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「ああ、沙羅。本当にあなたの琵琶は素晴らしいわね」
義母上はいつもと同じ台詞を、これまたいつもと同じ感嘆の吐息にのせて漏らした。
「本当に素晴らしいわ。きっと今では義貴殿よりあなた方が上手いわね。亡くなったあなたのお母様———沙貴様の音色とそっくりよ」
「あまり褒められると、調子に乗って夜明けまで弾いてしまうわよ。残りは次にとっておいてくださいな」
私は軽く笑いながら、なれた琵琶の弦をそっと指先でなでた。
母上の形見と呼ぶものがあるなら、それはこの琵琶であり、この演奏だろう。
亡き母は、今は焦土と化した京の都の宮廷楽師の家の出であったらしい。
公家とはいえ実権の伴わない家柄だけの貴族で、しかも朝廷があのざまなのだから、父上に見初められることがなかったなら、苦しいばかりの一生だっただろう。
その母上が、楽師であり琵琶の名手であったその父と祖父に習ったというのがこの琵琶だった。
そしてその演奏は、幼かった義貴兄様へと受け継がれた。
もともと琵琶は男の人の楽器だから、幼い頃の私には筝と比べてさして興味のある対象ではなかった。
だが、それが母上の形見だと聞かされたのを境に、不思議なことに私の琵琶に対する気持ちは変わった。
どうしても手に入れたい、受け継ぎたいものとなったのだ。
そんな私に兄上は快く琵琶を教授してくれた。
そして琵琶も、私が持っていたほうがいいだろうと、あっさり譲ってくれた。
……あれから、何年が経つだろう。
いつの頃からか、母上の音色を知る者は、私のそれを母上と同じだと褒めてくれるようになった。
そして私は最近、確かに母上の形見を受け取ったと、実感するようになったのだった。
「いつか……そうねえ、この血生臭い戦続きの世が終わったら、京の屋敷に戻って、あなたと義貴殿の合奏——あの『月花』が聴きたいわねぇ」
義母上はしみじみと言って、開け放たれた格子の外に顔を向けた。
つられて私も夜空に浮かぶ上弦の朧月を仰いだ。
義母上も戦にはうんざりしている一人だ。彼女にとって戦は目下最大の不安と不幸の種であるといえる。
「戦が終わる時……か。今の状況じゃあ、そんな日が来るとは思えないなぁ」
あの父上が珍しく義母上や私まで誘ってこの出城に出向いたのには、何かあるんじゃないかと思っていたけど、やっぱり戦がらみの戦略だったのだろう。
義母上には寺社への参詣をかねた物見遊山で気分転換しろ、私にはこっそり狩りに行っていいぞ、なんて耳打ちまでして、うまく誘い出されたわけだけど———。
「ねえ義母上、もしかして広の本邸が奇襲をうけるような情報でもあったりしたの?」
私の生々しい問いかけに、義母上は月から視線を戻すと顔をしかめた。
「まさか、そんなことはあるはずありませんよ」
「兄上達は何かおっしゃってなかったの?」
「なんとも。その手の話題は意識して避ける子達だもの。殿も今は何もおっしゃってくださらないし……」
「そっか」
「でも、敵方の奇襲などは断じてないはずです。あの頼もしい殿とあなたの兄上たちがそんなことを許すはずがないでしょう」
畠山宗家の結束と実力に全幅の信頼を置く、義母上らしい言葉だった。
「義母上の気持ちはわかるけど……結局、私と義母上はいつも蚊帳の外ね」
それには義母上も同感だったらしい。
「……そうね。こと戦の話になればあの息子たちも私を煙にまいてしまうもの。そういう意味では、私の味方は沙羅だけだわ」
苦笑混じりの義母上に微笑みを返して、私はここに来る途中で会った二人の異母兄の姿を思い浮かべた。
たいした言葉も交わせなかったけど、二人ともお変わりはなさそうだった。
長兄で三十路すぎの頼義兄様と、次兄で三十路手前の義教兄様。異母とはいえ、この二人も実兄にしておくには惜しい男性だった。
見目麗しく文武にも秀で、人品骨柄いうことなし。妹の私を疎んじることもなく、昔からよく遊んでくれたし、それこそ狩りに必要な馬の乗り方や、弓の引き方を教えてくれた。
大柄で、少しばかり鋭い目をした頼義兄様は、たぶん父上に似ている。行動もわりと大胆で、そりゃもう滅茶苦茶な我儘をいう私であったにもかかわらず、よく可愛がってくれた。
かわって義教兄様はというと、とにかく優しく懐深い人だった。私が思うようにいかなくて癇癪を起こしたり、わぁわぁ泣いていた時など、神仏の如き慈悲深さで私を慰めてくれた。義母上似で、男っぽいと言うより綺麗という形容が似合う人だ。
義貴兄様を含めたこの三人の兄上達には、もうちゃんとした奥方だっているし、頼義兄様には十一か十二になる嫡男だっている。後継ぎ問題もなし。
畠山宗家はきわめて安泰だ。あとは本当に、この大戦さえ終わってしまえば……。
———柄にもなくそう実感したのは、もしかしたら私の中に流れるこの畠山の血が、気づき始めていたせいかもしれない。私の人生を、そしてこの国を大きく左右する、何かが起ころうとしていることに……。
だが、その漠然とした影は、明けた翌日——その衝撃の朝まで、はっきりと形づけられることはなかった。




