三
この自問に対して、私は私なりの自己分析をしていた。
それは、きっと……『焦り』のせいだ——と。
こんな風に毎日一人で稽古をしてはいるけれど、彼我の実力差を知っている。
ゆえに、もしかしたら負けてしまうかもしれない、という焦りが苛立ちを生んでいるのだ。
きっと、そう。
油断すると直ぐにからかい調子に入りそうな霞をせかして、私は庫裏の一室ですばやく身支度を整え、姫君らしい姿に戻った。それから、白毫院を辞する前に恒例となっている本尊参拝に向かった。
もともとの名目が「戦勝祈願」なのだから、形だけでも参拝しておかなければ言い訳がつかない。
本堂の中央には柔和なお顔の釈迦三尊像が、少し離れた左奥には等持院から預かっているという利運地蔵尊が安置されていた。私は真ん中に座してらっしゃる釈迦如来仏の前に正座して、いつものように両手を合わせる。
口には出さないが、東軍の勝利と清和の無事を願い、一日も早く<私の解放のために>清和が戻ってきますようにとこっそり祈願していた。私にだって信心がないわけじゃない。
今日も同じように祈願をして、けれど背後に霞の観察するような視線を感じてどうにも居心地が悪く、私は早々にご本尊の前を離れた。あわてたように、むにゃむにゃ何かを唱えていた霞が立ち上がり追いかけてくる。
伯母上への挨拶もそこそこに、待たせていた牛車へ乗り込むと、私たちはいつもどおり細川邸への帰路についた。
*
せまい牛車の中で霞と二人顔をつき合わせていると、霞がまたいらない勘繰りをしてきそうで、私はわざと小狭い物見窓から外ばかりを見ていた。とはいえ、あからさまに霞を避け続けるのは得策ではない。そこで、北白川を抜けた百万遍あたりで車内に視線を戻し、退屈そうな霞に和歌を作り競うことを持ちかけてやった。
最初は渋った霞だったが、曼殊院との嫁姑抗争でいつ役に立つか分からない、と言ってやると俄然やる気をだすのだから、本当によい側近だわ。まったく。
「季節的には夏の和歌……夏の……蛍? 蛍でいきましょうか」
時期的にもどんぴしゃで、霞にしては気の利いたお題選択だ。
「いいわよ。蛍で一首詠みましょう」
容易く応じたものの、真剣に作り始めた霞に対して、私は雑念が多く和歌作りには集中できそうもない。そもそも今日の集中力は剣の稽古に全投入してしまったのだから、今更気乗りしない何かに熱心に取り組むなんて無理だ。容量不足も甚だしい。
自分で言い出しておいてげんなりしたが、まあ、霞の気を逸らせればそれでいい訳で、何も私までもが真面目に和歌を作る必要はないかと思い直す。
さも考えているような小難しい顔をして、牛車の小窓から再び都大路を眺めることにした。
今回の戦は京から少し離れた丹波が戦場となっている。それを知って、都の人々は幾分ほっとした様子だった。疲弊した人々の生活は、白毫院を往復する道すがら、日々の様子からもうかがい知れる。
本来であれば、管領家である細川家や畠山家は将軍家を補佐して、都の人々しいてはこの日ノ本という国に住まうすべての人々を、守り豊かにするべき政策を施行すべき立場だ。それが率先切って戦をしているのだから、市井の人々にすれば本当に迷惑な話だろう。
私に高貴なる義務を説いた清和なら、それを理解していないはずがない。
清和はどんな気持ちで戦をしているのだろう……。
丹波の北部……由良川が流れる天田郡あたりの城に陣を張って、地元の東軍勢力とともに山名の進軍を阻んでいるという。
細川邸にいる時分から敵の分析だとか言っていたが、実際の戦になれば陣中での分析にとどまらず自ら戦場を駆け回ったりするのだろうか……。
足軽ならいざ知らず、大将格の清和はそう軽々しく前線に立ったりはしないはず……。
私も散々、男勝りだ何だといわれてきたけれど、未だ戦場にだけは出たことがない。物語や話で語られる戦は知っていても、現実の決まりはよく知らない。
ただ——戦というものは規模に関係なく、常に人命を賭して行われるものだ。そして、血を多く流したほうが負けるとも限らない。
思えば父上や兄上たちは、今までよく無事に戦を制してきたものだ。私はそれを当たり前のように思ってきたけれど、常識的に考えてそんなわけはない。彼らが強かったから、あるいは時の運に味方されて、ここまで無事に済んできたのだ。彼らが勝利した分、逆に敗北し……命を失った者たちが存在するのも事実。
どんなに強い武将であっても、命を落とさないという保証はない。
清和だって———。
不意に浮かんだ不安に、私は一人頭を振る。
いやいや、それはない。あいつの実力は十二分に知ってるもの。
驍将と呼ぶにふさわしい強さだった。腕だけじゃなくて、あの憎らしいまでに落ち着いた自信家な性格からして、戦場で危機的状況に陥ったって、そう簡単にやられたりしないって。むしろ、それを楽しみそうな性格の悪さだ。
———とそこまで考えて、はっと我に返る。
ぴしゃりと左手を額に当てて、私は他の誰でもなく自分自身に言い訳をしていた。
ちょっとまって、いや、これは心配とかじゃないから。冷静な分析よ。
あいつのことを考えていたのは、勝負のためよ。あいつがとにかく無事に戻ってことないと困るからよ。
額に左手を押し当てたまま、さらに小刻みに頭を振って、私は頭の中から清和を追い出そうと試みた。しかし、戦装束で殿様じみた髭を蓄えた清和が『お前は本当に馬鹿な女だ』とせせら笑う姿が浮かんで、やつを追い出すどころか、更なる深みへと……やつとの脳内戦へと引き込まれる。
だいたい、あの髭は何だ。
このふた月あまりで、ますます伸びているだろうあの髭……あれは、駄目よ。清和らしくないわ。
戦が終わったら、速攻で落とさせなくちゃ。髭なんて、三十路過ぎてからでいいっての。
ていうか、そもそも髭を生やしてなくったって、舐められるような可愛い性格じゃないじゃない。
山中の狩場で初めて出逢ったときの衝撃がよみがえる。
尊大な自信家かつ冷ややかで皮肉な男。
思い出すと、今でも怒りでわなわなと腕が振るえる。
そもそも、どうしてあいつはあの山中で会ったときのような、見てくれと落差のある性格を、家臣たちの前でご披露しないのよ。或いは、どうして京の武家仲間や、家族である曼殊院や清元氏の前ですら『春の貴公子』でいるわけ?
本来の『氷の貴公子』ぶりを存分に見せつけていたら、その性根の悪さも、噂とは異なる剣の実力のほども、驚くほどの勢いで武家仲間から人口に膾炙するというやつよ。
髭なんかで箔をつけなくても、『細川清和』だってだけで皆ビビって敬遠してくれちゃうっての。
清和の本意は、一体どこにあるのだろう。
なぜ、近しい者にすら本当の自分を隠す必要があるのだろう。
私? ——は、別に自分の本性を隠してるつもりはない。家族や近しい者達は、真実の私をよくよく知っている。その上で、そんなあるがままの私を受け入れ、大切にしてくれた。それに、私も満足していた。
逆にいえば、近しくない者達には本当の私など知らせる必要もない……『畠山の今かぐや』で十分でしょ、というのが私の考えだった。
清和の考え方は———
「………私とは、逆……?」
霞に気づかれないくらいの呟きを漏らして、私はぎゅっと眉根を寄せる。
正論すぎる正論をかざすあの清和は、家族や親しい家臣、武家仲間には品行方正・温厚篤実である自分しか見せない——見せたくない——という考え方なの?
自分を演じて、我慢をしてでも、理想的な細川清和であろうというの?
そこまでして、よい子でいる価値って何なの?
自分に課せられた責任のため? 周囲の期待のため?
でも、だったら輿入れのあの日、最後まで私を振り切ってしまえばよかったのに、存外早くに正体を認めた。
私が———<どうでもいい存在>だったから? 正体を知られたとしても困らない、取るに足らない存在だから? 私は明らかに、あいつの生活圏外の存在だったから?
確かに政略結婚だし、清和にとって圧倒的に有利な自陣地での『畠山の今かぐや』など、さしたる脅威ではない。
その力の差、不均衡さゆえに、私は隙あらば細川から逃げ出そうとしていたし、その結果、あの嵐の夜に刀を交えるはめになってしまったけど………。
でも、そう……思い返せば、正面から喧嘩をしていたり、真剣を交えたりしているその時にだけ、私は本当の清和に会っている気がした。だからそのときに交わした言葉や約束は、信用できると思えたのだ。
どれだけ親しくても血がつながっていても、本当の姿を見られないのなら、それは今このとき路上ですれ違う誰かと同じだ。何の信頼も置けない。
あの春の嵐の夜、逃げおおせなかったことを後悔はした。けれど、本当に逃げおおせていたなら、私はもっと後悔していたのかもしれない。
清和とは正々堂々と決着をつけて、胸を張って別れたい。
そうして、出来ることならば、その時には清和の本意を———真実の姿を身内にすら見せぬ訳を教えてもらいたい。そうすれば、心晴れ晴れすっきりとした気分で、私は私の道を歩めるというもの。
あの夜、この都大路で清和と偶然にも行き逢ったことは、今となっては僥倖だったのかも………。
小さな覗き窓から大路を眺めつつ、気づけばあの嵐の夜のことを思い出して、人知れず微笑を浮かべていた。
夜逃げをする途中で偶然にも夫に鉢合わせし、野盗たちと血まみれの大立ち回りを演じた挙句、夫婦で離縁をかけた真剣勝負に———最後はずぶ濡れとなった春の嵐………。
いったい微笑ましい要素が、どこにあったのか自分でもよくわからないが———。
「……ん? 偶然……?」
あれは———偶然、だったの?
不意にいらない疑問が胸をついた。
私たちが行き逢ったのは確かに『偶然』だ。だが……私に逃げる必然があったように、清和にも夜中の都大路を疾走する必然があったってことじゃない? それって……
噂の愛人の元からの帰路だった——って、こと⁉︎
とたんに、何ともいえない不快な感情が沸き出でて、私を混乱させる。
愛人———昔からいるという、清和の秘密の恋人。
清和にはとうとう訊ねずじまいだったが、あの夜、清和はその愛人のところから帰る途中だったのか……。




