四
きよなり? って、誰? いやいや、あんたは清和じゃないの⁉︎
手首を掴まれたまま、私は硬直する。
意識を取り戻した男は、おそらく反射的にだろう、掴んでいた私の手を放り投げるかのように押し離した。私はよろめきながらも踏みとどまり、覚醒した男の顔を見つめた。
男の鋭い瞳が私を捉え、息をのむ。お互いに無言で見つめあった次の刹那、男が思わずという感じで微かに唇を動かした。
さ・ら———。
声にはならなかったが、その唇の動きを読んで私は確信した。
間違いない。絶対、間違いない!
この男は———清和だ!
瞬間、男は<しまった!>という狼狽の表情を見せた。
「………やっぱり、清和なのね」
声に出して言うと、同時にいろんな想いが心の奥から湧き出してきて、噴火する溶岩の代わりに涙を溢れだしそうになった。何とかそれを悟られないように、そしてこみ上げる涙を誤魔化すように、私は矢継ぎ早に質問を繰り出した。
「どうして、こんなところにいるの? いや、それよりもどうして生きているのよ? っていうか、生きているなら、何で細川に帰ってこないのよ!?」
横たわる清和は、うっとうしそうに私を見やると、低く冷ややかな声で返答した。
「……それは、俺の台詞だ………。なぜ、お前がここにいる?」
質問に質問で返されて、普段の私なら爆発しそうなはずなのに、何故か清和らしくて、また涙が出そうになってしまった。
清和はそんな私にかまうことなく、上半身を起こそうと体を動かした。しかし、腕に力が入らないのか、思うように上体を動かせず、すぐに倒れこんでしまった。
一呼吸おいて、再度、挑戦しようとする清和の肩を慌てて押さえて、私は更なる問を重ねざるを得なかった。
「無理よ、動かないで。いったい、何をするつもりなのよ?」
清和は仰向きのまま、左手のほうへ視線をくれた。つられて視線を向けると、茂みに隠れてそれまで見えなかったが、すぐ近くに抜き身の太刀が転がっていた。
「鞘を、拾いに行かなければならない」
この状況下では、鞘なんて、どうでもいいじゃない———と思ったが、口に出すのは寸でのところでやめた。清和がそうしようとしている以上、どうしても必要なことなのだろう。「やめろ」といってもききはすまい。
止めても仕方のないことと踏んで、私はすっくと立ち上がった。
「いまのあんたじゃ、無理よ。私が代わりに拾ってくるわ」
清和を睥睨してやった。清和は眩しそうに私を見上げたあと、そっけなく言う。
「………やめておいたほうがいいぞ」
予想通りの答えだったが、無論こちらも聞く気はない。
「沙羅……お前は変わらないな………」
「あんたもね、清和」
いつもの皮肉気な瞳に対して、不敵に笑んで応えた。先程までとはまた別に、心臓が熱く震えている。この瞳を、また見たかったと狂喜乱舞しているようだ。
平静を装いつつ、私は鞘の場所を訊ねた。
「どこなの?」
「むこうの斜面を上った………竹林の中だ」
沢の反対側の斜面に途中から広がる竹林を指されて、私はそちらへと歩き出した。
水面に飛び出した石を幾つか飛び移り沢を渡ると、雑木林の斜面を登る。雑木林は途中から侵食してきた竹林に取って代わられ、足元には縦横無尽に走る竹の根と大量の落ち葉が入り乱れていた。落ちた竹の葉に私は何度も足をすくわれそうになりながら、なんとか斜面を登りきる。斜面の上は、緩やかな傾斜の竹林が続いていて、地形的には奥にまた急なのぼり斜面があるようだった。
清和の言っていた竹林とは、ここのことだろうか……?
ところどころ落ち葉の乱れた跡があり、馬の蹄がついているところもあった。おそらく清和の馬が通った跡だ。その足取りを遡るように、私は竹林の奥へと進んだ。
人も獣の気配もなく、時折、風に吹かれた竹が頭上でぶつかり合う、カラカラという乾いた音がやけに大きく響いた。
入口の斜面がだいぶ後方に遠のいた頃、突如として地表面のひどく乱れた一角に到達した。数人が争ったかのように、堆積した落ち葉が乱され、幾本かの若竹は地上から三尺あまりのところで鮮やかに断ち切られていた。しかし、見渡す限りのところに鞘は落ちていない。
血の、臭いがする………。
不意に鼻に届いた厭な臭いに、私は顔をしかめて、風上の方角を探った。左手からだ。そちらに顔を向けると、黒いこんもりとした塊がぶわりと動いた。ぎょっとして身を硬くする。が、すぐに警戒はとけた。黒い塊は、鴉だった。
近づく私に、ガアアッ と威嚇するように鋭く鳴いて、鴉たちはしばらくその場を譲ろうとしなかった。が、やがて手前から順番に三羽の鴉が飛び立った。
鴉が飛び去ったそのあとには、農民風の男が一人うつむいた姿勢で倒れていた。離れたところからでもよく分かるくらい、背中に深い太刀傷を負っている。首筋からも大量の血を流していた。この状態では、どう見ても死体だ。
『やめておいたほうがいい』………か。悔しいけど、いつだって、あんたの言葉は正しいわね。
眇めた眼で死体を検分して、ついでにその周辺に鞘が落ちてないかを確認する。死体のそばには武器らしきものは見当たらない。
———清和………あんた、いったい何をやってるのよ。
事情を訊くのは後で、それまではなるべく考えることはやめようと思ったが、こんな惨状をみせられるとそうもいかなくなる。
唇をかみしめ、さらに視線をあたりへ向けると、もう少し奥にこちらを睨む数羽の鴉の群れがあった。おそらく、そこにもう一体………。
鴉がこれ見よがしに啄ばみ、持ち上げた男の右腕らしきものは、小太刀を握ったままだった。武器を握っていながら、鴉に対してされるがままになっているところを見ると、こちらも生きてはいまい。
お互いが殺しあったのでなければ、この二つの死体は清和が創り出したものだろう。でも、なぜ……? まさか、飢えに負けて農民を襲うなんてこと………。
「———あいつに限っては、ありえないわね」
一人ごちて、足を踏み出す。死体の手前には、鈍く黒光りする鞘が横たわっていた。
鴉たちがいっせいにこちらを見て、黒く隙のない眼で私の動きを逐一追った。彼らにとっての安全の境界線を私が越えない限り、彼らはこの潤沢な食卓を離れるつもりはないようだ。
こみ上げる吐き気をこらえつつ、ちょうど二つの死体の中間ぐらいの位置に落ちていた鞘を拾い上げると、私は逃げるようにその場を去った。
背中にはガアガアッと、追い討ちをかけるような鴉の声が響く。
同時に風に揺られた竹がお互いをぶつけるカラカラという高い音が、髑髏の哄笑のように響いて、どこまでもついてくる。
振り返らず一目散に斜面を下り、沢を越えて清和の元に戻ったときには、私はハアハアと激しく肩で息をし、ひどく喘いでいた。
清和のそばに置いたままだった竹筒から、一気に水を飲み、そしてまた一気に吐き戻した。気持ち悪かった。
呼吸が落ち着くのを待って、横になったままの清和へ顔を向ける。
<そら見たことか>という目でこちらを見ているだろうと予想していたのだが、違った。
清和はきつくまぶたを閉じていた。
最初に見つけたときのようにピクリとも動かず、茂みの中にぐったりと横たわっている。頭上を、鴉がカアアッと一声大きく鳴いて飛び去っていった。まるで、新しい獲物を見つけたと仲間に報告するように———。
私は急に怖くなって、清和の両肩をつかみ、がくがくと激しく揺さぶった。
「清和、清和っ! しっかりしなさいよ! ねえ!! 厭だ、死なないでよ!!」
「………やめろ。本当に、死ぬ………」
清和の口からしんどそうな声が漏れて、私は慌てて揺するのをやめた。とりあえず生きていると分かったのでほっとして、それから水があることを思い出して、竹筒の水を清和の口元に運んだ。
「清和、水………」
「……いらん」
「唇をぬらすだけでいいから………」
頭を支え、半ば強引に水を飲ませて、それから拾ってきた鞘に、抜き身のままだった太刀を収めた。そうして、ようやく棚上げにしていた疑問の数々に答えてもらう順番が来た、とばかりに
「さあ、どういうことか事情を話してもらおうじゃないの」
と清和の顔を覗き込んだところ———。
清和は今度こそ完全に、意識を失っていた。
私は安堵とも失望ともつかない大きなため息をついて、しばし清和の顔を見下ろす。
ここに至るまでに、いったいどんなことがあったというの………?
見たところ、致命傷になるような傷は負っていない。額から流れる血はすでに止まりかけているし、左腕にもかすり傷程度の刀傷を負っているが、どちらもたいした傷ではない。明らかに分かるような骨折なども見られない。けれど、清和はずいぶん弱っている。
私は僅かな逡巡ののち、覚悟を決めた。
水辺にいた白帝と清和の馬を呼び、二頭の力を借りて何とか清和を馬上に押し上げる。
とにかく、今すべきことは、この場を離れることだった。
二人の人間が死んでいて、おそらくそれに清和が無関係でない以上、ここは安全とはとてもいえない。
一人と二頭の馬とを連れて、どこへ行くか———。
一つ息を吸い込んで、空を見上げる。中天に昇った太陽は、休むことなく西へとゆっくり動き始めていた。
***
秋の夕暮れはつるべ落とし、とは誰が云ったのか。
西へ動き始めた太陽が、するすると高度を落として水面を黄金に染めあげる頃、私はようやく目的の場所に着こうとしていた。目の前に広がるのは、その日の朝、別れを告げたはずの巨椋池。
皮肉にも、意識を失った清和を連れて行く場所を考えたとき、思いついたのは巨椋池の別邸だった。
もう二度と見ることはないと思っていたのに、その日のうちに再び舞い戻ることになろうとは………!
前方に小さく見えてきた屋敷の輪郭を捉え、自嘲的に口元をゆがめながらも、しかし私は後悔はしていなかった。現時点で、最善の選択だったと自負している。
清和がどうして生きていたのかも、またなぜあの山の中にいたのかも分からない状況で、細川の関係先に飛び込むことは憚られた。かといって実家に担ぎ込むことも賢明ではないと思えたし、当初の目標だった大和の寺は尼寺だ。清和は入山できない。一刻を争うほどではないと判断した清和の体調も、回復する様子はないし、そう遠くまでの移動は無理だ。
街道と獣道を巧みに使い分け、極力人目を避ける形で、なんびとにも誰何されることもなくここまで辿り着けたことは、僥倖というしかない。
ここまでは上々。のこる問題は、どうやって屋敷に入るかだ。
このまま正面から乗り込むべきか、こっそりと忍び込むべきか………などと思案していると、少し手前の道を横切る人影を発見した。狩で鍛えた視力もさることながら、なんとなくその人影に覚えがあって、私は気持ち白帝の速度を速める。
男——というには何処か線が細い、少年の雰囲気をまとった家人風の人影は、どこか所在なげなうつむき加減に屋敷のほうに向かっている。
私は、あっ、と心の中で声をあげて、白帝と清和の馬を一気に加速させた。
近づいてくる馬の足音に少年は何事かと振り返り、道をあけようと少し後退しかけて、馬上の私を見た。視線を一度下げ、次の瞬間、目と口を大きく開いて馬上の私を二度見する。
あまりの間抜けぶりに、懐かしくて涙が出そうだ。
「ひひひ、ひ、姫様っっ!?」
実に半年以上振りに会う、鷹丸だった。その鼻先に白帝をとめ、馬上からにっこりと微笑んでやった。
「久しぶりね、鷹丸」




