四
供もつけずに単身での夜歩きとなれば、それ以外にまっとうな理由が思いつかない。
すれ違ったのは……ちょうど、このあたりだった。
牛車の小窓から見える景色は賑々しい昼の都大路で、あの夜とは大きく異なっていたが、地理的には間違いない。今は背にしている東山の峰に向かい、あの夜、私はこの大路を東へ駆けていた。逆に、清和は郊外から洛中へ戻るように西へと駆けていた。
「どんな………」
女性なのだろう———。
つい先ほど渡ってきた鴨川の向こう側に、おそらく清和の愛人はいる。
ここ数年の戦火にもかろうじて巻き込まれずに済んでいる、都から少し離れたひっそりとした場所。隠居者や貴族の別荘、寺社が多い地域だ。
清和の愛人と噂される女は、姫君なのか、それとも白拍子なのか……或いは、わけありの身なのか……。いずれにせよ、秘密の恋人を囲うにはもってこいの場所だ。
———ああぁぁああ!!
胸のうちで絶叫して、私はそっと目を閉じた。
いまさらだけど、清和にはうまくしてやられた。
『勝負』という楔で、清和不在の細川に私を繋ぎとめるのはもちろん、あれやこれやと気になる種を存分にばら撒かれた。好奇心の強い私が、それらを放っておけないことを見越してのことに違いない。
物理的に近いところにいれば、その気になれば何時でも訊ねることもできた。が、こうして離れてみて改めて、清和との間には気になっていたのにうやむやなままにしてきたことが多いことに気づかされる。
あいつが帰ってきて剣の勝負に勝利し、細川を出る暁には、すべてに納得がいく説明を聞かなくては気が済まない。
———って、やつの性格的に、自分からは正直に話さない可能性が高いな。やはり、ある程度、私の方で調べて答え合わせをするしかないか。
ちっと小さく舌打ちして、私は瞼を上げた。
霞は扇をはたはたと動かしながら、懸命に和歌を作っている様子だった。それを邪魔するのも悪い気がしたが、私はどうしても我慢できずにおもむろに声をかけた。
「ねえ、霞……」
「………え? あ、はい?」
霞は一拍おいて、はっとしたようにこちらに顔を向けた。幾分、慌てた口調で応じる。
「姫様、まさかもうお歌が出来上がったのでしょうか?」
「いや、和歌じゃなくて、おまえに訊きたい事があったの思い出して」
「わたくしに、訊きたいこと?」
遠まわしに訊くこともできたが、これ以上、私らしくないのは嫌だ。
私は直截的に切り出した。
「清和の、愛人のこと」
瞬間、霞はこれまで見たことがないくらい瞳を大きく見開いて、私を凝視した。
そのまま何も言わず瞬きもしないから、気でも失ったのかと掌を眼前でひらひらさせた。ややあって、霞は息を吹き返すようにひゅっと一息吸い、同時に激しく瞬きをした。瞬きと同じくらいのせわしない口調で、霞は問い返す。
「愛人って、あの噂のことでございますか? 以前お話した、邸内でまことしやかに囁かれている、あの噂の……?」
「ほかにも噂があるのかもしれないけど、とにかく私が訊きたいのは前におまえが言ってた<清和の愛人>の話よ」
「姫様……あの時はそんなのまったく興味がないと、一笑にふされていたではありませんか」
呆れる霞に、私は苦笑いを浮かべるしかない。
「まあ、それはそうなんだけど……」
詳細には触れないようにしつつ、確かに清和が夜中に外出をしていたという事実を霞に告げると、霞はやはり衝撃を受けたようだ。しばらく押し黙っていたが、やがて自らに言い聞かせるように小さく頷き、その口を開いた。
「……正直、わたくしには真実は分かりかねます」
清和を全否定する言葉が出てくるかと思ったが、意外にも冷静な反応だ。
「噂は確かに屋敷の中では広がっておりましたし、姫様ご自身が夜半に外出される清和様を見られたというのなら、それは事実なのでございましょう。しかし、わたくしなりに、やはり気になって噂の相手を調べようと試みましたが、細川邸の者は誰一人お相手については知らぬようでした」
「……誰、一人?」
「清和様の側近の和気殿(泰之)や曼殊院様に近しい者にも探りを入れましたが、逆に訊ね返されるくらいで、噂はあれど証拠は何もないのですわ」
ですから、と霞は気持ち語気を強めて、ずいっと身を乗り出した。
「わたくしは、愛人など存在しないと信じております」
———言い切ったわね。
それが霞の本心なのか、希望なのかはわからない。ただ、いずれにしろ愛人を否定することは、主人である私に対する礼儀であり、幾度かの危機を助けてくれた清和に対する恩義であることは推察できる。
押し黙ったままの私の心を読むように、ややあって、霞は静かに続けた。
「万に一つ、清和様にかねてよりの愛人がいらしたとしても、それは姫様の輿入れが決まるよりも以前からのことで、仕方のないことでございます。もとより清和様は細川宗家のご嫡男、跡取りを残すため、複数の側室を娶ることも不思議ではないご身分……愛人のたかが一人や二人を差し引いても、清和様は申し分のない夫君であらせられると、わたくしは思います」
「……おまえは、清和に恩があるからね。本人不在のときくらい、あいつの味方をさせてやるか」
皮肉に笑った私に、霞は真面目顔で反論する。
「わたくしは常に、姫様の御為を思っております。姫様と清和様の間で何ゆえ『勝負』などというお話が持ち上がったのかは存じませんが、わたくしは正直なところ、姫様が勝負に負けて、おとなしく清和様の御正室としての務めを果たされることを望んでおります」
「………まぁ負けちゃったら、それも仕方ないわね」
「そう思ってらっしゃるのなら、何故に勝負など」
「正々堂々と勝負して、自らの手で自由を……私の人生を取り戻したかったからよ」
「姫様はそれでようございましょう。けれど、清和様は……?」
「あいつだって……」
言いかけて、私は改めてあの勝負の約束には、清和になんら利益がないことを思い出した。
私の逃亡を妨げたのは、和睦という約定や霞たち臣下のためであって、清和個人のためじゃない。そして、勝負に勝っても負けても、清和個人に益はない。
いや、あいつが演じ続ける<よい子>の夫婦としての体裁を保つことこそが、清和の狙いか……?
我ながら相変わらず穿った見方をすると思ったが、一度ついた色というのはなかなか抜けないものだ。
途中で言葉を切った私に、霞はやや同情するように訊いてきた。
「何度も伺っているように思いますが、姫様は清和様のいったい何が気に入らないのですか?」
何が気に入らないって……。
「最初から最悪なのよ」
「最初? 最初とおっしゃいますと、初めて対面なされたあの輿入れの儀式で、清和様が何か姫様の不興を買われるようなことをなさったと?」
霞からすれば、半病人状態で婚礼の儀に挑んだ私のほうが、むしろ礼を失しており、何か不始末をしてそうだと言いたげな面持ちだ。
最初———そこからして、違うのだ。
もちろん、あの輿入れの日じゃない。私と清和が初めて出逢ったのは、春まだ浅い日の山中の狩場だ。
霞は本当のところをよく知らないから、正論をぶつける清和の肩を持ちたくなるのだ。
私は知っている。清和の本当の姿を。
それとも———知らないほうが、よかったのか?
もう何度も繰り返しているこの問に、私は同じ答えを出さざるを得ない。
知らなければ、騙され続けるだけのこと。そして、私は騙されるなんてこと、絶対に潔しとしない。
私は騙されたりなんてしない!
「私は………」
清和の真実を知っている。
そして、清和も私の真実を知っている……。
言いかけて言葉にならないまま、私は口を閉じた。
牛車はギイギイと鈍い音をたてながら、ゆっくりと細川邸の門を潜ろうとしていた。
*
細川邸に着いたのを機に、清和の話も作りかけだった和歌も打ち切った。部屋に戻った私は「ちょっと独りになりたい」と言って霞を下がらせた。
霞も先ほどの応酬を出すぎたことと思ったのか、非礼を詫びるような言葉を残し、おとなしく局へと退がっていった。
霞に不満があったわけでは、もちろん無い。ただ、独りになって、頭と心を整理したかっただけだ。
隣の部屋からごそごそと琵琶を持ち出して、私は久しぶりに琵琶を爪弾いた。
梅雨の湿った空気が、琵琶の音色を幾分変調させる。素人には全くわからないくらいの、だけど微妙な変調。このところの、私の不安定な心のよう。
「………この時季は、だから嫌なのよ……」
あの清和ならば、琵琶の変調すらも逆手に取った演奏をするのかもしれない。
『月花』では、寄り添うような演奏をしていたが、あれがあいつの本質とはとても思えないもの。剣と同じように、攻撃的な……あるいは臨機応変な演奏をしてみせるのが、清和らしい………。
「—————っ⁉︎」
ジャッと撥で弦を押さえて、私は愕然とする。
いま私、また清和のことを考えていた?
どうなっているの?
こんなの———おかしい!
まるで、清和に頭の中を支配されているようだ。
追い払っても、追い払っても、いつの間にか、また清和が頭の中に入りこんでいる。
留守の間は顔をあわせなくてせいせいしているはずなのに。
こんなに離れているのに———
「私、清和に会いたいの……?」
呟いて、その意味を反芻した次の瞬間、
「は、はは…あはは、やだ馬鹿みたい、あはっ、……あはははっ」
私は本当にどこかイカレているのだと思うと、こみ上げた苦い笑いが清々しいくらいの大笑いに変わった。
やけくそで久々にすっきりした気分になりかけた。その矢先———。
渡殿を駆けて部屋に飛び込んでくる影があった。
「沙羅姫様ッッ!」
霞だった。
飛び込んでくるなり、床に頭を擦り付けるように控えた霞を、私は大笑いの口のままでぽかんと見つめた。
独り大声で笑っていた私も大概だが、この霞もおかしい。
面を伏せたままのせいか、霞は震えているようなくぐもった声で告げた。
「姫様、先ほど戦場より早馬の報告がございました」
戦況報告、か。
泰之の文ではなく、早馬——つまり正規の知らせだ。
霞の様子からして、よい報告ではない。
私は開けたままの口を閉じて、続けろと命じた。
「は、早馬の報せでは、本日、巳の刻ごろ、戦場にて清和様が、敵方・山名配下の者に囲まれ、捕虜になられたとのよし……」
「清和が……」
ヤマナノ、ホリョ……!?
とっさに、意味が分からなかった。
私は唖然茫然の体で、ただただ床に伏したままの霞の頭部を見つめる。
霞は伏せたまま、顔を上げない。また、それ以上の言葉も継がない。
清和が、山名の、捕虜に……。
二度、三度同じ言葉を口内で繰り返して、ようやく意味を理解する。
清和が、敵に捕まった⁉︎ あの、清和が⁉︎
「…………霞……」
大きく深呼吸を二度した。そして、私はくすっと笑った。
「———それ、さっきの仕返し? 」
あまりにも迫真の演技だったから、一瞬本当かと思ってしまったけれど、あの清和に限ってありえないことだ。
清和の危機を聞けば私も心配して、気に入らないとか勝負だとかは放り出して、従順になるとでも思ったのなら大間違いよ。
「おまえの演出は派手すぎるのよ。せめて、矢傷を負ったくらいにしとけば……」
「姫様っ!」
霞はようやく面を上げると、血の気の上せた蒼白い顔で、同じく血の気の失せた真っ青な唇を戦慄かせた。
「これは、戯言などではございませぬ……事実でございます!」
次の瞬間、私は立ち上がり、部屋を飛び出していた。




