十
「……………」
私は不意に、不安に襲われる。あの約束まで消されてしまったのではないか———と。
衣装の確認を終え、霞と泰之を交え世間話に興じている清和を振り返った。
「清和……あんた、私との約束、忘れてないでしょうね?」
顔だけをこちらに向けた清和は、私の手に握られた太刀を認めると形の良い眉をしかめた。
「しらばっくれる気っ⁉︎」
彼が何か言うよりも前に私は素早く太刀を鞘から抜いて、切っ先をその眼前に突きつけた。
「ひひ、姫さまっ!」
「大丈夫だ、霞。落ち着きなさい」
霞が悲鳴にも似た声を上げて慌てて立ち上がろうとするのを、清和は片手で制して、苦い笑みを含むような視線で私を見上げた。だが、それ以上口を開く気配はない。
「……忘れて、ないでしょうね?」
重ねて問う私に、清和は溜息のように応えた。たった一言。
「ああ」
本当に分かっているのか、誤魔化すような狡い返事に、私は切っ先を揺らせる。
「戦から帰ってきたら、すぐにこれで勝負よ」
「———分かっているから、収めたらどうだ。霞と泰之が驚いている」
清和は視線で早くしまえと促した。
態度はともかく、約束は忘れていないみたいね。
その口から確認できる言葉を耳にして、私は漸くほっと安堵する。そして清和越しに戸惑い気味に私を見つめる泰之と、私をにらむ霞の視線に状況を理解した。
私は慌てて切っ先を下ろし、霞に笑顔を見せた。
「やあね、霞。今のは……そう、戦の前の景気づけよ」
「……わたくしには、とてもそのようには……」
「ああ、飲み物の準備遅いわよねー。霞、ちょっと行って様子見てきてよ」
「姫様! いまはそれより、姫様からご説明をいただきたいことが………」
「それはまた、あとで。ほら、清和も忙しいって言ってるじゃない。ね、急いで」
強引な私の指示に霞は不承不承従った。泰之は霞に代わって確認を終えた衣装箱を奥の部屋へと移動させている。
二人の姿が視界から遠ざかるのを待って、私はふぅっと息を吐くと、右手を動かした。久しぶりに握る太刀のずっしりとした重みがやけに堪える。
清和の無言の圧もあり、手にしていた太刀を鞘に収めるべく、身体近くに刀身を寄せた。そうして鞘に切っ先が触れるそのときになってふと思い出したのだった。
「そういえば、あんたって……ずっと左利きだったの?」
「……覚えていたのか」
清和はようよう体ごとこちらに向き直ると、うっすらと笑った。それから感心したように腕を組んで、私と太刀を見比べる。
「あの夜のことは、約束以外は忘れてもらってもいいんだが……」
「情報は情報として、きっちり押さえておく質なの」
きっぱりと言い放つ私に、清和はちょっとだけ肩をすくめると淡々と説明した。
「右利きに矯正しているから、筆も箸も人前では馬手(右手)を使う。無論、刀もだ。……あの夜はまさか、抜く羽目になるとは想像していなかった」
女相手に太刀など抜けるかと豪語して、私の刀を鞘で受け止めていたものね。
「油断大敵ね……」
清和には届かないくらいにつぶやいて、黒光りする鞘を視線でなでる。
「鞘の傷、結構……深く傷ついていたでしょ? こんなに綺麗に修理させるの大変じゃなかった?」
高価な仕立てであることは月光の下ですら見て取れた。跡形なく修復するには、腕のいい職人と相応の費用が必要だ。
一拍あって、清和は応じた。
「物にはそれぞれの役割がある。鞘としての役割を果たすのならば、見た目にこだわる必要はなかったが……傷の理由を訊ねられるのは得策ではないから、直しに出したまでのこと」
『お前のせいで』とは言わないところに、清和の今の見てくれだけではないオトナな対応を感じて、私も冷静にならざるを得なかった。
午後の日差しに上品に輝く白刃を、あらためて眺める。
まあ、考えてみれば当たり前のことか。その辺の町家の子供ならいざ知らず、細川家に生まれた男子ならば、左利きは幼い頃に矯正されないわけがない。よくよく思いかえしてみれば、いつも箸はちゃんと右手で使っていたし、琵琶を弾くときも、ちゃんと右手で弾いていたじゃないの。刀だけ利き手を矯正しないわけがない。
ただ、左利きは恥ずかしいことではないが、普通は公にはしない。
だから、こんな風に、声高に問い詰められるような事もない。
それに思い至って、私は急に申し訳ない気持ちになってしまった。
私が大人しくなったのに不審を抱いたのか、清和はややあって思い出したように加えた。
「———傷は消したが、約束はそのままだ。それでいいだろう?」
無論だ。約束さえ守ってもらえるのならば、私に異存はない。
私は黙ったまま頷いて、収めかけだった刀身を鞘に収めた。
するりと収まってしまえば、あの夜の底冷えのするような刃とは思えないくらい唯美だ。なかなかの業物に見える。
私は場の空気を変えようと、ところで……と幾分明るい声音で訊いた。
「これって、名のある刀匠のものなの?」
清和は少し思い出すように首をかしげる。
「いや、備前のまだ駆け出しの刀匠の作と聞いている。たしか、長船……」
「ふぅん。でも、わざわざ作らせたのよね?」
手にしてみて分かったが、この太刀は柄の意匠も凝っている。螺鈿細工で、表には細川京兆家の家紋・松笠菱が、裏には日輪の意匠が施されている。
兵具鎖の太刀ほどの派手さはないけれど、よくよく見ればこちらの太刀のほうが、かなり上等な誂えであることが分かった。
「……備前は乳母と縁がある土地で、その縁もあって誕生の祝いに特別に打たせたらしい」
「へえ、そうなの」
ふむふむと清和の言葉を聴きながら、私は太刀をもとあった場所に恭しく納めた。振り返ると、清和がいつになく興味深そうに私を眺めている。
「なによ?」
思わず仁王立ちで見下ろすと、清和は視線を太刀に移しながら訊いた。
「刀にも興味があるのか……?」
「よい業物は、誰だって興味を持つでしょう?」
「普通の『姫』は、興味を持たないと思うが……」
「今更、あんたの前で猫被ったって仕方ないでしょう?」
「……たしかに」
妙に納得して清和は、微かな笑みを浮かべた。
「腕のよい刀匠を紹介してやろうか? 粟田口辺りの……といっても、さすがにいますぐは時間がないな。取り急ぎ必要であれば、泰之に頼んであとで一振り届けさせるが。畠山からの輿入れ道具には、その類のものは含まれてなかっただろう」
「敵の情けはうけないわ。 自分の得物は自分で用意するから!」
「………本当に、負けず嫌いだな」
聞こえないくらいの呟きを正確に拾って、私は仁王立ちのままさらにふんぞり返る。
「言っておくけど、私は強いわよ」
「……だろうな」
今度は聞こえるくらいの声音で呟いたかと思うと、直後に清和はおかしそうな笑い声を上げた。私はぎょっとして身を硬くする。
『春の貴公子』としての上品な笑いは時折見かけたが、こんな風に声を上げて屈託なく笑う清和は初めてだ。
「ななな、何がおかしいのよ⁉︎ 馬鹿にしてるの?」
「は、はは……いや、そうじゃない……」
これまで散々人のことを『馬鹿女』と罵ってきたくせに、笑い混じりの声で、清和はするりと否定した。
「ただ、本当に似ていると思って……」
似ている?
「似てるって、誰に?」
「……気にしないでくれ。こっちの話だ」
気にするなといわれて、はいそうですかと引き下がれると思うのだろうか。
どう突っ込むべきか言葉を捜しているうちに、清和はくくくっと笑いを呑み込んで、笑みの残る顔で私を見あげた。そうして、ただじっと探るように、或いは観察するように私を見つめる。
私が腹を立てて、また怒鳴るのを待っているの?
本当に何を考えているのか、大人なのか、気分屋なのか、時々この男は分からなくなる。
迂闊なことをして、墓穴は掘りたくない。こちらだって学習はしているのだ。
奴の腹の底が見えるまではあえて反応しまい、と目をそらすことなくじっと見下ろしていると、ふっと逃げるように清和の視線が私からそれた。部屋の外へと向く。
「ようやく、戻ってきたらしい」
たしかに、簀縁の方からざわざわと人の気配が近づいてきていた。
よく分からないが、人が戻ってきた以上、話はここまでだ。私は『畠山の今かぐや』に、清和は『春の貴公子』へと、それぞれの仮面を被らなければならない。
私は一つ深呼吸をして、袿の裾を裁いた。鎧の側を離れて、元いた場所へと腰を下ろす。
霞を先頭に、茶菓の用意を整えた侍女達が賑々しく部屋に戻ってきた。清和と私は何事もなかったかのように、それぞれの場所でにこやかに微笑み彼女らを迎えた。
霞だけは腑に落ちないようで、何か言いたげな様子ではあったけれど、私はあえてそれを黙殺し、戻ってきた侍女達と一緒になって、清和の髭や他の武将たちのいでたちについて、他愛もない話で盛り上がった。
戦の前にしては、のどかで穏やかなひと時だった。
そうして小半刻ほど経った頃、いつの間にか退がってた泰之を含め、申し訳なさそうに細川の家臣たちが姿を見せたので、私達は清和の部屋を辞すこととなった。
もうこれで、戦が終わるまで清和と面と向かって会うことも、口をきくこともない。
去り際にあっと思い出して、私は鮮やかな所作で手をつき、もっともにこやかな面をつけて清和に囁いた。
「では、ご武運を」
神仏に祈るまでもなく十分に強い男だから、私の台詞はひどく薄っぺらに響いたことだろう。
「沙羅姫……」
きびすを返して戸口に立った私の背に、何か言いたげな清和の声が届いた。
なに? と振り返ると、彼は周囲に戻ってきた家臣たちが気になったのだろうか。紡ぎかけの言葉を呑み込むように、いったん口を閉じた。
「なんなのよ?」
いつもの調子で訊ねると、清和はいつもの貴公子然とした微笑を浮かべて言った。
「いや……その、留守中、しっかり稽古に励むように」
「承知いたしております」
みんなはうっかり聞き逃した様だったが、「留守を守りなさい」ではなく、「稽古に励みなさい」なんていう夫婦の挨拶は、古今あったためしがないだろう。私たちにしか分からない、符牒のようなものだ。
そして、清和の笑顔が優しい夫の笑みではなく、余裕に満ちた敵の笑みであることも、私にしか分からないことだった。
*
その三日後。
東軍総領・細川京兆家の一族郎党が出陣を迎える日。
邸内のあちこちに植えられた藤の花が満開に咲きほこり、そのかぐわしい匂いが祝福を浴びせるように、辺り一帯と門の内外に集う鎧武者たちを包み込んでいた。
清和は例の煌びやかな鎧を身に纏い見事な白馬にまたがると、卯月の麗かな日差しが降り注ぐなかを、颯爽と先陣を切り門をくぐっていった。
屋敷の女は出陣を見送ることは許されていなかったけれど、私は霞たちの目を誤魔化して、すでに勝手知ったる屋敷の抜け道から門を盗み見れる場所に待機し、清和のその晴れやかで華やかな出陣を見届けた。
清和がいなくなるのを確かめて、逃げるためではない。
逃亡ではなく、勝利の末の自らの凱旋の姿に重ねるように、私は彼を見送った。
戦が終わり、勝負のとき———私は必ず勝つ。
だから、戦だというのに、私は不安ではなく希望に満ちていた。
清和の出陣が、希望の出発でもあるように。




