二
以前、清和から聞いた曼殊院と伯母上との因縁話に、今日の私と曼殊院の対立の根があるのだとしたら、やはり伯母上にはそれなりの責任は負ってもらいたい。勿論、伯母上自身に曼殊院との対決の意思などなかったのは理解しているし、むしろ伯母上も、曼殊院の一方的な敵対視を受けた被害者の一人なのだろうけれど———それはそれ、これはこれだ。
京の畠山邸を通して、すぐさま伯母上が住まう白川の尼寺に使いを出し、半ば強引にその尼寺へ参詣する約束を取り付けた。名目は、もちろん戦勝祈願だ。時節的に適してるでしょ。
伯母上からすれば、顔も見たこともない姪からの申し出だ。さぞや困惑したことだろう。
普通なら断られたって仕方のない性急さだったが、血縁上のつながりと、かつての嫁ぎ先である将軍家——現将軍の足利義史——が、我が細川宗家とともに東軍に組する関係ゆえに、伯母上は無理を承知したらしい。
そんな人の好い伯母上だけに、戦勝祈願などは名目に過ぎず、本当の目的は曼殊院から離れ、なおかつ人目を盗んで剣の稽古を行うことだなんて知ったら、どんな反応を示すだろう。どうか、理解ある伯母上でありますように。
ともかく、約束を取り付けるやいなや、私は曼殊院へ白川にある縁の尼寺へ戦勝祈願に行くので、しばらくはご機嫌伺いに参上できかねる旨の通達を行った。
すると曼殊院は———
「ならば、わたくしも一緒に戦勝祈願に参りましょう。御仏に仕える身でもありますもの」
と言い出しのだ。
うんうん、そうくると思ったわ。大丈夫。ここまでは、想定内よ。
私は何くわぬ顔で、次の一手を講じることにする。すなわち、因縁の披露だ。
「縁の寺というのは、出家した私の伯母上が庵主を務めている白毫院という尼寺ですの。大きな伽藍ではないそうですが、先だっての合戦で焼失した等持院のご本尊をお預かりもされていて、婚家でもある将軍家の菩提を弔ってらっしゃるそうで………東軍の戦勝祈願にはちょうどふさわしいかと思いまして」
しれっと匂わせてやると、とたんに曼殊院は顔を引きつらせた。効果は覿面だったようだ。
「さようですか。ですが……名もよく聞かぬ寺院ですね。びゃく……白毫院? 名もなき寺もよいが、やはり戦勝祈願となるともっと霊験あらたかな名刹へ参詣した方がいい気がしますね」
曼殊院は早口に、
「そうですね、わたくしは建仁寺の摩利支天堂か……藤森神社に参詣いたしましょう。ちょうど紫陽花の時期でもありますしね」
と宣言し、
「沙羅姫は沙羅姫で勝手になさるがよろしかろう。ほほほ」
などとお墨付きまで下さったのだから、私が内心にんまりとほくそ笑んだのは言うまでもない。
*
———約束の日。
初めて対面した白川の伯母上——顕璋院様——は臈長けているとはいえ、父上に似た気丈そうな美貌の持ち主だった。しかし、その見てくれとは逆に、憎き父上とは似ても似つかぬお人好しぶりで、私の細川家での嫁姑問題にひどく心を痛めてくれた。
そこに付け入ったつもりはないが、ここぞとばかりに私は、この嫁姑問題を戦い抜くためには心身ともに鍛えねばならない、という独自理論を展開した。それに押し切られる形で、結果的に伯母上は御堂や庭の一部を私に貸す羽目になった。
それからは一日おき、場合によったら連日、白川の寺に詣でるという私の新しい生活様式が始まった。
*
空は鉛色をした厚い雲に覆われ、空気はむっとした湿気を含んでいる。
水無月に入り、例年ならばそろそろ梅雨も明けそうな時分であるが、今年はまだ長雨が続いている。
京では明け方に雨は止んだが、いつまだ降り出してもおかしくはない。そう遠くはない丹波の戦場も、似たような天候だろう。
できることなら、そちらには雨を落としてほしくはない。その分、この京に降り注げばいい。
いっそ、今ここで気合を入れて低い曇天を一突きすれば、ざざっと底から雨が漏れ出でて、辺り一帯を水浸しに———なんて、ありえない想像をしている自分に気づいて、私は突き出した木刀を引っ込めた。
集中力が切れている。どうやら、今日の稽古はここまでのようだ。
ブンッと一振りして木刀に流れる汗を振り落とし、ここ半月の日課となっている鍛錬を終えた。
木刀を片手に、中庭に面した濡縁に足を向ける。
そこで待つ霞は、背後にあるお堂の扉にもたれるように、ややしどけなく居眠りをしていた。近づく砂利音にはっと顔を上げて、私を認めるや慌てて背筋を伸ばした。
私からすれば、この蒸し暑さで眠れるのが不思議なのだが、ただ待っているだけの霞にすれば退屈なのだろう。まあ居眠りくらいは大目にみるわ。
霞が体勢を立て直すだけの余裕を与えようと、私はわざとゆったりとした歩調で濡縁に近づいた。
「今日も、ずいぶんと熱心でしたね」
正味どの程度見ていたかは疑問だが、霞は真面目な顔で感想を述べた。
私は「まあね」と軽く応えて、右手の木刀を渡す。霞はそれを受け取り脇へやると、手元にあった水桶の中から手拭をすくい出した。ぎゅっときつく絞って私へと差し出してくれる。
火照った体に、濡れた手拭はひんやりと冷たく気持ちよい。私は冷えたそれで、とりあえず額や首筋の汗を拭う。ふうっと自然に大きな息がもれた。
のろのろと吹き抜ける風が、汗をぬぐった一瞬だけは爽やかに肌をなでていく。
すぐにぬるくなってしまった手拭を霞に返して、私は彼女と同じ濡縁に腰を下ろした。
「細川に来て以来、ほとんど体を使ってなかったからさー。毎日稽古をしたっていいくらいよ」
「……ある意味、姫様らしくて結構ですが、こんなお姿が畠山の北の方様やあの曼殊院様に知られたらと思うと……」
「心配なわりには、よく眠ってたみたいじゃない」
からかいで応じてやると、霞は久々にぷうと頬を膨らませてみせた。紀伊の畠山邸にいたときみたいで、いつになく心が和む。
お互いに破顔したところで、霞が竹筒を取り水を勧めてくれた。
「……心配しなくても、大丈夫よ」
竹筒から注がれる冷えた水を器にうけて、私はにこりと笑った。
「ここは安全な場所だわ。情報が漏れるようなことはないわよ」
「そうおっしゃいますが……」
「ここが伯母上の寺である以上、曼殊院はまず近づいてこないわ」
寺というか、北白川周辺一帯に、あのババアの気配はない。まるでそこに強烈な結界があるかのように、近づきもしなければ、話題にもしない。曼殊院が子飼いの桔梗など<お付の者たち>も、あえて私にくっついてくる様子もないし、かといって私や霞を乗せてくる牛車の下男たちが曼殊院に買収されている様子もない。
曼殊院はとにかく、因縁の女とは直接的には一切関わりたくないらしい。
だから、この寺は安全な場所なのだ。
冷えた水をおいしく飲み干す私を見ながら、霞はまだ納得がいかぬらしい。
「曼殊院様はそうかもしれませんが、顕璋院様たちは姫様のことを、かなり怪しんでらっしゃいますよ」
ご存知とは思いますが、と付け足して、霞はチラリと講堂のほうに視線を向けた。
確かに、伯母上を含めたこの寺の尼君たちの、私を見る目については、好意的とは言いがたい。まるで物の怪でも見るように、遠巻きに剣の稽古に励む私の様子を窺っているのを、私も承知している。でも、尼君たちが私を気にするほど、私は彼女たちを気にしてはいない。だって、曼殊院みたく実害なんてないわけだし。
「普通じゃないと思われるくらい、たいしたことないわ。どうせ、父上に報告するほどの親しい付き合いはないだろうし。おかわりちょうだい!」
空になった器をつき返して、ついでに私はうーんっと伸びをする。
そうして、視界を曇天でいっぱいにして、そこに重なる感覚に気づく。
汗も引いて、体は適度な運動の後の充足感に満たされ、おまけにここは曼殊院の目の届かない自由な場所で、気分爽快———のはずなのに、何故か心はすっきりと晴れていないのだ。このところの空と同じように、鈍く重い。いや、それだけじゃなく、落ち着かない。
ここ最近の私は意味もなく苛々したり、早く戦が終わらないものかと戦場の様子に気をとられがちで、昔のように「戦など我関せず」と落ち着いていられないのだ。
「戦況報告は?」
おかわりの水を一口飲んで、霞に訊ねる。霞はふるふると頭を振って「変化なし」と示した。
細川邸を留守にするようになってからは、弾正のもとに戦況報告が入ったらすぐにこの寺まで知らせるように手配してある。
ここしばらくは膠着状態らしく、そうそう報告はないのだけれど、私は毎日何か新しい知らせがあるのではと気になって仕方ない。それどころか、あの憎らしい実家からの手紙ですら、待ちわびる始末だ。
実家からは、『畠山(東軍)の勝利』の知らせを期待していた。
一日も早く伯父上率いる西軍との内戦を制して、東軍細川の本体と合力しろってのよ!
今のところ、状況的には東軍細川は西軍山名と五分五分だ。畠山が加勢せずとも、清和たち細川京兆家をはじめ、細川野洲家や細川和泉守護家の軍勢だけでも六万、そこに赤松や三好が合流しているのだから、数の上ではむしろ有利なくらいか。膠着状態や小競り合いが続いているとのことだったが、今すぐ援軍が欲しい状態ではない。
だがそれ故にこそ、大内(西軍)の後方軍が西軍本体に追いつく前に、清元氏は東軍の総攻めに移るのではないかと、私は分析していた。その時、畠山の援軍があるとないとでは大きく違ってくる。父上たちの軍があれば、一気に片がつく可能性が高い。
「父上たち、何やってんのよ。義貴兄様の軍だって、いまだに山城で充剛(沙羅の従兄弟・西軍)の軍相手に睨み合ってるんでしょう? 充剛なんて、さっさと打ち負かしちゃえばいいのよ。それで清和たちと合流して、山名と大内を押し戻せっての。畠山が一つになって東軍に合流したら、山名の本軍は無理でも一色軍を殲滅させるくらいはできるでしょ? 西軍の奴らにもうしばらくは合戦したくないって思わせればいいのよ。誰だってもう戦には辟易してるころでしょうよ」
「まことに、ごもっともでございます……」
おとなしく賛同しているのかと思うと、霞はなにやら含みありげにニヤニヤと私を眺めていた。その気持ち悪さに、私は若干引き気味に彼女を見遣る。
「何なのよ、その表情は?」
「いえ、沙羅姫様が戦の殿方をご心配なさるなんて珍しいことなので……つい」
「心配って……おまえ、なに想像してるのよ。言っとくけど、私が戦のことや清和の情報を気にかけてるのは、勝負のためよ! 勝負がつかない限り、私は細川を出られないんだからね。で、その勝負は、戦が終わって清和が帰ってこない限りつけられないんだから。わかる?」
「はいはい、さようでございますわね」
まるで聞き流すような霞の対応に、内心むっとした。だが、ここでムキになっては、さらに霞の思い描く画のとおりになりそうで、私は平常心を装った顔で怒りを押さえ込んだ。
そして、ふと気づく。
そもそも、こんなことで怒ったりムキになること自体、私らしくない。
戦にも清和のことにも、興味なんてなかったのに。
なのに、どうして毎日、こんなに苛立つのか……。




