十
無人となった部屋で太刀を握り締め立ち尽くす私に、背後から声をかけてきたのは霞だった。
「姫様、思われるところも色々とございましょうが、まずは朝餉を召し上がられてはいかがでしょう」
ひかえめながらも朝食を勧める霞に、私は無言で頷いた。
去っていった清和のことをぐずぐず思っていても何もはじまらないし、向こうが動き出したのなら私も次の行動に移らなくてはならない。そのためにも、腹ごしらえは大切だ。
霞はたしかに成長している。それも今の私にかなり適応した形で、ひどく現実的に。
速やかに部屋を出て行こうとする霞を、直前で呼び止めた。
「朝餉も大切なんだけど、それ以上に今後の相談をする必要があるわ。おまえはもう食事を済ませたの?」
「………いえ、姫様のあとにと」
「だったら、おまえの分もこちらに運びなさい。言っとくけど、今は慣例云々は無しよ。峰にも見つからないようにして」
「承知いたしました」
したり顔で霞は頷いた。
峰や鷹丸が兄上の斥候として私のところに来るかとしばらく様子を見ていたが、どうやら向こうは向こうでなにやら作戦会議中らしい。兄上とて、この展開は想像の埒外で、対応に困っているに決まっているものね。
霞が運んできた朝餉を二人で黙々と平らげ、それから膝を突き合わせるようにして、私たちはごにょごにょと今後の相談を進めた。
私の今後はもちろん、霞のことも考えなければならなかった。
父上を裏切った霞にはそれなりの責任追及があるだろうし、昨日の峰の激昂ぶりからして、霞が彼女の実家である齋藤家に戻ったとしたら、厳しい処分を言い渡される可能性が高い。
そんなこと、私は絶対に許さない。でも、かく云う私が、畠山で囚われの身となっていては、阻止も出来ない。
私も霞も、父上の陣地から離れるのが、まず先決だ。
小半刻(一時間)ほど相談を重ねた後、私は霞に墨をすらせて一筆したためる。
文の相手は清和の乳母を勤めていた小備前だ。弾正と違って面識もないけれど、昨夜、清和から聞いた話で彼女が今も山科にいることはわかっている。まずは霞を小備前のところに避難させて、私の動きが一段落するまでは匿ってもらう腹だ。
清和との柵がある以上、そして彼ら兄弟の秘密を知る以上、私の要求に否やの答えはあるまいと思いつつも、文面だけは丁寧に、心情を込めて懇願しておいた。
その文を霞に持たせて、昼前にはこの別邸を出るよう指示する。もちろん、霞一人が出かけては怪しまれるに決まっているから、霞には鷹丸を供にして、私の代参で石清水八幡宮に清和の無事を祈願しに行くのだと思わせるよう振舞ってもらった。
兄上たちは怪訝には思っただろうけど、本丸である私がこの屋敷の中に残っているのだからと、そこは譲ったのかもしれない。いずれにせよ、こうして霞は昼前には屋敷を出て、石清水八幡宮で鷹丸をまいて、そのまま持たせた金を武器に山科へと逃げおおせる手はずとなった。
私のほうはというと、霞を送り出したあと自室で体を休めつつ、まだごちゃつく頭の中を整理して時間をつぶしていた。
清和には、まだ尋ねたいことがたくさんあった。明日の朝、続きを訊けばいいと油断して、その機会を逃したことが悔やまれる。
ただ、なんとなく分かっているというか、目が覚めたときから確信していることもあった。
それはとても大切なことであり、私の立ち位置の根幹にかかわること。
つまり———私が恋したのは双子のうち、どちらだったのか。
私はそれを早い段階で、確信していた。
私が恋をしたのは、清成殿ではなく清和だった———と。
早春の狩場で出逢い、嵐の夜に恋に落ちた。
そして、優しい清成殿が私に好意を持っていてくれたことも、今ならわかる気がした。
婚礼の儀でのはにかんだ顔も、曼殊院からかばってくれたことも、琵琶の連弾も、よく知らないはずなのに、思い返せば清成殿らしいと思えてくる。
出陣の前に何か言いかけたことも、気になった。
そして、いつだったか「必ず守る」といった言葉のとおり、清成殿は私に己を守るための太刀を残していった。
実のところ清成殿が何を思って太刀を託したのか、正確にはわからない。でも、私はそう理解したかった………。
そんなことを考え込んでいるうちに、時刻は午後も半ばへと差し掛かっていた。
それまで、対策会議を開いていたのか、はたまた父上たちと連絡を取っていたのか———、昨夜以来、姿を見せなかった兄上が峰を伴いやってきた。
一目で睡眠不足とわかる顔つきで、私はご愁傷様と肩をすくめる。
昨日盗み聞きしていたのだから、おおよその事情は分かってるらしいが、兄上は私の正面に腰をすえると改めて訊ねた。
「細川清和殿が存命なのはわかった。しかし、彼は片桐高遠として南山城の陣に戻ったぞ。沙羅………お前は、一体これからどうするつもりだ」
どうせ兄上たちのほうで新たな筋書きを用意しているはずなのに、一応、私の心づもりをきいてくださるとは。
内心、苦々しく思いながらも、それは表情には出さない。
「私は、清和を細川へ連れ戻すつもりよ。——どんな手を使っても」
それに対して、予想はしていたが、兄上はあまりいい顔をしなかった。小さく頭を振りながら、滔々と自らの思うところを述べる。
「沙羅、お前はこのまま三好に嫁いだほうがいい。おそらく、清和殿には細川に戻られる意志がない。否、すでに清和殿は死んだことになっている。………死人は、生き返らぬものだよ」
だから、清和をあきらめて、次の夫を———次の和睦を迎えろというのか。
もう少し好意的に捕らえるならば、兄としては妹にこれ以上危険なことをしてもらいたくない、ということなのだろう。
「気づいているか? お前はいっそう美しくなった。あでやかに匂いたち咲き誇る大輪の牡丹のように、他を圧倒する美貌だ。たいていの男ならば、お前の望みをかなえてくれよう。だから……もう、男の気性は捨てろ」
「褒め言葉なら、ありがたく受け取るわ。でも———」
冷ややかに応えて、私は兄上の意見を一言のもとに却下した。
「無理よ」
私は私の生きたいように生きる。
兄上は諦めたように溜息をつき、ぶつぶつとこぼした。
「あんなに細川への輿入れを嫌がっていたお前がなあ………」
その変化には、私自身が一番驚いているわ。
妹の変心に感心しつつ、それでもと兄上は説得を続けた。
「とにかく、清和殿の件も輿入れの件もいったん棚上げにして、お前は一度、紀伊の本邸に戻れ」
「…………」
「お前からすれば父上は強権的過ぎるように見えるかもしれんが、父上とてお前のことをひどく案じているのは事実だ。ことに、清和殿が討ち死にされ、お前が生ける屍のような有様になったとの報せを受けてからは、お前のことをよく知るがゆえに、そんな沙羅は常の沙羅ではないと、それはもういてもたってもいられぬという取り乱しようだったそうだ。義母上が、お前の身を案じる以上に、父上のご様子を案じられたくらいだ。父上だけではない、他の兄上たちや、ここにいる峰の気持ちも少しは察してくれてもよかろう。沙羅の常と変わらぬ姿を畠山の人々に見せた上で、落ち着いて今後のことを話し合うのが、今のお前にとって必要なことではないか」
畠山の人々の心労を持ち出され、私はしぶしぶ立ち上がった。
兄上から視線をそらして、不承不承を声音に乗せる。
「………わかったわよ。とにかく一度、畠山に帰ればいいんでしょ」
戸口に向かう左手には、しっかりと天王丸を握っていた。
兄上が私の後をついて、背後に続く。それを承知で———
「……っ!」
戸口で振り返りざまに、背後へと太刀を突き出した。右手を太刀の柄の先にあてがい、刹那の動きで鞘の先を兄上の鳩尾に沈ませる。
手加減は一切しなかった。もしかしたら、肋骨の数本を折ってしまったかもしれない。
「げえっ、かっ……は」
体をくの字に曲げて、兄上は唇の端から透明の体液を滴らせた。
「油断したわね、兄上」
私とて学習能力がないわけじゃないのよ。
嘘をつくときには、相手の目をじっと見る———そんな私の癖を、前回指摘してくれてありがとう。だから今回は、あえて視線をそらしたわ。
「沙羅姫様………」
体を折ったまま崩れ落ちようとする兄上を、背後から支えるように立ち、峰は一人困ったように微笑む。悪戯な子供に、やれやれと向ける諦観の笑み。
そうして、こんな状況にあっても、いつもと変わらない落ち着いた声が、私に問いかけた。
「姫様は、清和様がお好きなのですね?」
「……ええ、そうよ」
いまさら乳母に嘘をついても、はじまらない。
私は正直に、すべてを認める。
「私は、あのいけすかない貴公子に恋をしているの」
峰は私の言葉を自分の中で反芻するように、両眼を閉じ、やがて深い深いため息をついた。
かと思うと次の瞬間、かっと両眼を開き、強い眼差しで私に挑んだ。
「———お諦めください。盲目の恋は危険でございます。きっと姫様自身を滅ぼしてしまいましょう」
「かもしれない………」
峰の言いそうな忠告だと思った。そして、その謂わんとしていることも理解できた。
「だけど」
私はにっこりと笑む。それは作った笑顔ではなく、我知らず、なぜか心の底から浮かび上がってくる真実の微笑だった。
「———盲目でなければ、本当の恋とはいえないでしょう」
もう、私には清和しか見えない。いえ、それ以外は見えなくていい。
「たとえその結果、谷底に………或いは地獄に落ちたってかまわないわ。私は二度と後悔したくないの。この恋を貫くわ」
すべては始まってしまった。
私はぎゅっと強く、天王丸を握り締める。
「父上に伝えて、父上の自業自得だと。———父上は政略的輿入れで、私を清和に再会させてしまった。運命の駒を進めてしまった」
もう、あともどりはできないわ。
「兄上、みんなに謝っておいて。沙羅は今度こそ、畠山を捨て、生きたいように生きるわ」
「待てっ……沙……っ………」
兄上の制止する声を背中に、私は晩秋の夕闇の中に跳びこんだ。この先は闇が広がっているというのに、恐怖も不安もない。
どこへ行きつくのか、はっきりとは知れない。
だからといって、何もせず宿命に流されるわけにも、諦めるわけにもいかない。
私は自らの手足を櫂に、持てるものすべてを使い、大海に漕ぎ出す。
自分の人生を、自分で切り開く為に———。
こちらの第五章までが物語の前半となります。
後半は、新天地での新たな展開になります。沙羅の想いは成就するのか。はたまた、山名の<狂犬>その正体に辿り着くことができるのか!?
拙い文章をここまで読み進めてくださった方、本当にありがとうございます。
少しお休みしてから、後半に突入したいと思います。




