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      ***


 薄物の小袖姿という軽装(ラフなスタイル)のまま、気づけば私は屋敷の主殿表にある広間へと足を向けていた。そこには留守を預かる家臣がいて、早馬の報告を受けているはずだ。

 西の対屋から主殿に渡る途中、渡殿や庭先で幾人もの侍女や下男たちと行き会った。だが、常にない軽装の私を見ても、誰も咎め止める者は無かった。それどころか、みな不安げな様子で、中にはさめざめと涙している者もいる。

 下々の者がどのような報告を耳にしているのかは知らないが、細川邸全体が動揺していることは明らかだった。こんな状況は戦が始まって以来、初めてだ。


 嘘でしょ……あの清和が捕まるなんて……。

 そんなの、信じられるわけないじゃない。


 信じられない、と心の中で叫びながらも、私の顔はここまでにすれ違った者たち同様に蒼褪めている。こんなに蒸し暑いのに、指先からも血の気が引いている。


 夕暮れが近づいてほの暗くなった邸内の庭先には、慌しく篝火が配置されていく。

 広間の前庭に据えられた篝火からは、燃え始めのパチパチと木の爆ぜる音が小さく響いていた。

 私はそれを横目でみながら、先触れも、挨拶もなく、広間へと踏み込んだ。

 人の少ない広間は無駄に広く、燭台に囲まれた真ん中だけが、ぼうっと明るく浮き上がってるようだった。その明かりの元には、私同様に着の身着のままで、らしくない姿の曼殊院がすでに到着していた。留守居役を勤める家老の谷川宗賢たにがわそうけんと共に早馬の報せ文を囲んでいる。


 宗賢は近づく私の足音に気づいてはっと顔を上げると、居住まいを正し型どおり礼をとろうとした。私はそれを不要と右手で制して、曼殊院の右隣に進んだ。

 曼殊院は微動だにせず、床に広げられた文を見つめていた。近づく私にも無反応で、いつものような嫌味めいた挨拶もない。

 隣に腰を下ろす直前、少し遅れて広間に入ってきた霞が、すばやく私の肩に青墨色の()の袿を掛けてくれた。何もいわず、霞はそのまま背後の薄暗い板間に控える。

 私はそっと曼殊院の隣から、早馬の運んできた文を覗き見た。


 乱れた筆跡で、そこには霞が言ったとおりの内容が記されていた。

 清和が戦場で、山名軍の犬飼何某(なにがし)という武将たちに囲まれ、その身柄を捕らえられたようだと。

 加えて文には——先ほど霞は言わなかったが——もう一つの報せがあった。

 弟の清国殿も、戦場にて安否が知れない、と———。

 いわば、最悪の報せだった。


「…………」


 私は文面を二、三回目で追い、唇をぎゅっと噛み締めた。視線を上げて宗賢を捉えると、老いた重臣は伏せ目がちに小さく頷いた。

 これが、今わかるすべてだと。


「……谷、谷川殿ッ」


 不意に、曼殊院が悲鳴じみた声を上げた。


「この文は……この文は、(まこと)なのですか⁉︎ 清和が敵の手に落ち、清国までが……」

「早馬からの報せは、今はこれだけでございます」

「何故、清元殿は、清和を……清国をっ」

「おそれながら、この文にある以上のことは拙者の耳にも入っておりませぬゆえ———」


 宗賢の声が曼殊院の耳には届いていないのか、曼殊院は右手で文をわしづかみにすると、ぐいっと宗賢の鼻先に突きつけて、震える声で問いを重ねた。


「……清和は、清和は捕虜となっておるだけで、もちろんその身は無事でありましょうな?」

「…………」

「清国は此度の戦が初陣。右も左もよく分からぬゆえに、戦慣れた者達が守っておると聞いておりました。きっと……きっと、戦陣を離れて、安全なところで援軍を待っておるのでしょう?」

「…………」

「谷川殿っ! 何とか言うてくだされ!」


 曼殊院らしくないうろたえように、私はこれが夢なのかもしれない、と思った。

 だが、もちろん、そんなわけはない。

 曼殊院のうろたえようこそが、想像だにしなかった現実を現実たらしめている。

 そしてまた自分の眼で見た文も、苦渋に満ちた宗賢の額の皴も、すべてが本物(げんじつ)だ。


「申し訳ございませぬ」


 宗賢は曼殊院の前で深々と頭を下げて、ゆっくり噛んで含めるように言った。


「曼殊院様のお気持ちはお察しいたします。ですが、詳細につきましては、続く早馬の報せを待たねば分からないのでございます」

「っそ、そなたそれでも留守居か⁉︎ このようなときこそ、清元殿に代わって我らを安心させるのが、そなたの勤めではないのかっ⁉︎」


 留守居はこの戦の間、清元氏に代わりこの細川邸を預かるのが役目であり、不確かな情報で私たちを踊らせるのが役目ではない。

 齢六十を超えた宗賢は、古刹の高僧にも負けぬほどの泰然とした外見と、その外見に劣らぬ沈着冷静で英明な中身を持つ重臣だ。この一月の間のわずか数度に過ぎないやりとりのうちに、私はそれを知った。清元氏の人選は正しい。

 だからこそ、宗賢は曼殊院が期待するような——嘘でもいいから彼女を安心させ、勇気付けるような——事は言ったりしない。慎重な思慮深い老臣なのだ。


 それに比べて、同じくらいの齢を重ねているとはいえ、そして出家しているとはいえ、曼殊院は冷静な政治的判断や危機的状況の対応には向かない人だ。経験値が違いすぎる。

 どんな場所でもそうだが、自分より取り乱す者を前にすると、人は冷静にならざるを得ないものだ。私は曼殊院を前に、急速に冷静さをとりもどしていた。


「曼殊院さま……」


 気は進まなかったが、老いた重臣にだけ、手負いの獣のような曼殊院の相手をさせるのは可哀想だ。

 私はそっと、怒るに震える曼殊院の肩に手を伸ばした。


「どうか、落ち着きあそばしませ」

「沙羅姫っ、そなたは清和の無事を確かめたくはないのかっっ⁉︎」


 いつも以上に感情的な曼殊院だから、きっと噛み付き始めたら手には負えないだろう。頭の隅で、警鐘が鳴り響く。


「曼殊院さま、わたくしとて清和殿のことは心配でなりません。ですが、わたくしや曼殊院さまが今ここで、谷川殿を相手に詰め寄ったところで、状況は何も変わりませぬ。清和殿も清国殿も、わたくしたちの知らぬところで戦っておいでなのです。無事であればきっと、今頃は陣中に戻っておられるでしょう」  


 言いながら、気休めに過ぎないと思った。

 清和は、敵方の手に落ちた。それが事実なら、それはもう絶望的な状況だ。

 ……だが、完全に終わってしまったわけではない。討ち死にではないもの。まだ、彼は生きている。むしろ、おとなしく囚われの身になったのなら、そこに勝算があったのかもしれない。身分が身分だから、捕虜交換のために丁重に扱われる公算も大きい。

 清国殿にしても、身辺警護の者たちと危機をやり過ごして、今頃陣中に戻っている可能性が高い。大将格の彼らが、雌雄を決するような決戦でもない状況で、敵に囲まれる事態になりうるとは思えないからだ。

 情報が、とにかく少ない。

 案の定、曼殊院が不安と怒りの矛先を私に向けようとした。その機先を制すように、私は宗賢に訊いた。


「戦場から早馬で乗りつけた者を、ここに呼んではもらえないかしら?」

「使者を、御前にでございますか?」

「少しでも、情報がほしいの」


 期待は出来ませぬが……と呟きつつも、宗賢はすぐさま使者を庭先に呼び出した。


「ふんっ、ただ馬を繰る者に、何が知れよう」


 曼殊院は私へのあてつけよろしく早馬の使者を馬鹿にしたが、私としては藁をもつかむ思いだった。文を中継するその短いやりとりの間に、伝聞で何かを聞いていてほしい。いや、より詳しいことを知りたいと思うのが人の性だからこそ、それゆえに何かを訊いていてほしいのだ。


 顔にも四肢にもまだ疲労の色が濃く残った早馬の使者は、宗賢の問いかけに対し、伝聞でも若殿が囚われたのは事実のようでございます、と繰り返すのみだった。

 私も庭先近くまで出て、直接その使者を見下ろした。


「……不確かな情報でもかまわないわ。おまえが訊いていることは、すべて話して」


 たとえ誤った情報だったとしても、一切の責は問わない——そう約束すると、最初は逡巡していた使者だが、ぽそりと口を開いた。


「その、文を最初に預かった者の話では、敵方に囚われたのが若殿様か清国様かはっきりしない、とのことでございました」

「……き……いや、若殿じゃなく、清国殿が捕まっている可能性もあるというの?」


 ちらりと隣に控える宗賢に目をやると、彼もまた私を見て頷いた。そのまま使者に視線を戻し、先を促す。


「最初の早馬が陣を出るときには、まだ情報が錯綜していたようです。囚われたのがお二人のうちの片方なのか、それとも両方なのか……」


 ……二人とも捕まった可能性も、か。


「打ち合いになって、怪我を負っただけではないの?」


 希望的な私の問いに、使者はゆるゆると首を振った。


「どなた様も負傷の話は耳に入っておりませぬ。……私めにはこれ以上のことは分かりませぬ」


 第一陣の早馬では、ここまでが限界のようだった。


「———埒が明かないわね」


 声にならない呟きとともに、私は決心していた。

 袿の裾をすばやくさばき、広間の中央に戻りながら、その場にいる者に宣言する。


「私が戦陣に向かいます」


 戦場に行って、直接確かめてくる。


「ひ、姫様……!」


 間髪おかず、反応を示したのは霞だった。

 影から飛び出してきて、私の足元に伏したまま、霞は激しく反対を主張した。


「戦場に赴かれるなど、断じてなりませぬ。そのようなこと、たとえ沙羅姫様とて、許されることではございません!」

「私の行動を制限できるのは、残念ながら私だけよ」

「姫様っ!」


 昔から乳姉妹としてともに育ってきた仲だ。この場の誰よりも、私を理解できるはず。

 私を———止められはしない、ということを。


「谷川様、どうか、お留守居役として、姫様をお止めください!」


 霞の気迫に押されたのか、宗賢は一歩踏み出して、私の表情を窺いながら言った。


「姫様のお気持ちはお察しいたしますが、わたくしも霞殿の申されることが正しいと存じます。日も暮れております、ここは次の早馬をお待ち頂くのが上策かと……」

「情報が錯綜しているというのなら、次の報せが届いたとしても内容は小出し。求めている正確な情報が届くのは、尚のこと先になるわ」


 そう断じて、私は絽の袿をバサリとその場に脱ぎ捨てた。


「明朝までこんな気持ちで待ち続けるなんて、私は御免だわ」

「姫様!」


 私の動きを封じようと足に絡みついて、霞は声だけで曼殊院へと助けを求めた。


「曼殊院さま、どうか、どうか姫様をお止めください」


 霞を蹴飛ばすことは簡単だったが、私はその場で動きを止めて、文を握り締めたままの曼殊院を振り返った。

 曼殊院の双眸が私を捉え、睨み合うこと数秒。

 いつものような底意地の悪さが、曼殊院の瞳に戻った。

 私は内心、ちっと舌打ちをする。宗賢を抑えることは出来ても、曼殊院となると厄介だ。

 だが———。


「沙羅姫の好きになさるが、よろしかろう」


 意外なことに、曼殊院は私の行動を阻まなかった。

 私は視線を緩めて、なるほどと納得する。

 思えば常識よりも、我欲(エゴ)を優先するお人だ。孫たちの安否を一刻も早く確かめたいのは、この祖母も同様……。

 本当に、自分の欲望に正直なババアだ。


「宗賢、馬の用意を!」


 一声残して、私は大きく足を踏み出す。

 霞の腕は力をなくし、するりと私の足から離れた。




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