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 霞もそれは重々承知しているらしく、すぐに自分の小袖の袖でぐいぐいと顔をぬぐうと、そばに放置したままであった葛籠を引き寄せた。まずは私の着替えに取り掛かるつもりらしい。

 私は着ていた袿を脱ぎ捨てて、霞に着替えを任せた。着替えながら、手短に説明を請う。


「……こんな思い切ったことをするなら、どうして細川にいる時点で私に相談しなかったのよ」


 直垂の袖に手を差し入れ、重なる小袖を捌きながら、霞は申し訳なさそうに首をすくめた。


「姫様の細川に残りたいというお気持ちは、痛いほどわかっておりました。ですが、わたくしも畠山家にお仕えする身。殿様の主命には逆らえません」


 まあ、そりゃそうだけど。


「それに、このままでは姫様がどのような思い切った行動に出られるか分からない、という不安もございました」

「……落飾するとか言って、太刀を振り回したから?」

「姫様の場合は、ただの脅しですまぬことがままございますから………」


 どこか非難めいた響きを含んでいたのは、霞がいつもの調子を取り戻しつつあるからだろうか。

 引っ掛かりを覚えた私には気づかず、霞はもくもくと直垂の胸紐を結びながら続ける。


「薬湯をとりに台盤所にむかう途中で、進退窮まったわたくしはとりあえず殿様の指示通り、一服盛ることを決めました。でも……実際に姫様が服用されて、意識を失われる寸前にお見せになった瞳の(くら)さに、わたくしはとんでもない事をしてしまったと慄きました」


 そうして良心の呵責に耐えかねた霞は、細川家を出るときから私を逃がす準備を始めて、好機が訪れるのを待っていたのだという。


「堺の湊あたりまで機会はないだろうと覚悟しておりましたが、まさか雨で足止めをくうとは……清和様が降らせた遣らずの雨ではないかと、わたくし心より感謝いたしました」


 薬を盛り、細川を出すまでは主命だが、それ以降は良心に従い、私のために働く———それが、霞なりの忠誠心というわけか。

 私はあまりに長く一緒にいすぎて、この乳姉妹を少し見縊っていたのかもしれない。

 浮かぶ自嘲的な笑みを、そっと霞に見られないように隠した。霞は気づかず、袴を床に広げ、私に跨ぐよう促す。その眼が再びちらりと戸口に向けられて、その口がいっそ早口になった。


「おそらく、寅の刻半(午前五時)を過ぎた頃だと思います。今なら、まだ屋敷の者たちもお供の家人たちも休んでますし、神無月(じゅうがつ)とはいえあと小半刻もすれば外もゆるゆると白んで参りましょう。地の利がなくとも、夜が明けていれば姫様も動きやすかろうと存じますので……」

「たしかに視界が利くほうがいいに決まってるけど……私はこの辺りは本当によく知らないのよ。淀川の水が引くのにもう少しかかるなら、数日はこの屋敷に足止めされるわけでしょう?そのあいだに下調べをしてからじゃ駄目なの?」

「駄目です」


 一言の元に却下して、霞は怖い顔で私を見上げた。


「本日の午後には、義貴様がこの屋敷にお見えになる手はずが整っているのです」

「な、んですって!?」

「義貴様が陣を構えてらっしゃるのは南山城。この巨椋池の別邸からはほんの数里の距離ゆえ、急遽陣を離れて、沙羅姫様を大坂まで護送なさる役を仰せつかったそうですわ」


 あの、兄上が……ここにやってくる。 


 苦々しさを飲みこんで、すぐさま出立することを決意した。二度と、再び、あの兄上に行く手を阻まれるつもりはない。

 袴の帯をいつもよりしっかりと締めながら、霞は更に早口で訊ねてきた。


「ところで姫様、逃げるは当然と準備してまいりましたが、肝心の行くあてはあるのでしょうか?」


 もちろん———


「あるわけないじゃない」


 きっぱりと答えて、下がりそうになる口角を意識的に持ち上げる。

 こっちは寝首をかかれる寸前を、ほうほうの体で逃げ出してきたようなものだ。這い出したその先の見通しなど、たっている訳がない。


「でも、たぶん何とかなるわよ」


 霞を心配させたくなくて、楽観を装ってみたものの、現実には厳しいと承知している。

 実家周辺には寄りつけないし、こっちとしても近づくつもりはない。かといって、曼殊院がいる京の細川邸には、もはや逃げ帰ることもかなわない。逆に畠山に突き出されるか、そうでなくとも京に残る畠山の手勢が躍起になって私を確保するだろう。伯母上の白毫院ももはや安全ではない。

 近場では勢いのある大坂……堺の町に潜り込むか、あるいは思い切って東国に下るか、逆に西を目指して大内領内から、明に渡ってみる? うーん……さすがに、それは現実的ではないか………。


「いっそのこと、裏をかいて三好に潜伏もありかしらね」


 軽口を叩いてみたが、霞はくすりとも笑ってはくれなかった。むしろ真面目な顔で、どうしても行く先がなければ……と、大和にある尼寺の名を挙げた。


千光院(せんこういん)という尼寺ですが、さきの後四条の女院様が住持をつとめられる大和では由緒ある門跡寺院だそうです。縁切りの寺としても最近は評判で、世俗の権威も女院には及びにくく、必ずや逃げ込んできた女人を守ってくださるとの話を聞きました。この尼寺か、同じ大和の室生寺か……わたくしもいざとなったら、そのいずれかに駆け込むつもりでございます」


 この三日の間に、霞なりに行く先までもを考えていたらしい。霞が懐から出した地図はひどく拙いものであったが、自分で調べて書き込んだらしい情報があちこちに記されていた。人目を盗んでこれを用意している霞の姿を想像すると胸が熱くなった。


「だったら、いっそのこと、このまま霞も一緒に逃げましょうよ」


 私を逃がしたことが知れれば、霞も無事ではすまない。ましてや霞は私のように自分で自分の身を守ることはできないし、馬にも乗れない。逃げるなら、私と一緒のほうが安全だ。

 しかし、誘う私に霞は小さく頭を振って応えた。


「わたくしはこの屋敷に残って、できるだけ時間を稼ぐつもりでございます。義貴様が参られても、『眠り薬が合わぬのか、姫様のご気分が優れぬ様子』とでも理由をつけて、面会を遅らせます。わたくしが部屋の前に居座っていれば、義貴様もまさか中がもぬけの殻とは思われますまい」


 そのあいだに、私はより遠くに逃げることができるが、それに比例して霞が責めを負わされる危険(リスク)も高くなる。事が露見すれば、霞がうける罰は……。

 想像を超える霞の忠誠心に、私は込み上げてくる感情を必死で押さえ込む。


「わかったわ。おまえの言うとおりにしましょう」


 感動に咽び泣いている場合ではないのだ。霞の覚悟を無駄にしてはならない。

 慌ただしく着替えを終え履物を履き、動きやすいように袖口をぎゅっと絞り上げると、仕上げに金や保存食を一まとめにした包みを背中に回して胸の前で縛った。

 清和の太刀を左手に持って、私は力強く頷く。準備はできた。


 霞が音を立てないようにそっと妻戸を開くと、かすかに薄くなった闇と晩秋を感じさせるキンと冷えた冷気が足元から流れ込んできた。

 屋敷はいまだ寝静まっており、その静寂の中を縫うように、私たちは手燭の僅かな明かりだけを頼りに、ひたひたと裏門まで移動した。そこには闇に溶け込むように、(むしろ)でその真っ白な体を覆われた白帝が佇んでいた。筵を取ってやると、やれやれ清々する、というように白帝は頭を振って見せる。闇の中の希望のように、白帝の白い馬体が浮かび上がって見えた。


 意識を失ったままの私が細川を出るに際して、清元氏が清和の太刀と白帝を持っていくよう手配してくれたのだという。いうなれば、形見分けか。

 私は白帝の頭をそっとなで「よろしくね」と声には出さずに囁く。白帝は賢そうな瞳でじっと私をみつめ、かつかつと前足を鳴らした。早く行こう、というように。

 背中にすえられた朱塗りの鞍に手をかけて、(あぶみ)に足を乗せる。眠らされていた時間が短かったせいか、身体は思ったほど弱ってはいない。思うように動きそうだ。白帝の背にひらりと跨ると、清和の太刀を袴の帯に差し込んだ。

 最後に、霞が屯食の包みを手渡してくれた。


「姫様……どうか、どうかお気をつけて」

「おまえも、必ず逃げてくるのよ。いいわね」


 強く念を押すと、霞は深く頷いて返した。

 裏門の(かんぬき)をずらして、霞が門を開けるのを待ち、私は白帝の腹を蹴った。清和の愛馬は、逃げるのではなく、出陣するかのように、堂々と門をくぐった。

 蹄の音が響かぬところまで離れて、私は一つ深呼吸をする。手綱をしっかり握ると、半身をねじって一度だけ屋敷のほうを振り返った。霞がもつ手燭の小さな明かりが、蛍の光のように仄かに揺れていた。


 霞の忠義を、決して無駄にはすまい。


 私は再び前方を向くと、白帝に鞭を入れた。風を切る勢いで、白帝が走り出す。

 こうして、東の空がうっすらと白む刻限、私は霞に見送られて巨椋池の別邸を後にした。


     *


 淀から京方面への道を少し戻り、巨椋池沿いを遡行する。霞が教えてくれたとおり、分岐点となる六地蔵から法性寺街道へと入る頃には、夜はほとんど明けきろうとしていた。三好への移送を足止めしたという一昨日からの雨はすっかり気配をなくしていたが、しっとりと湿った夜露が私の髪や白帝の鬣を重く湿らせていた。この時期にしては暖かな夜だったようで助かった。霜に降られたのでは、どこかへ辿り着くまでに凍えてしまう。


 街道を南下しながら、私はようやく微少ながらも余裕を取り戻した。屋敷を出てすぐに速力をあげ、ここまでほぼ全力で駆けとおした白帝をねぎらいつつ、私もまた自分の体力を思って懐から霞が用意してくれた屯食を取り出す。白帝を一定の歩調で進ませ、私は馬上で一口大に握られたちまき風の飯を食した。

 なんだかなぁ……<畠山の今かぐや>も落ちぶれたものだ、と自嘲の笑みが浮かんでくる。 


 街道沿いの田畑にもさすがにまだ人の姿はなく、私の行儀をどうこう言う存在はないのだが、こんな自分を客観視してみてある種の嫌悪があった。狩の時ですらもう少し世間体がある。だが、今は矜持(プライド)だ何だとそんな小さなことに拘っている場合ではない。ここはもっと私らしく、合理的に考えるべきか。


 二日ぶりの食事でもあり、普段よりも念入りに咀嚼して米の甘みを味わった。そうやって簡易的な食事をとりながら、さて今一度どこか行くあてがあっただろうかと記憶をめぐらせる。

 西軍に(くみ)する伯父上たちのところも一手だが……一族ゆえに父上との間で私を利用した取引が行われないとも限られない。大和や紀伊の国人衆のところに転がり込んだとしても、結果は同じような気がするし……。

 畿内一帯に父上の手が回らなさそうな場所はなかなか思い当たらなかい。ならば、やはりどこかの寺社に駆け込んでおくのが最善の策ということになるだろうか……。


 大和には、寺も多いが神社も同じくらい偏在する。折りしも今は神無月……日本中の神々が出雲に集まり、各神社には神が不在となる月。神の不在を狙って上がり込むのは気がひけるが、困った時の神頼みとは、まさしくこんな時のこというんじゃないの?


 ちなみに、出雲に集まった神々は何をしてらっしゃるかと云うと、男女の縁結びを神議(かむはか)られているというのだから、なんとも平和なことだ。そうやって、昨年の神無月に私と清和を結びつけたのなら、今年はもう私を議題には上げないでいただきたい。三好との縁結びなどもってのほか。いや、もう誰とも縁付くつもりはない。そんな反抗的な私はやっぱり匿ってはもらえないかしら……?


 三個のちまき風飯を平らげ、竹筒の水をごくごくと飲んで簡単な朝食を終える頃には、やはり行く先は大和の千光院しかないと結論づけていた。それから先のことは、またそこで考えればいい。とりあえず、緊急避難が必要なのだ。


 宇治川にかかる宇治橋を渡り、百年ほど前に焼失したかの平等院かとおぼしき辺りを過ぎると、街道は緩やかなのぼりとなり木立の中へと続く。鳥たちが盛んに交わす朝の挨拶がかまびすしい。その鳥の鳴き声に呼応するかの如く悠然と歩みを進めていた白帝が、ピクリと耳をそばだてた。それとほぼ同時に、街道の先のほうから鳥たちが一斉に飛び立つ慌しい気配を感じて、私はとっさに街道をそれて左手の雑木林へと白帝を進ませた。


 清和が狩りに使っていたのは漆黒の馬だったように記憶しているが、この白帝も本当に良く調教された賢い馬で、嫌がるそぶりも見せずにすいすいと林の斜面を上がっていく。街道からは死角になるだろう場所まで移動して、私は白帝を静止させた。

 このあたりの国人なのか、それともどこかの守護大名の家臣なのかは分からないが、数騎の武者らしい一団が眼下の街道を走り抜けていった。



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