四
一瞬、何を言っているのか私には理解できなかった。
は……?と間抜けな顔で、危うく問い返すところだった。
自分の中で奴の言葉を反芻して、ようやく私も悟る。
目の前の男のその倨傲ぶりを。
こンの野郎ーっ、と心の中で絶叫して馬から飛び下りた私を、鷹丸がつかみかかって止めていなければどうなっていたことか。
きっと男の額の真中に、深々と鏃が突き立っていたはずだ。
「あんたっ! いい加減にしないと、穏便にはすまさないわよ。非も認めず、名も明かさないなんて、虫がよすぎるとは思わないわけ⁉︎」
唾が飛ぶのもかまわず、ぶんぶんと腕まで振ってがなりたてた私に、男はフッと皮肉な笑みを浮かべた。
「では、おまえの方から名乗ってみろ。それが、礼儀というものだろう」
なんですって?
聞き流せない台詞だった。
私は眉を潜め、思わず鷹丸と顔を見合わせた。
この男……まさか、私の正体を知ってる?
だが、私は慌ててその考えを振り払った。知っているわけがないのだ。
畠山領内……いや、屋敷の中でさえ私の姿を知っている者は、ごく限られている。
鷹丸も知らないような男が、畠山筋の者であるはずはないし、当然、私の正体を知るはずもない。
とすると、この男はただ私が迂闊に身元を明かせない身だろうと、推測したに過ぎないのだろうか。
確かに、それは容易だ。
供をつれて、しかも女で狩などといったら、地元の豪族か国人——よほど良い武家の娘、あるいは女武者くらいのものだから。
そのとき私ははっと我に返って、しきりに目で訴えようとしている鷹丸に気づいた。
『決して名乗ってはダメです。こればっかりはダメですからねえぇぇ』
腕と度胸には多少難があっても、側近として仕えているぐらいだ。
主人の安全は常に心掛けている。
まあ、これが普段なら笑って取り上げないところなのだが、今回に限っては、言われるまでもなく名乗るつもりはなかった。
鷹丸と二人きりのいま、こちらの正体を知られるのはあまりにも危険すぎた。
押し黙ってしまった私を尻目に、男は馬が負った左脚上部の矢傷に向き直った。
狙いを逸らしたが、やはり無傷ではすませられなかったようで、矢が掠った部分の肉がえぐられ、流れ出た血が黒い毛並みをてらてらと光らせていた。
男は注意深く傷口の様子を観察した後、水か酒か腰に下げていた瓢箪筒の中身で傷口を洗い流した。
何をするのか見ていると、胸元から布を取り出し、しばしの間傷口に押し当てた。
どうやら傷口を圧迫してらしい。わりと手慣れた仕草だった。
そして、なおも無言でいた私たちを一瞥すると、男はさっと馬の背に跨り、まるで何事もなかったかのように、出てきたのと同じ茂みの方に戻って行こうとしたのだ。
思わず呆気にとられてしまった私だったが、姿が消える寸前のところで呼び止めた。
「ちょっと! ちょっと待ちなさいよ!」
男は顔だけを、やや私のほうに向けた。
「……これ以上、何かあるのか?」
相変わらず底冷えのする物言いだった。
何か、あるのかって……。
「あんたがちゃんと折れるなら、こちらにはその馬の治療をする心づもりが……」
言いかけて口ごもった私に、男はもはやこれがこいつの得意技ではなかろうかという、先ほどと同じ皮肉な笑みを、もう一度浮かべて見せた。
「おまえが名乗らないのなら、俺が名乗る必要はない。また、俺は非を認めん。というか、そもそもこちらに非はない。だがそれでは、おまえは責任を取らないという。ならば仕方あるまい。……言葉も通じぬうえ、ものの道理もわからぬような馬鹿な女とこれ以上掛け合ってなんになる」
瞬間、プツリと理性の糸が切れた。
「こっ、どうっ…ばっ、ばっ……馬鹿な女ですってえぇぇ!?」
落ち着け、私!
言葉が感情に追いつくまで、落ち着くのよ!
ひとつ大きく息を吸い天を仰ぐ。
そして、ぐっと顎をひくや、私は逆巻く怒気を一気呵成に吐き出した。
「馬鹿はどっちか教えてやるわっ! 己の傲岸不遜が何を招くかを理解できない憐れな似非貴公子め!いいこと、あなたの目の前にいるこの私はっ! 沙……んん……畠っ……んんっ!? んん!」
気づくと横から伸ばされた鷹丸の手が、私の口を塞いでいるではないか。
「お、落ち着いてください! 自滅する気ですか!?」
自滅、という言葉に一時的に理性が戻ってくる。
鷹丸はその隙を逃すものかと、たたみかけた。
「名乗ってはなりません。ことは姫様だけの問題にとどまらなくなりますよ!」
囁く鷹丸の声は真剣な焦りを含んでいた。
同時に、あまりにも現実的だった。
鷹丸の目論見どおり、私はぴたりと口を閉ざした。
閉ざさざるを得なかった。
が、しかし、憎い男を目の前にして、怒りの感情はやすやすとは収まらない。
名乗りは出来ずとも、このまま黙ってなどおれようか。
私は口を塞ぐ鷹丸の手を引き剥がすと、なおも懸命に動きを封じようとする鷹丸の肩越しに、ありったけの声で怒鳴った。
「さっさと失せるがいいっ! この似非貴公子っっ!! 冬眠明けの熊にでも喰われてしまえ!!」
馬上の男はもはや振り返ることもせず、ただ粛々と馬を進ませ茂みの中に消えていった。
私は鷹丸の腕を振り払って、その場で地団太を踏んだ。
「ちくしょう!ちくしょう!ちくしょぉぉぉう!」
これまで心の中では思っても、決して口にすることのなかった下品な言葉が溢れ出てくるのを止められない。
「あの似非貴公子! 今度会ったら貴公子面を剥ぎ取って、地べたへ額づかせてやる。今日のこと、絶対後悔させてやるっ!」
「姫さま、落ち着いて下さい。もう会うことなどありませんよ。それに、あの男のほうが数枚上手です。これ以上……」
「わかってるわよ!」
わかっているから、悔しいのだ!
これじゃあ、負け犬の遠吠えだ。わかってはいる。しかし……。
「ああああ。くやしいーっ!」
「どうどう。さ、我々も屋敷に帰りましょう。北の方様が、姫様のご不在にそろそろ気づかれているやもしれません」
鷹丸になだめすかされて、私はやる方のない怒りを抱いたまま帰路についた。
後日、名乗らなかったことを後悔させる——どころか、反対にこれ以上ないほど私が後悔することになろうとは……このときの私にも知れようはずもなかった。