(二)
もしお前が負けたなら、沙羅姫は細川を出ることになる。約束通り、細川側の都合で彼女には何の瑕疵もないように理由は用意しよう。とはいえ、実家の畠山には帰るつもりはないだろうし、帰ったところでまた和睦の道具にされかねない。それは姫の本意ではないだろう。それで、ここ最近考えていたのだが———細川を出た沙羅姫を私が備前で匿うのはどうだろうか。備前ならば距離的にも離れているし、畠山の息もかかりにくい。もとより私が育った場所ゆえ、足利家や細川に縁の者が多く安全でもある。もちろん、備前に匿うとなったならば、時を待たず、私たちの真実は告げる。私たちの真実を知ったら、誇り高い姫のことだ……騙されていたと思い、烈火の如く怒り狂うだろう。或いは、もしかしたら——既にどこかで感じ取っているのかも知れない。
お前は常々、姫のことを「馬鹿な女だからそんな心配は無用だ」と云うが、沙羅姫はお前が思うよりも繊細だし勘もいい。陥穽にはまることをひどく嫌悪する質だから、真実を知ったら今以上に嫌われるかもしれないな……。どんなに想っているか真摯に告げたとしても、受け入れてくれることはないのかも。
まぁ、覚悟はできている。お前ではない———私と云う存在を知ったその結果、たとえ拒まれたとしても構わない。私は沙羅姫が自由に生きられるよう、出来うる限りのことをするだけだ。そして、その時には私も本来の私に戻って、備前で暮らそうと思う。許されるのであれば、姫の傍で。なに、高望みはしないさ……細川の縁者の一人として、ただ彼女の邪魔にならない存在でいい。一緒に琵琶を弾いたり、狩に行ったり……お前ほどに私は得意ではないが、きっと沙羅姫がコツを教えてくれるだろう。そうやって、好きなことをしてゆったりと人生を送っていきたい。夫婦となる事はなくとも、彼女のそばで彼女を守っていけるのであれば私はそれで満足だ。いずれ、姫が愛する男を見出したならば、その願いも叶えてやりたいと思う。
お前と再会してから八年だ———。
沙羅姫の件が片付けば、もうお前には私は必要ないだろう。お前と私が兄弟であることにかわりはない。必要な時は何をおいても必ず駆けつける。———これまでも、これからも。だから、もう一度、私に私の人生を歩ませてはくれないか。お前がお前の人生を歩みたいと思うのと同じことだ。
お前が細川の家督に興味がないことも承知している。場合によっては、姫ごと私が引き継ぐことも吝かではない。考えておいてくれ。沙羅姫と同様、私は出来うる限りお前に、お前が望む人生を歩んで欲しいと思っている。
ずいぶん先走ってしまったが、勝負の行方がいずれにせよ、まずはこの戦を終わらせなければならないな。聡いお前ならば承知してるだろうが、この丹波での合戦がという話ではなく、この大戦のことだ。私たちがそれぞれの人生に戻るためにも、細川の為にも、この大戦をどこかで終わらせなくてはならない。そのためにも、私は今回の合戦を通してどこかに落とし所がないかを探るつもりだ。お前の体調を案じたのが第一ではあるが、以前からこの件も考えていた。
山名との直接の合戦は久しぶりだし、大内も絡んでいるのはこの際都合がいい。聞くところによれば、豊全の持病もあまり良くはなっていないようだし、山名一門には、いいかげん我儘な安義殿のお守りを面倒に思っている者もいるようだ。安義殿からすると西国の雄である大内に乗り換えたいところかも知れないが、現実的な大内が果たして安義殿という因果を受け入れるだけの覚悟を持っているか。双方に揺れる時には、交渉の余地が生ずると見ている。あいだに余計なものを挟むと、なくていい利害や計算が出てくるので、可能な限り西軍の首脳と直接交渉を狙ってみるつもりだ。勿論、無理はしない。お前も知っている通り、私は慎重だからな。できる限りで、やってみるさ。だから、お前もこの際ゆっくりと養生してほしい。
今日は清国が朝駆けに出ている。昨夜、少しだけ顔を覗かせたが、初陣ゆえの焦りがみえて少々心配だ。ここに至るまでに色々と言い含めているのだろうが、お前が戦陣に戻ったら、いい助言をしてやってほしい。戦手柄については、私には月並みなことしか言えないからな。また、報告する。 成」
筆を置いた清成は、陣幕の外に声をかけた。間をおかず、和気泰之が姿を見せた。
「お呼びですか?」
「うむ。この文をかの者に届けてほしい」
「……今から、でございますか?」
泰之は些か承伏しかねると云う声音で応じた。それも当然で、時刻は辰の刻限(午前八時)を過ぎ、東軍の朝駆けから始まった今日の戦はこれからが大一番を迎えようとしている。
「今のところ清国たちは順調に攻め入っているようだし、このままなら私の出番はないだろうよ」
「しかし……」
今日の主役は弟君の清国であり、大将格である<細川清和>には元々出陣の予定はない。とはいえ、何が起こるかわからないのが、戦の怖さであり真実である。
言い淀む泰之に、清成は浅く笑った。
「なんというか、其方は本当に心配性というか……保護者気質というか」
「若……それは!」
「いやいや、苦言ではない。心底ありがたいと思っているがゆえの……まぁ軽い戯言だ。許せ」
清成はかしこまって軽く頭を下げ、泰之が反駁する前に言葉を継いだ。
「其方の言いたいことは十分に承知している。だが、現状では今日の計画に大きな齟齬は生じそうにないし、万一そうなったとしても其方の父——兼之も陣中に控えている。おまけに今日は飯尾の親爺らもついているから大丈夫だよ。なにより、この仕事は其方以外には任せられん。いつも無理を言って申し訳ないが、私もあいつも其方を信頼している。仕事も早いからな、すぐに戻ってきてくれるのだろう……?」
そこまで言われては、泰之に否やの返答は出せない。蟠る不安を飲み込んで、素早く文を受け取った。
かくなるうえは、期待通りの素早い任務遂行で、ここに戻ってくるしかない。
「では、御免」
「うむ。頼んだ」
陣幕を出て行こうとする泰之を見送っていた清成は、ふと思い出したようにその背に声をかけた。
「泰之!」
立ち止まって、泰之は清成を振り返る。清成は言葉を探すように、一度唇を閉じてキュッと引き結んだ。昔からの付き合いで、清成に何か言いたいことがあると察した泰之は、早足で清成の側近くまで引き返してきた。
「なんでございますか、若?」
穏やかな問いかけに、清成は結んだ口元を和らげた。わずかな逡巡の後、囁き声で問いかける。
「もしも……もしも、だが———私が備前に戻ることになったら、其方は一緒に来てくれるか?」
意外な問いに、泰之は大きく目を見開いて清成を凝視した。
いつかはそんな日が来ればいいと思っていたが、この八年の間にその可能性はどんどん希薄になっていき、いつしか諦めに変わりつつあった。
「自分は……勿論、喜んでお供させていただきます!」
陣幕の周囲に人がいないことを知っていたが、それでも幾分小声で泰之は応じた。
「故郷は懐かしいですし、自分は幼き頃より若の乳兄弟ですから。若の行くところであれば、故郷といわず何処へでもお供する覚悟です」
ただし——と泰之は、清成の腰に下げられた黒漆の太刀に目を落とす。
「それは、清和様が許せば……ということになるでしょうか」
乳兄弟の視線に気づいて、天王丸——兄の半身——をついとひと撫ですると、清成は淡々とした調子で評した。
「その心配には及ぶまいよ。あいつは自分が置かれた立場や役目には拘泥するが、自身のこととなると驚くほど執着がない。私や其方を必要としていない、といわけではない。わかるだろう? 信頼する相手と自身を秤にかけ、自身の負荷を当たり前にとる。まぁ、私たちが居なくてもなんとかするし、出来るだけの自負もあるのだろう。私はそれを淋しいと思うこともあるが、本人は歯牙にも掛けないのだから仕方ない。だから、こちらが真に望むのならあいつは——多分、許すさ」
多分と言いながらも、その確信めいた言葉に励まされて、泰之は目元を緩ませた。子供の頃のような、弾んだ声が漏れ出た。
「でしたら、その日が楽しみです」
「うん。そうだな」
呼び止めてすまなかったと詫びて、今度こそ清成は泰之を見送った。
その背中に、在りし日の備前での景色がかさなる。
瀬戸内の穏やかで凪いだ気候は、幼い清成や泰之を慈愛をもって育んでくれた。冬でも過ごしやすく、四季を通して太陽の恵みが降り注ぐ地味の肥えた土地だ。京や大坂に比べれば鄙びた処だが、その分その土地で暮らす人々の息遣いや優しさが直に伝わる温かい処でもあった。平野もあればすぐ近くに山野も海あって、豊かな植生に触れることができる。
きっと、沙羅姫は気にいるはずだ———。
まだ見ぬ備前での日々に思いを馳せる清成のその口元には、春の貴公子らしい微笑みが咲き綻んでいるのだった。




