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<登場人物>

沙羅姫…主人公。畠山宗家の姫君。細川家に嫁ぐ。清和の未亡人。

細川清和…細川京兆家の若君。細川家の跡取り。丹波合戦で討死。


霞…沙羅の乳姉妹。姫付きの侍女。

畠山義貴…沙羅の同母の兄。畠山宗家の三男。

齋藤鷹丸…沙羅の乳姉弟。霞の弟。

峰…沙羅の乳母。霞たちの母。

細川清元…清和の父。東軍総領・細川家の当主。

細川清国…清和の弟。幼名:山王丸。

北山殿…清和の母。清元の正妻。八年前に死亡。

備前…北山殿の乳母。小備前、弾正の母。

小備前…清和の乳母。隠居して山科に住まう。

弾正…細川家の侍女。泰之の母。

和気泰之…細川家の家臣。清和の側近。




 波間を漂う小船に乗って、私は途方にくれていた。

 前方には見渡す限りの海原が広がり、この先の道標となるようなものは一切見当たらない。振り返れば、懐かしく居心地の良い入江が見えるが、ではそちらに戻るかと云われると、何故かまったくそういう気分にはならなかった。入江の中は安全であると分かっていたが、同時に本当の自由がないことも知ったからだ。

 私はひたと前方を睨み、大海を行く覚悟を決める。だが———、どこへ行こうというのか。どこにたどり着けば正解なのか。何よりも、私の小船には(オール)がない。進もうにも、漕ぎ進めるための櫂がないのだ。どこへ行くかは波まかせ……。


「まるで、曽禰好忠(そねのよしただ)……ね」


 新古今和歌集にある古い和歌を思い出して、苦笑を浮かべた。


『由良の門を渡る舟人かぢを絶え ゆくへも知らぬ恋の道かな』


 あの和歌ではないけれど、人生の行方も、そして恋の行方も、どうなってしまうのか全く分からない。

 波まかせに今は漂うしかないのだろうか。そうしたら、どこかに漂着して、そこで結論が出るのだろうか。そしてまた、そこから何かが始まるのだろうか?


 小船の中にごろんと横たわり、私は澄んだ空を見上げた。波に揺られて、守籠(もりかご)のように小船はゆらゆらと揺れる。

 私しか乗っていないはずの小船の周りで、時どき人のざわめきや話す声が聞こえた。


 ———こんなに増水してたら、無理ですて……いやいや、淀川をなめたらあきまへん。

 ———馬がおびえて、困るんです。このうえ暴れられたら船が……はあ、もちろん姫様の馬だというのは、承知しておりますが……。

 ———さっき、石清水八幡宮から上ってきた船頭に聞きましたら、この先は……。


 渡し守なのか、漁師なのだろうか。いずれにしても、船に関わるの仕事は大変ね——などと思いながら、私は大きな揺りかごに身を任せる。心地よい眠りがすぐそこに訪れようとしていた。

 水底に沈みこむように、深い深い沈黙の世界がひろがっていく。いつしか思考もとまっていた。

 その永遠に続くような深閑が突如として破られたのは、眠りに落ちてどれくらいが経ってからだったのか。


「………姫様、沙羅姫様、お目覚めください。沙羅姫様……お願いでございます!」


 しつこく肩をゆすられ、耳元で囁く霞の声によって、私は唐突に現実の世界へと帰還した。———もう二度と戻りたくはなかった、現実に。


     *


 薄暗い部屋と見知らぬ天井、そして私の顔を覗き込む霞の姿が視界に入る。 

 覚醒は驚くほど早く、意識が戻ると同時に、私は眠りに落ちる直前の状況を思い出していた。それは突然すぎて発露されることもなかった怒りの感情をも呼び起こし、私は起き上がりざまに霞を突き飛ばした。


「………っ!」


 声をあげずに上体をばたつかせた挙句、霞はのけぞるような姿勢のまま私を凝視した。体を支える腕とは反対の手を私へと伸ばそうとしたが、容赦なく私はその手を袖で払い落とした。


「触れるなっ、この裏切り者!」


 低い声で言い放つと、霞はびくッと身を縮こませて、伸ばしかけた手を引っ込めた。そのままずるずると体勢を戻すと、うなだれた様子でしばらくじっと眼を伏せた。

 芯を極端に短くした灯台が仄かに照らしだす霞の横顔は、苦しげにゆがんでいるように見えた。けれど、私は彼女に同情できない。霞が私にした仕打ちを思い起こせば当然だ。私は自分に言い聞かせるように、再び低い声を出す。


「二度と私の前に姿を見せないで。もう、おまえは私の侍女じゃない」


 きっと霞はおとなしくその言に従うだろうと思っていた。しかし、彼女は幾許かの沈黙の後、毅然と顔を上げてまっすぐ私を見つめた。


「姫様に『裏切り者』と罵られても仕方のないことと存じております。お望みとあらば、二度と御前に(はべ)ることもいたしません。しかし、今このときだけは、わたくしの話をお聞き願いたく存じます」


 主人に対して一線を画すきっちりとした態度に、情にうったえ言い訳をするつもりではないことを察した私は、一瞬の逡巡の後とりあえず霞の懇願を受け入れることにした。何はともあれ、現状把握は大切だもの。

 霞はちらりと戸口のほうを一瞥して、依然小声のまま早口で話し出した。


 ここは桂川を下り淀を過ぎたあたり——巨椋池(おぐらいけ)に面した畠山の別邸だという。正確には、現在は畠山の所有だが、もとは私の母が所有していた荘園の一つだそうだ。そういわれてもぴんとはこなかったが、うんと幼い頃に舟遊びなどをした記憶が微かにあるので、もしかしたら、昔訪れた場所なのかもしれない。いずれにせよ、京の畠山邸と違い地理的にはまったく明るくない場所だ。

 では、なぜそんな辺鄙な屋敷で眠らされていたのかというと、思いもかけない大雨が降ったせいだという。


 父上の計画では、私を眠らせたまま船に乗せ、一気に淀川を下り大坂の湾に出て、そのまま船で四国の三好まで移動させるという、最速で最短の道程(ルート)を行かせるつもりだった。そこで、京から桂川を下ったまではよかったのだが、川を下り始めて間もなく、季節外れの大雨に見舞われた。みるみる水嵩が増し、このまま桂川・宇治川・木津川の三大河川が合流する淀川を航行するにはあまりにも危うい、という判断が現場でなされて、急遽この巨椋池の荘園に寄ることになったそうだ。それが昨夕のことで、今は私が意識を失ってから三日目の未明だという。


 船に揺られてる夢を見て、夢うつつに人の声を聞いていたが、それらはすべて私を船に乗せて移動させている途中の現実の出来事であったらしい。

 しかし……三日、いや実質的には二日に近い昏睡は、父上にしては手ぬるいやり方だ。

 その思いが顔に出ていたのか、霞は分かっているというようにその理由を説明した。


 霞は前回——騙し討ちで私を細川へ輿入れさせた時——と同様、三好到着の直前まで眠り薬を投与するよう父上から命じられていた。だが、最初の夜から眠り薬はごく少量にとどめて、いつでも私の目が覚めるよう加減をしていたらしい。私の覚醒がこうも早かったのはその為だ。では、それは何のためかというと、好機(チャンス)を逃さないためだという。


「好機、ですって………?」

「はい。そして、今がそのときでございます」


 霞は真顔で迫った。


「今すぐ———お逃げください!」


 私はとっさに言葉も見つからず、口も半開きの間抜け面で霞を見つめた。

 三日前には私を裏切り、父上の計画に従って一服盛ったくせに、今は父上の計画にそむいて私を逃がそうというの?


「霞、おまえ……」


 やっていることが、滅茶苦茶じゃない。いったい、何を考えてるの⁉︎

 胡乱に思う私にかまうことなく、霞はこそこそと部屋の入口近くまで移動すると、腕には余るほどの大きさの葛籠(つづら)を抱えて戻ってきた。葛籠の中には衣装や小さな包みなどが用意されている。


「ここに狩衣になりそうな召し物を用意してございます。急なあつらえですのでお身体に合わぬやもしれませぬが、ないよりはましかと。こちらには、とり急ぎご用意した金子(きんす)と、大きいほうのこちらは保存のきく食糧が入っております。この包みは昨夜のうちに用意した屯食(とんじき)(握り飯)です。少し硬くてお嫌かもしれませんが、我慢くださいませ。水は竹筒に入れてございます」


 ひとつひとつ指し示しながら早口で説明したあと、一度口を閉じると、霞は正面から私を見つめた。

 彼女らしからぬ、強い意志のみなぎる瞳だった。 


「裏門の近くに、鞍を乗せた状態で白帝(はくてい)をつないであります。早々にお着替えになって、夜が明けきらぬうちにお逃げください」


 荷造りに、逃げるための馬。

 あまりの周到な用意に、いつもの私なら拍手喝さいを送ったことだろう。———だが、私もそうそう愚かではないのだ。


「残念だけど……信じられないわ」


 それ以上は口にせず、視線を部屋の隅に向けた。

 あの父上のことだ、霞をどこまで抱きこんでいるかわかったものじゃない。

 たとえ、私を騙し討ちで三好へ送り込むことに成功したとしても、そのまま私がおとなしく再婚生活にいそしむとは想像していないだろう。ここで私を完膚なきまでに叩きつぶして、これ以上の抵抗など考えもしない<生きる屍>同然にするには、二段構えの裏切りが有効と判じたのかもしれない。

 そう、一度舞い上がらせておいて、激しく地に落ちれば、もう二度と立ち上がれないだろう……と。

 逃がしてやろう———かつて、そう言って私を舞い上がらせ、みごと地に打ち伏せた兄上がいた。どうして、疑いを捨てられよう。


「………そうで、ございますよね」


 霞はくぐもった声でつぶやいて、俯いたようだった。しばしの沈黙が流れる。

 その沈黙の果てに霞がとった行動は、再び私を驚愕させるに足るものだった。

 不意に霞が立ち上がり部屋の奥に向かった。彼女がまっすぐに向かった先には、長持(ながもち)が置かれていた。中身を見ずとも、細川から持ち出した私の私物であろうと想像がつく。

 霞は音を立てないように慎重に長持ちの蓋を開けると、上半身を中に押し入れるようにして下のほうから何かを抱え出した。

 やがて、私の前に大事そうに持ってこられたのは、一振りの太刀だった。灯台のわずかな明かりを受けて、渋い光を放つ黒漆(こくしつ)の太刀。柄には日輪の意匠が施されている———。

 見忘れるはずもない、清和の太刀だった。

 霞は居住まいを正すと、私の前に頭を垂れた。そう、まるで自分の首を差し出すように。


「今更わたくしの言葉に信はおけますまい……。清和様の太刀をお渡しいたします。もとより、お逃げになる際にはお持ちいただくつもりでした。———こちらの太刀にて、わたくしをいかようにもご処分ください。この場で斬るなり殺すなり、姫様のお気が済むようになさってくださいませ。清和様の太刀にてご処断いただくのであれば、わたくしも本望。そしてわたくしをご処断なさった後は、———一刻も早く、ここからお逃げくださいませ」


 本気かといぶかりつつも、私は差し出された清和の太刀をとり、鞘から刀身を引き抜いた。

 冴え冴えと光る刀身が、灯台の明かりを受ける私の右顔を映し出す。

 光のかげんか、ひどくゆがんだ醜い顔に見えた。まるで、猜疑心に凝り固まった鬼女のようだ。

 ゆっくりと切っ先を霞の上へと向けると、刀身が作りだすかすかな影が彼女を二つに分断する。覚悟を決めて実際に太刀を振り下ろせば、霞の体は二つになろう。脅しではなく、私にはそうするだけの実力があることを、霞は知っている。だからこそ、霞の頭は両の肩は必死で沸きあがる震えを押さえ込もうとしていた。


 なによ。霞のくせに………(いさぎよ)すぎるじゃない。


 一つ深呼吸して、私は刀身を元の鞘に収めた。こんなに潔い霞を斬ることはできない。


「おまえの度胸と、これまでの細川での献身的な働きに免じて、最後にもう一度だけ信用してみるわ」

「……姫様っ!」

「二度は、———ないわよ」


 顔を上げた霞は、涙をあふれるままにして、ぐしゃぐしゃの表情で私を見つめた。何かを言いかけるが、口を開くと涙と鼻水でおぼれそうになるのか、言葉にならないうめきばかりをもらす。

 私は太刀を床に下ろし、霞の肩を抱きながら、ここに至るまでの霞との二人三脚を思い起こす。思えば、細川邸から逃亡を図ろうとしたあの嵐の夜も、霞はこんなふうにぐしゃぐしゃに泣いていた。

 それを安堵させたのは、主人の私ではなく、清和だったか……。

 あの日から、私たち三人はそれぞれ、またそれまでとは違う絆を持ったのかもしれない。

 しみじみ思い返せば、それはとても感動的であった。しかし、今は思い出に浸っている場合ではなかった。


「時間が惜しいわ」


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