三
河内や大和、山城から京へと続く街道ゆえに、利用するものは高貴なる身分の者から、商人・農民にいたるまで多かろう。考えてみれば、義貴兄様がこの街道を利用しないという保障もないのだ。
どこで誰に会うかは、分からない。
今更ながらにその危険性に気づいて、私はそのまま街道にを外れて山すその獣道を行くことにした。足場は決してよくはないし、白帝にも楽しい道のりではないだろう。そして、時間もかかってしまう。しかし、人目につかないのが、今は一番安全だ。
晩秋の紅葉に彩られた木々の間を、私を乗せた白帝は淡々と進んだ。休みなく一刻ほど移動を続けて、そろそろ山を下り街道に戻れば多賀に出られるのではないかと思われる付近でのことだった。
不意に白帝が歩みを止め、しばらく耳をそばだてるようにしていたかと思うと、ぶるんっと頭をふって、いきなり走り始めたのだ。振り落とされることはなかったが、あまりに唐突なことだったので、とっさにはしがみつくばかり。ややして手綱を強く引き制御を試みるも、白帝は何かに憑かれたように勝手に山中を走り続ける。
いったい、どうしたっていうのよ!?
混乱しつつも、身を低くしてぶつかってくる小枝をかわす。そのうちに、小さな沢に出て、白帝はそこでぴたりと疾走をやめた。穏やかな様子に戻り、浅瀬の水に口を近づけた。
どうやら、水が飲みたかったらしい。
「……お前も喉が渇いていたのね。そりゃそうよね、休みなしだったもの。ごめんね………」
白帝に詫びつつ、私も白帝の背から降りて、竹筒に水を汲み喉を潤した。思っていた以上に喉が渇いていたらしく、竹筒はすぐに空になった。この先のことを思い、新たに水を汲んでしっかりと封をしながら、私はふと気になって頭上を見上げた。
黒い影が一羽、また一羽と上空を横切っていく。鴉だ。
喉を潤しながらも、先ほどから私の耳に届くのは沢のせせらぎではなく、煩いほどの鴉の鳴き声だった。近くに根城でもあるのだろうか。
まだ昼前という時刻にしては、その鳴き声の多さは尋常ではなく、なんだか不吉なものを感じてしまう。
「気味が悪いわね………早く、大和まで行ってしまいましょう」
半分は白帝に、半分は自分に言い聞かせるように呟いて、私は再び白帝に跨った。
意図せぬ暴走ではあったが、私の感覚が正しければ、白帝はほぼ真っ直ぐ南へと駆けて、この沢までたどり着いた。このまま沢を渡り、進路を南にとれば、大和の国境へと出るだろう。
沢を渡るよう白帝の腹を軽く蹴った。ところが、白帝はどうしたことか、沢を渡るのではなくそのまま沢の上流へと足を向けた。
「ちょっと、白帝………!」
手綱を引いていうことをきかせようとしたが、さすが清和の馬というだけあって、頑として私のいうことをきかない。
「お前、最初はあんなに従順だったのに、なんなの、この豹変振りは……なんで、今になってそう勝手に動くのよ!」
戸惑いと苛つきとが入り混じる私を乗せて、白帝は悠々と沢を上る。やがて、流れが「く」の字に蛇行した、やや拓けたところまでくると、再び歩みをとめた。
私はその沢の景色の中に、一頭の馬を見つけ息を呑む。
純白の白帝とは対照的な、漆黒の馬だった。浅瀬に足を踏み込ませて、じっとこちらを見つめている。黒い毛並みは艶々としていて、野生馬とは思えない。否、よく見ればその背に黒い鞍を乗せているのだから、誰かの所有する馬に違いなかった。だが、その馬の周辺に人影は見えない。
馬だけ……? なぜこんな山の中に———。
私の気持ちを汲むように、白帝が静かに漆黒の馬に近づいた。漆黒の馬は警戒する様子も逃げるそぶりもなく、ただ微動だにせず、近づく私たちを見つめ続ける。やがて、対照的な二頭の馬は向かい合うと、まるで旧知の仲であるかのようにお互いの鼻を頬を押し付けあった。
なんなの、この馬……? 牝馬……じゃないわよね?
白帝が本能のままに牝馬を追ってここまできたのか、と一瞬思ったが、目の前の黒い馬は白帝と同様に牡馬だ。大きさも白帝とほぼ同じくらい——しなやかな体躯の立派な牡馬だった。
毛の色がまったく異なるだけで、体格も顔つきも、その賢そうな眼も、よく似ている。
私はただ唖然と、白帝の上から目の前の奇妙な馬を見下ろしていた。
二頭は互いの邂逅を喜ぶようにしばらく鼻を押し付けあっていたが、そのうちに仲良くお互いの毛づくろいをはじめた。
その段になって、ようやく私も我に返って、あわてて辺りを見回してみた。
この漆黒の馬が勝手にどこかから逃げ出してきたという可能性もあるが、それよりはこの馬の持ち主が近くにいると考えるほうが妥当だ。
きょろきょろと辺りを見回して何度目かに、漆黒の馬の向こう——さらに上流へと蛇行する沢が、背の高い芒の茂みによって見えなくなるところ——に黒い塊をみつけた。二本の人間の脚らしきものだ。首をのばしてよく見ると、茂みから飛び出したそれは、脛あてをつけている。男の……武士のようだ。
私は白帝から降りて、そろそろと足音を立てないようにそちらに近づいた。何度か見落としたのは、ぴくりとも動きがなかったからだ。もしかしたら、死体かもしれない。
腰にさしたままだった太刀の鞘をぎゅっと左手で握り、その柄に右手をそえ、いつでも抜ける体勢で、茂みへと一歩また一歩と慎重に近づく。
男はどうやら仰向けで、斜面の立ち枯れた木の根元を枕にするように倒れているようだった。頭を含め上体は生い茂る茂みが邪魔してよく見えないがかなり上背がある男だ。私は腰の太刀を鞘ごと抜いて、仕方なくもう一歩近づくと、恐る恐る太刀の先で茂みを横へかき分けた。
男は顔の下半分を面頬(顔を覆う防具・頬当)で覆っている。目は閉じており、生きているのか死んでいるのか分からなかった。近くに兜はなく、剥き出しの髷は乱れ、額からは血を流していた。鎧も身につけていないが、鎧の着用痕が見える鎧直垂を身に纏っている。首筋など見える部分は、ずいぶん痩せてやつれている。だが———
私の心臓が、どくんっ、と大きく鼓動した。
頭が<何か>を認識するよりもはやく、体が……心が、反応を示した。
心臓が早鐘を打つ、というが、まさしくそれだ。
自分でも信じられないくらい、どくんどくん、と心臓が異様な速さで脈を打つ。
目線が、倒れたままの男の上を二度、三度行ったり来たりする。
「………」
鎧直垂の下の長い手足、広い肩———。
知っている、と思った。認識が追いつこうとしている。
危険を顧みず、私は男のそばにしゃがみ込んだ。面頬を留める顎の紐を、躊躇なく引き解く。
面頬の下から現れた、すっきりした顎の線や通った鼻筋……。
この男には見覚えが……忘れようのない面影がある。
まさか……———!
身を乗り出し、倒れた男の姿をしかと見おろし、次の瞬間、息を呑んだ。
……清和……。
すべてが、停止した。
瞬きも、思考も、呼吸も、たぶん心臓も———。
そして、次の刹那、ありえないほどの混乱が私を襲う。
まさか……まさか、まさか!!
ありえない。ありえるわけがない。
けれど……。
いま目の前に倒れているのは、まごうことなき細川清和——その人。
見間違えることこそ——ありえない。
「……清和……」
止まっていた息を吹き返すように、小さく震える声でその名を口にしてみて、私はさらに動揺する。同時に、確信も。
———清和だ。ここにいるのは、細川清和だ。
こんなことって………。
ありえるわけ、ない。清和は死んだのだ。先の戦で。
この世界には、もういない。
あの日、自分の目で確かめた。
しかし———。
信じられないという驚愕と、でもやはりそうだったのだという狂喜が、心の内を激しく行き交う。
否定と二重否定を繰り返して、けれど私には同じ結論にしか至れない。
この男の姿を、見間違えることは、どうしたってありえない———と。
今は堅く閉ざされれているその瞳が、私を見たなら、きっと皮肉な色をたたえることも知っている。見間違えようがない。もう何十何百回と夢にも見てきた。
もう、二度と開くことのない瞳———二度と逢うことのできない人なのに……。
「—————っ!?」
絶叫しそうになる口元を右手で覆い、私は目の前に横たわる男から一須臾たりとも目を逸らせない。
なんなの、これ! いったい、どういうことなの!?
どうしてこんなところに清和がいるの?
「これは………夢?」
私は夢を見ているの?
混乱の極みにあった私は、<そうか、夢か……>とそう思ったとたん妙に納得していた。
よく見ては覚めた清和の夢をまた見ているのか。だって、夢でしかもう清和には会えないもの。
でも、その夢ならいつでも、こうして<清和は死んでいる>と認識した途端にあっけなく覚めてしまった。
清和は死んでしまった。この目の前にいる男は夢……あるいは幻想でしかない。だから、いつもの夢ならもう、覚めてしまう。覚めないで!と、どれだけ願っても———。
夢だと気づかなければ良かった……と思い、涙が出そうで瞬きを二度した。
しかし、瞬いたそのさきも、目の前の清和は消えてなくならない。私の目も覚めない。
なぜ——………?
頭上をまた一羽、禍々しい鳴き声をあげて鴉が飛んでいく。
あるいは、と私はもう一つの可能性を見出す。
これは夢なんかじゃなく、別の世界……清和のいる世界、なの………?
私はどこかで死んでしまって、知らないうちに黄泉の世界に足をふみこんでしまったというのだろうか。
どこにでもあるような山の中、落ち葉の沈む沢の風景、そして傷つき横たわる清和………これがあの世だというの? だとしたら、
「ずいぶん、殺風景なのね。あの世って———」
苦笑が浮かんで、同時に私は少しだけ落ち着きを取り戻した。
早鐘を打つ心臓とは逆に、凍りついたように動かなかった体が、活動を再開する。
片膝をつき、立てていた膝の上に太刀を乗せた。左の親指で鯉口をきって、ほんの僅かに刀身をのぞかせる。右手で柄を引いて一寸ほど刀身を出すと、無表情で自らの左の親指を刃に押し付けた。チリリッという痛みが走り、刃から離した親指の腹には、たて一文字に朱の線が走っていた。
痛みもある。血も流れる。私は多分、正気だ。
いつもの夢ではない。そして、多分あの世でもない。狐か狸が私を騙そうとみせた幻でもないようだ。だとしたら、目の前にあるのは———現実だ。
清和は死んだ。あの日、私はそれを自分の眼で確認した。
では、この目の前に横たわる男は………誰?
似ているという程度を優に超えているけれど、別人ということになる。
私は瞼の内に蘇ろうとする蒼褪めた清和の姿を遮断するように、カチンと小さな音が立つのもかまわず刃を鞘に収めた。
それから、じわじわと溢れた親指の血をきゅっときつく吸い止血すると、懐から出した懐紙で親指を包み、再びしっかりと太刀を握る。
私は深く息を吸うと、横たわる男の顔にそっと右手を伸ばした。
とにかく、この男が生きているのか死んでいるのかだけでも、はっきりさせなければ。
呼吸を確かめようと、伸ばした右手の指が鼻先に触れるか触れないかの距離だった。
「っ………⁉︎」
不意に伸びた男の左手が、私の手首をつかんだ。
「…きよ…な、り……?」
聞き取れないほどの掠れ声で、男はうめいた。




