されて、狩に同行していた家臣達とともに一礼して庭から去っていった。
ようやく子供たちから解放された小太郎を手元に呼んで、定匡殿は「よしよし」とその乱れた茶色い毛を撫で付けてやった。
子供たちにあんなにもみくちゃにされても、唸りはおろか、牙一つ見せない、辛抱強い小太郎には感心してしまう。
「こいつは、私のお気に入りの猟犬なのですよ。兎狩り用ですが、熊と遭遇しても決して怖気づいたりしない勇猛な犬です。先ほどからご覧のように辛抱強くもあって、私の言うことも良くききわける。とにかく賢い奴なので、戦場にも連れて行くほどです。以後お見知りおきを」
小太郎の頭を撫でながら、にこにこと私を見上げる定匡殿の顔を見て、私は内心「あっ」と声をあげる。
誰かに似てるって、この犬……飼い主である定匡殿に似てるんだわ。理知的でありながら、人の良い感じがする目許や口許って言うのかしら……?
いったんそう認識してしまうと、もうそっくりに思えてしまって、私ともあろうものが笑いを殺すことができなくなってしまった。
眉をひそめて、笑いをこらえようとしている私に気づいたのか、定匡殿は「ああ」と悪戯気味に頷いて腰を上げた。
「私と似ているのでしょう?」
「……え? いえ、そんな……」
「六角の者なら、みんな知っていることですよ。なあ、斉明」
「殿に似ているなどと、過分にも果報な畜生めでございますよ、小太郎は」
斉明は腕を組んで、しかし随分と優しい目で小さな茶色い畜生を見下ろしている。
「五匹いた子犬の中で、どうしてかこいつだけが私に似ていてね。それで飼わぬわけにはいかなくなり、飼ってみれば先程も話したとおり賢い犬だったものですから、すっかり愛犬となってね。『小太郎』なんていう人並みの名前もついたというわけですよ」
小太郎は、定匡殿に促されて私の足元までやってくると、すんすんと匂いをかいで、それから飼い主とよく似た人の良い笑顔ーーにみえる顔ーーで私を見上げた。
「沙羅よ。よろしくね、小太郎」
小太郎は、こちらこそとばかりに、丸まった尾をぷりぷりとふってみせた。なんだか、仲良くなれそうだ。
北からの雲は東へと流れ去り、姿を見せた太陽は早くも西へと傾き始めている。空気が冬らしい冷ややかさをもって辺りに広がる中、私たちの周りだけは、そこはかとなく暖かな空気に包まれている錯覚を覚える。
何もかもが、平和なのだ。なにかの祝い事があって、親族の元に遊びに来ているような空気とでも譬えればいいのか。
有力武家の多くが東西に分かれて戦を繰り広げているこのご時世で、無論、六角だけが例外となれるわけではない。その証拠に、六角も<西軍>陣営に身を置いてはいる。しかし、所領を侵略されているわけでもないし、六角家の中で内紛があるわけでもない。事実、六角は西軍に身を置きながらも、長い間、中立を保っていた。あえて、いま戦に突入しなければならない理由が、見当たらない。
「……少し、立ち入ったことをお伺いしてもいいかしら?」




