七
清国殿に託された太刀———最後に、清和と一緒だったのは、この弟君……。
細川の屋敷では、戦場で消息不明と聞いていた。捕虜になったのは、この弟君のほうかもしれないとも。でも、この弟は———無事だった。
泣きながら謝る清国殿の肩に、清元氏が遠慮がちに手を置いた。それ以上の醜態を、あるいは懺悔を今は見せないでくれと云うかように。
だが、清国殿はその父の制止を振り切って、絞り出すように続けた。
「その太刀は……別れ際、兄上から託されたものです」
そもそも山名の捕虜になるのは、自分のはずだった———と清国殿は涙声で語った。
初陣ゆえに注意深くあれ、手柄をあせるなと、先達たちにしつこいほどに言い含められていたにもかかわらず、清国殿は気づけば、功をあせり、そして現実の戦場の熱に浮かされるように、ついつい敵陣深くまで誘い込まれていたという。
戦闘に長けた家臣達ともはぐれ、ついには敵に囲まれて、自害か捕虜か覚悟を決めねばならぬ状況におかれたところで、清和が腹心の者たちとわずか数騎で駆けつけてきた。だが、多勢に無勢。危険を冒して戦うことよりも、清和は確実に清国殿を救う手段を選んだ。清国殿を逃がすことを条件に、清和が敢えて身代わりをかってでたのだ。
敵としても、名もなき次男よりも、名の知れた嫡男を生け捕りにした方がはるかに手柄になるとふんで、二つ返事で条件をのんだらしい。そして清和は別れ際「万一のときはこれを沙羅姫」に、と黒漆の太刀を清国殿に託したという。
万一……って、一万回に一回くらいの確率でしか、起こりえないことをいうのよ、清和。
私はやるせない気持ちで、手元の太刀を見つめる。
「あの時、私が捕虜になっていれば……っ、兄上は、兄上は無事で、父上や義姉上とここで、こうしてっ……」
申し訳ありませぬ、ともう何度目になるか分からぬくらいの謝罪の言葉とともに、清国殿はその秀でた額を地面に擦り付けた。元服したとはいえ、まだ幼さの残る弟君のその姿はあまりに悲愴で、私は見ていられなくて、思わず視線をそらした。
泣き崩れる清国殿をどうにか退がらせ、再び床机に腰を下ろした清元氏が、低い声で続きを話し始めたのは、朝靄の向こうに朝日が日輪を浮かび上がらせる頃だった。
「清和が山名方に捕らえられたときいて、私も正直、蒼褪めた。だが、向こうが人質として捕らえておるのならば、慣例に従い、身分の高い者同士の捕虜交換の材料とするはず。すぐさま手にかけることはあるまいと踏んで、それゆえ交渉を待つつもりでいた。しかし……相手は常軌を逸していた」
常軌を逸する……?
「清国を取り囲み、結果的に清和を捕らえるにいたった敵方の武将は、犬飼重信という男だ。面識はないが、私もその名だけは耳にしたことがある。山名軍でももてあますような鬼畜の所業ぶりから通称<狂犬>と呼ばれ、仲間内でも厭われる存在であるとか。その犬飼は、主人である山名豊全の指示を待たず、陣に戻る直前、独断で清和を討ち———首を挙げたという。それを知った山名豊全も、なんと云うことをしてくれた!とその場で顔色をなくしたそうだ。ともかくも、これは犬飼の勝手である、討ち取る気はなかったと、すぐさま家臣をよこし、申し開きの説明をさせた。その際に、誠意のつもりか、清和の首と体を持参してきた。今は……本陣の奥で眠っておるよ」
清元氏の話は、御伽草子のようにすんなりと耳に入ってくる。しかし、それとは逆に、私は清和の最期など聞きたくないと思っていた。耳に入ってくる囚われの清和は、私の知っている清和じゃない。あの皮肉で嫌なくらい腕の立つ清和では——ない。私の知っている清和は、そんな簡単に死んだりしない………。
かすかに頭を振る私に、清元氏は小さく詫びた。
「すまぬ———」
言葉を選んだとしても、現実は変わらない。変えようがない。何よりもそこに、現実が存在してしまうのならば———清和の亡骸が、清和の生を否定する。
「清和に……」
私はかすれる声で求めた。
「……清和殿に、会わせてください」
沈黙が舞い降りた。
清元氏は、口元を強く引き結んだまま、私をじっと見下ろす。無言で応酬することによって、私の気が変わるとでも思ったのかもしれない。
私と清元氏の駆け引きを哂うように、朝靄の中を小鳥たちが数羽、涼やかな鳴き声を交わして羽ばたいていった。そのうすい影が視界から消えても、私は前言を撤回はしなかった。
私の態度が変わらないと判じたのか、ややあって清元氏は重い口を開く。
「姫の気持ちは、察しよう。だが、対面はせぬほうがいいだろう」
諭す口調は優しく、思いやりは十二分に伝わってきた。私でなければ、普通の姫であればその言葉に従っただろう。否、普通の姫であれば、このような事態に戦陣にまで駆けつけることはない。だが、私は違うのだ……そもそも、なぜ私はここに戦陣にまでやってきたのか。すべてを自分で確認するためだ。
私は手にした太刀を強く握り締め、まっすぐに清元氏を見つめた。
「これでも武家の娘。幼き頃より、覚悟はできてございます」
どうか、ただ一度の対面をと強く望む私に、清元氏はついに長いため息で応じた。
「こちらへ」
*
本陣の奥、本来であれば祭壇がすえられる場所に、清和はひっそりと横たえられていた。
戦装束は新しいものに着せ替えられているらしく、私が用意したうちの一つ……褐色の鎧直垂をまとい、胸の上に手を組んで、清和はまるで眠っているようだった。
もっと傷ついた痛ましい姿を想像していたが、戦の痕跡など……死の証拠など、まるで見当たらない。———唯一つ、首に残る一筋の線を除いては。
襟合わせに半分隠れるように、でも確かに、その首には痛々しい赤黒い線が走っていた。
それと同時に、生気のない象牙のような肌の色が、教えてくれていた。
眠っているようにしか見えない………けれど、この涼しげな瞳が開かれることは、もう二度とないのだと———。
「清和………っ」
残酷なほど鮮明に知らされた清和の死に、私は打ちのめされる。
「清和っ………!!」
手を伸ばせば触れられるほど近くにいるのに、出しかけた右手はまるで見えない壁に阻まれるように彼に触れることを拒んだ。———清和に触れることはできなかった。
死を受け入れるしかないと目の前で知らされたにもかかわらず、恐くて……触れることで本当にそれを現実のものとして受け入れてしまうことが恐くて、近づけない。
触れたいけれど、触れられない。———二律背反の思いに私は絶望する。
———好きなのに、触れられない。
好きなのに、もうそれを伝えることもできない………。
「……清和………どうして————」
心が凍りついたようだった。感情が鈍く、涙も出なかった。
どれくらい、そうして清和を………清和の抜け殻を見つめていたのか。
時間の感覚もなかったが、それは果てしなく長い沈黙の時間に思えた。
心の整理がついたわけではない。だが———。
太陽が東の空を悠々と昇り始め朝靄が消える頃に、私はそっと清和の前を離れた。
左手に清和の太刀を強く握り締め、私は再び本陣に戻ると、清元氏に告げた。
京の細川邸に戻り、曼殊院さまにこのことを報告する、と。
清和を失ったところで、清元氏にはまだ戦が残っている。本陣を離れるわけにはいかない。
せめて、もう少し身体を休ませてからではどうか、という清元氏や家臣たちの提案を振り切り、私はかたくなに帰ることを譲らなかった。
ここにきて私の気性を理解したらしい清元氏は、家臣たちを説き伏せ、私の帰還を了承させた。そして、私に用意してくれた馬は、どこかで見た真っ白い馬——清和が出陣の際に騎乗していた『白帝』だった。
夜通し駆けさせた馬は、まだ動かせないだろうとは思っていた。そして、戦場では馬は貴重な戦力。清和の白帝を私に与えることは、けっして得策ではない。でも、誰も文句は言わなかった。
私は彼らの好意に甘えて、白帝に跨った。白帝はまるで私の心中を察するかのように、おとなしく従順だった。
私はただ一つの事実を胸に、再び馬を駆った。
白帝は風を切って、山陰道を京に向かい疾走する。闇を縫った往きとは違い、風景が背後に流れていく。
よくある田園風景。それと同じく、戦での討死もまた武家の世界にはよくあること。
袴にさした清和の太刀を握りしめ、私は心の中で絶叫した。
幼きころより覚悟⁉︎ 一体、私はどんな覚悟をしてたと云うの⁉︎
清和か死ぬっていう覚悟?
そんなの———出来てるわけないじゃないっ!!
不安がないわけじゃなかった。でも、杞憂に終わると思っていた。
清和が本当に死ぬなんて、考えてもいなかった。
私が考えていたのは、清和が帰ってきて、約束どおり太刀の勝負をすること。
この太刀で………いま腰にさしているこの清和の太刀で、清和と私、一対一で。———そのはずだった。
叫びをもらすまいと、引き結ぶ唇がわななく。強い西風が、しなる鞭のように私の束ね髪を巻き上げた。
戦場を離れて間もなく、天頂に達しようとしていた太陽が、厚い雨雲に覆われた。そして、梅雨の最後を締めくくる激しい雨が、帰路を急ぐ私たちに降りかかった。遠雷が聞こえる。
それはまるで、あの嵐の夜のようだった。清和と刀を交わして、約束をしたあの春の夜………初めて、清和を信頼した、あの嵐の夜と同じ強い雨に打たれて———。
「うっ……うう…………っ」
激しい雨の中、私は泣いていた。
凍りついたように気配さえも見せなかった涙が、いま初めて解け出し、堰を切ったように流れ始める。
それは、押し殺していた感情をも一気に流出させた。
「うあああぁぁぁあああっっ!!」
苦しくて、悔しくて、そして哀しくて。
私は声を上げて、泣く。白帝の背で、雨に打たれながら、天を仰ぐ。
清和、あんたは今そこから私を見下ろしているの?
こんな私を、いつもみたいに皮肉に見ているの?
馬鹿な女だと、嘲笑っているの?
どんな風にみられてもかまわない。
和睦のための肩書きだけの妻でもよかった。
あんたさえ生きていれば……それだけでかまわないと、他にはもう何も要らないと———今なら、言えるのに。
「清和———!」
もう、会えないというの? どれだけ憎んでも、愛しても………。
鈍色の雲は清和との距離を表すように、果てしなく厚く重く蒼天を覆いつくしていた。
そこには、彼が私を見下ろすだけのわずかな隙間すらみつけられなかった。




