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     *


 細川邸の西の対屋は、私が輿入れして清和と生活を始めた春から夏にかけてのまま、時が止まっているかのように、何一つ変わってはいなかった。

 霞の配慮か、清元氏の指示か………清和が座っていたわろう座も、調度類の位置も以前のままだ。ただ、格子戸の向こうに見える庭の風景だけが、変わっていた。

 落葉樹が華やかな黄色や唐紅に染まり、昼間に見た嵯峨野の山々を思わせる美しさだった。この庭の景色を、清和は知っていたのだろうか。


 記憶だけが生々しく生き残っている部屋に戻って、衣装を整えて間もなくのことだった。曼殊院がこちらにやって来るという先触れがきた。

 私と霞は一瞬顔を見合わせた。呼び出しがかかった以上、私が曼殊院のところに赴くことになるであろうと踏んでいたのに、曼殊院自らが足を運んでくるとは………。

 よくない兆候だ、と久しく動くことのなかった私の中の危機察知能力が反応した。とはいえ、いまさら断ることもできまい。


「………いいわ。お迎えの準備をして」


 霞に命じて、私自身も居住まいを正した。清和の形見の太刀だけは常に側近くに置いておきたくて、そっと左の袿の裾に隠した。


 私は、この世界にとどまっているのだ。清和と一緒に逝くことはできない。

 ならば———現実と対峙しなければならない。


 曼殊院との対面を前に、何故か私は急速に覚醒するようだった。背筋にも知らず力が入る。

 ややして、渡殿のあたりから複数の人が移動してくる衣擦れの音がして、やがて妻戸にあの忌々しい尼君が姿を現した。


 当初は私以上に取り乱し泣き暮らしていた曼殊院だが、そこは年の功なのか、季節の移ろいに合わせたように、少なくとも外見はかなりの回復を見せていた。

 曼殊院に上座を譲って、形ばかりの挨拶と長らくの不在を詫びたところで、私の口上をさえぎるように、パシンっと扇を閉じる高い音が部屋に響いた。

 曼殊院は私を居丈高に見下ろし、冷ややかに笑う。


「帰る屋敷を忘れるほどに、白川での尼寺生活は快適か?」


 早速の嫌味攻撃だった。

 数ヶ月ぶりに聞くあまりに曼殊院らしい物言いに、とっさに言い返せないでいると、さらに畳み掛けるように彼女は言い放つ。


「否、帰る屋敷など、そなたにはなかろう。どの面を下げてこの細川邸に戻ってきた! 清和との間に子も()せなんだそなたが、細川家に居場所などあると思うてか‼︎ 畠山宗家の姫というから輿入れをさせたものを、子は生さぬ、肝心なときには援軍もよこせぬとは………」


 曼殊院の言葉は、正鵠を射ていた。

 結果だけを見れば、私は細川にとっては何の役にも立たない存在だ。東軍の同盟をより強固にするための輿入れ(和睦)であったのに、今回の戦では畠山は自分の戦に手一杯で、細川には合流できなかった。


「………なにゆえの和睦か、申し開きできるものならこの場でしてみよ! できぬなら、さっさと畠山に()ね‼︎」


 一気に吐き出して、肩で息をする曼殊院の双眸は暗く、刺し貫かんばかりの鋭さだった。

 申し開きなどできるはずもない。ただ私は少し迷ってから、ここ数日考えていたことを口に出した。


「たしかに、清和殿はもういません。そして、私たちの間に子はないけれど、私はまだ清和殿の妻です。だから妻として、清和殿の菩提を弔うためにも、落飾して曼殊院さまと同じ尼になろうと思っています」


 曼殊院の目元がぴくぴくと引きつった。背後からは、霞の息をのむ気配が伝わる。

 僅かな沈黙の後、曼殊院はふっと鼻で嗤った。


「世も末じゃな………出家とは片腹痛いわ、この鄙の野放途が!」


 久々の対面でもあったし、曼殊院を刺激するつもりはなかった。だが、世も末とは——看過出来ない言葉でもあった。


「お言葉を返すようですが、嫁いびりばかりで、まったく尼君らしくもない曼殊院さまよりは、尼寺に籠もって日々祈っていたわたくしのほうが、ずっとマシではありませんか!」


 そんな私の言葉などまったく相手にせず、曼殊院は馬鹿にしたように私を見る。


「尼になって菩提を弔ったとて、果たして清和が浮かばれようか。戦が始まって間もなく、あれほど祈願に参っておったのは、清和の無事を願ってであろう。そうでありながらこの有様は、沙羅姫の不信心のせいではありませぬか⁉︎」


 正面きっての、罵りは続く。


「沙羅姫の不信心に、仏がお怒りになって清和を連れて行ったのじゃ。そうじゃ、仏罰じゃ………そなたの不信心が招いた仏罰で、清和はあの世へ連れ去られたのじゃ! 清和を(しい)したのは沙羅姫、そなたじゃ‼︎ ええい、忌々しい! どの口が、尼になりたいなどとのたまうか‼︎」


 私はとっさに、左手で袿の下の太刀を握った。

 今まで何とか騙し騙ししてきた、やり場のない悲しみや苦しさ、怒り、後悔の感情が複雑に入り混じり、私の中から飛び出してしまいそうだった。


 清和の死を誰かのせいにして清和が生き返るのなら、私のせいにすればいい!のぞむところだ! だが、そんなことをしても清和は生き返らないし、私のこの苦しみが取り除かれる事もない!


 太刀を握ることで、飛び出そうとする激情を押さえ込もうとした。

 しかし、懸命の制御を振り切って、いうべきではない言葉が——どんなになじられたとしても、返すべきではない言葉が、凶器となって鞘から飛び出し曼殊院に襲いかかった。


「ならば、曼殊院様には菩提を弔う資格があるといえましょうや⁉︎ 貴女は紛れもなく山名のお血筋でしょうが! 貴女の兄……山名豊全が<狂犬>などを家臣に迎え入れていなければ、あるいはちゃんと管理できて(かいならせて)さえいれば、清和が殺されることはなかったはず!」


 みるみる曼殊院の顔色が変わっていく。だが、私は自らの激情を止めることができない。


「畠山の不義理を言うなら、山名から細川に嫁いだ貴女の役割はどうなの? この戦が始まって五年……一度でも戦を終わらせようと行動したことはあるの⁉︎ こうなる前に、命をかけてでも豊全に諫言したことは⁉︎ 神仏に祈る前に出来ることはいくらもあったはず。でも、それをしなかった貴女に、菩提を弔う権利だけはあるっていうの⁉︎」


 いいえ、曼殊院にその権利はない。

 清和の菩提を弔う権利は、この沙羅にこそある!


「何を……何をいけしゃあしゃあと申すかあ!」


 曼殊院は顔色を失くしたまま、わなわなと震えた。


「世の中のことを何も知らぬ、このっ小娘がっ!」

「長く生きているだけで、何でも知っているつもり? はっ、さすがは御出家なさっている尼君だけのことはあるわね! だったら死者をこの世に呼び戻す反魂(はんごん)の方法を教えてよ‼︎ 清和本人に聞いてやるわ、どちらに菩提を弔ってほしいのかってね!」


 それまでにない私の苛烈さに、霞はもちろんその場にいた誰もが口出しできないなか———、ただひとり声をあげた者がいた。


「お二人とも、そこまでです」


 低く落ち着いた声が妻戸の近くから届いた。

 ひっそりとそこに控えていたのは、四十路がらみの幾分ふっくらとした侍女———清和付きの弾正だった。


「曼殊院さま、お鎮まりあそばしませ。沙羅姫さまも、流石にお言葉が過ぎましょう」


 お二人のこんな醜い争いを若君がお望みでございましょうや——と諭されて、私は爆発炎上中だった怒りの熱量を臨界寸前程度にまで、なんとか圧し下げた。

 一方、まだまだ怒り心頭な曼殊院に対して、弾正はすすっと側近くまで寄ると「出すぎた事を……」と慇懃に詫びつつも、手元からついと帛紗を差し出した。


「若君さまが曼殊院さまのお体のためにと、戦の前に明国よりお取り寄せになっていたお薬にございます。先ほど届きました」


 帛紗の中には、唐物風の小さな薬入れが納まっていた。曼殊院は虚をつかれたように茫然とした後、その小さな薬入を胸に抱いてはらはらと落涙した。

 曼殊院が泣くのを初めて見た。その姿を前に、私も冷静にならざるを得なかった。


 本当にこの時点(タイミング)で届いたものなのか、それとも隠し球として取っておいたものなのか、私にはわからない。だが、いずれにせよ弾正がこの場でそれを持ちだし、事態の収拾に役立てようとしたことは察して余りある。その老獪さ、あるいは気遣いは、清和がいなくなった今でも、変わることなく発揮されているらしい。


 ひとしきり涙で袖を濡らした後、さすがの曼殊院も少し冷静になったようだ。嗚咽で乱れた呼吸を整えるように、軽い咳払いとともに扇を開くと、ゆるゆると煽いだ。

 私も僅かに開けた唇の間から低く息を吐き、太刀を握り締めた左手をじわじわと解いた。

 とはいえ、そこで双方が手打ちを了承したわけではない。曼殊院の私への攻撃はいまだおさまりはしない。


「沙羅姫の覚悟はどうであれ、第一に、落飾などご実家が許すまい」


 扇越しに、曼殊院はそう決めてかかる。

 あの父上が私の出家を認めないだろうことは、私も予想済みだ。だからこそ、実行するなら秘密裏にと決めていた。それゆえに、これ以上のことは曼殊院相手とてうかうか口にはすまい。

 だんまりで譲ろうとしない私に、


「どこまでも可愛げのない姫御じゃ」


 と吐き捨て、曼殊院は不快感もあらわに立ち上がった。ずかずかと戸口まで移動して、振り向きざまに最後の毒を吐く。


「妻だ、妻だと言うが、そなたは何か妻らしいことをしたか⁉︎ 清和も、そなたなどに妻面されたくないはずじゃ! さっさと畠山へ帰りゃれ、この疫病神めっ‼︎」


 胸に刺さる言葉を残して、怒涛のごとく曼殊院は西の対屋を去っていった。

 約三月ぶりの曼殊院との再会はこうして幕を下ろした。


      *


 ………疫病神、か。


 耳に残る曼殊院の言葉を苦々しく思い返しながら、私は人々を見送りつつもいまだ緊張の取れない硬い様子の霞を呼んだ。


「ばたばたさせて申し訳ないんだけど、薬湯を用意してくれない?」

「姫様……やはり、お加減がすぐれませんか?」


 心配気に私を覗き込む霞に、そうじゃないと軽く笑む。


「曼殊院の快復振りを見てね、私もこのままじゃ拙いなと思って……今の私じゃ、あのババアと掴み合いの喧嘩になったとして、勝てるかどうか微妙だもの」


 完全復活といかぬまでも、そう……見せ掛けだけでも、曼殊院は「らしさ」を取り戻していた。その変わらぬ姿に、少しだけ私も前向きなる……というか、闘志を燃やし始めようという気になった。


「まぁ……!」


 霞は幾分ほっとしたように肩の力を抜いた。


「で、では薬湯だけではなく、何かご一緒に軽く召し上がるものもご用意いたしますわね」


 久方ぶりの屋敷だけれど、霞は以前と変わらぬ忠実忠実(まめまめ)しさで指示を飛ばして、食事や身の回りの片付けなど要領よくこなしていく。いまさらながらに、霞はちゃんと私付の侍女として、その役目を果たしてくれているのだとありがたく思えた。

 用意された軽食をぼちぼち口に運び、独特の香りを放つ薬湯を無理やり口に含んでいると、再び渡殿のあたりが騒がしくなった。何事かと訊くと、侍女が清元氏の来訪を告げた。


 細川邸に戻るなり、曼殊院の次には清元氏か。千客万来ね……。


 心の中でつぶやいて、目の前のものを下げさせて、義父を迎える準備をさせた。



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