九
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細川邸脱走(未遂)事件の夜から、約一月———。
季節は桜にかわり藤の花が匂う卯月の半ばになっていた。
特に意図したわけではなかったが、近づく戦の支度に誰も彼もがばたばたと慌しく過ごし、その中で私と清和が二人きりになることは、ほとんどなかった。だから、あの夜の話を清和と改めてすることはなかったし、霞ともしていない。
仕上げたばかりの清和の小袖をのろのろとたたんでいる私の隣で、霞はやけにてきぱきと戦装束———大口袴や鎧直垂の最終確認をし、それらを衣装箱に収めていた。
動きを止めることなく、霞がこぼす。
「姫様の悠長さには心底呆れました。以前ならもっと要領よくなされていたものを、度々お指を痛められたり仕立て間違えたり……姫様らしくもないですわ。春の陽気のせいですか? こんな様子が曼殊院さまに知れたら、またどんな嫌味をいわれることやらと、わたくし気が気ではなかったんですよ」
「……曼殊院だって、義父上や清国殿の用意でおおわらわでしょ。こっちのことを気にしてる余裕はないわ」
その証拠に、ここのところは私を呼び出す気配もない。まぁ呼んでも、清和が戦支度で忙しくて曼殊院のところに参上できないって理由もあるんだろうけれど。憎々しい嫁だけが来るぐらいなら、侍女たちとともに義父上や清国殿の準備に邁進していたほうが、曼殊院の存在価値を高めると踏んだのだろう。
「そうであればよろしいですが……あの方のことですから、姫様よりも先に清和様の用意をご準備なされてお届けになっているのでは……」
「そこまで厚かましくはないでしょうよ」
妻がいるのに、戦装束をはじめとする身の回りの物までもを隠居した祖母が用意するのは常識を外れている。いや、あのババアが常識はずれなのは今に始まったことではないが、こと古くからの習慣に関しては堅持する性質に違いないと私は読んでいる。
そう———輿入れ前夜に私が義貴兄様に話した細川家の予想図は、蓋を開けてみれば、ほぼ私が思い描いた通りのものだったのだ。伝統やら習わしやらを大切にし、嫁である私に優位性をとってくる最悪の環境。果ては世代を超えた女の因縁までぶつけられた。
案ずるほどのことはない……なんて、兄上の言うことに何の信憑性もなかった。
「まあ、曼殊院はせいぜい用意して、お守りやらお札でしょうよ。仮にも御出家あそばされているしね。———ていうか、霞ってば最近ちょっと神経質すぎるんじゃない?」
「姫様こそ、最近なにやら隙が多すぎます。間に合わなければ他の侍女たちが用意したものでいい、なんていい加減なことをおっしゃるし……」
「妻が用意したっていう形だけ整えば、中身は問題ないのよ。今どき、真正直に一から用意している奥方なんて、ほとんどいないわよ? わざわざ私が針と糸使わなくてもさぁ……」
「また、そんなことを。とにかく、約束の刻限に間に合って、ほっといたしました」
たたみ上げた白絹の小袖を受け取って、霞はそれを丁重に箱の一番上に収めた。
私は小さく肩をすくめて、まめまめしく働く霞の様子を見つめる。
霞に関していえば、私は少し彼女に負い目を感じているくらいだった。
事件当夜はともかく、その後落ち着いて考えれば、あの夜の一件がどういうものであったか、霞にだって分かるはずだ。
あの常識的な清和が夜中の遠乗りなど言い出すはずもないし、状況的にも私が一人で逃亡を図ったことは、長年私に仕える霞ならば容易に想像が出来ただろう。だが、霞はあの夜のことについては何一つ訊かないし、話題に出すこともなかった。
清和と違っていつも側近くにいるのだから、訊ねるのはたやすいことだ。それでも一向にそうしないところをみると、意図的に避けているようだった。私のためか、それとも清和の気遣いを酌んでか……。
霞の出方を窺っているうちに、私から話しだす機会も逸してしまい、そうこうしているうちに戦況は深刻化し、あれよあれよという間に出陣を三日後に控えた今日を迎えてしまったのだった。
細川家を中心とする東軍は、三日後に京を発つ。想定される戦場は丹波。そこで山名・大内の両軍を迎え撃つことになりそうだった。
「姫様、さっ、ご自分のお支度をしてくださいまし。もう先触れを出しましたから、ととのい次第、清和様のところへ参りますよ」
「はぁい」
おとなしく霞の指示に従って、私は鏡台へと移動する。
古からの慣わしで、出陣の三日前から、女性は戦に出る男たちには近づいてはいけないことになっていた。
精進潔斎? 女は不浄? はー、ほんと馬鹿げてるわー。
戦場で遊女と遊んだり、乱捕りの挙句、女たちに乱暴したりする武士たちがいることを、私は聞き知っている。そうしたことが暗黙の了解となっているくせに、出陣前に妻が夫に近寄れないなんて、くだらない習慣としか言いようがない。
でも……。
そう思っていても、もしその慣わしを破って万一のことがあってはと思うと、倣うしかない。結局、私も曼殊院と同じ古い人間だったということか。
手早く化粧を直して最後に紅をさし、私は霞が用意した菖蒲の襲の袿に袖を通した。
今日はこれから清和に戦装束などを渡しに行く。そしてそれが、出陣前に会う最後の機会になるということだ。
衣装箱を恭しく抱えた霞と、荷物を運ぶ侍女二人を引き連れて、私は自室から主殿の西側にある清和の私室へと向かった。
新・細川邸に入ってからかれこれ二月近くになるが、清和の私室に足を運ぶのはこれが初めてだった。
*
屋敷全体が出陣前のざわざわとした喧騒に満ちているなか、主殿の一角に離れのようにしつらえられた清和の部屋の周辺だけは、やけに静謐だった。
簀縁から見える清和の部屋は、内部に畳が敷き詰められた、最近流行の書院造になっているらしい。明障子を通して日の光が部屋を明るく照らし、二間続きなのか襖を開け放した隣の部屋にも畳の床が見えていた。書斎と私室には程よい広さの部屋だった。調度類は必要最低限だが、趣味のよいものでそろえられており、付書院の前に鎮座する煌びやかな鎧具足がなければ、風雅な貴族の部屋にしか見えなかったろう。
なんか、悪くないじゃない。明るくスッキリしてるし。ていうか、私の部屋もこういう風に誂え直してもらおうかなー。
興味津々に覗き込む私の姿に気づいたのか、それまで部屋の奥で図面を広げて家臣と話しこんでいた清和が顔を上げた。
その姿を見て、私は内心、へえっ……と声を上げる。
なるほどね……そういうことか。
戦場での清和は大将格———それも、東軍総領たる細川軍の一翼を担う立場に置かれる。とはいえ、ずいぶん年若い。それを補い、武将らしく威厳を持たせるためか、清和はいつのまにか口髭と顎髭を蓄えていた。
時々、顔を合わせるとき、清和にしては伸びてるなぁ……忙しさゆえの無精か? と思っていたけれど、この一月の間に計画的に伸ばしていたらしい。明るい処でちゃんと見るのは、今日が初めてだった。
端麗な容姿はもちろんそのままなのだが、随分と印象が変わる。落ち着いた、大人の男に見えるから不思議だ。別の場所で会っていれば、すぐには清和だと気づけないかもしれない。
戸口に立ったまま清和を見つめていると、家臣たちも私の存在に気づいて、慌てたようにその場を片付け始めた。清和の腹心である和気泰之という家臣一人を残して、それ以外の家臣たちは私への挨拶もそこそこに、気を利かせてあっという間に部屋を出て行った。
なにかしら小声で泰之とやりとりをした後、泰之を部屋の隅に控えさせて、清和は私たちを部屋に招きいれた。
「先触れが来ていたのに、つい彼らと話し込んでしまった」
待たせして申し訳ない、と詫びながら、清和は本来の自分の定位置である上座へと移動した。霞を伴い下座に腰をすえると、私は挨拶も抜きに訊いた。
「……忙しいの?」
「まぁ……。出陣の前に、すべきことは色々とある」
「ふぅん……」
「豪奢な鎧兜を身にまとって、本陣の幕の内側で人形のように座っているだけ……とでも思っていたか?」
内容はともかくも、口調がどこか自嘲的だったので、私は言い返すことはせず、ただ肩をすくめて見せた。
清和の強さは、実際に刀を交えているので理解している。だが実力とは別に、跡取りである以上は前線で斬り合うような、危険な状況におかれることは少ないだろう……とぼんやり想像もしていた。
清和もその辺は分かっているようで、補足のように付け足した。
「戦場での働きはその場になってみなければ分からないものだ。……が、少なくとも私は指揮をとる身だ。兵たちの命を粗末するような戦は出来るだけ避けたいからな。今から出来ること……敵軍の分析程度はしておくさ」
口元だけで笑ったようで、左の口髭が微妙に上がった。
なんだかなぁ……。
私は口を開きかけて、やっぱりやめた。面と向かっての対面が久しぶりだから、というわけではないと思うのだが、どこか調子を乱される。こういう場で猫を被っているのはいつものことだし……普段と違う、髭のせいか……?
清和の髭は似合わなくはないのだが、どうにもしっくりこない。平和な日常を離れ、これから戦に行くという、目に見える形での重圧を感じるから? ……なんか、違うな。もっと単純な理由だな。
そう。私の好みか、そうでないか、だ。
早く戦が終わって、その髭を綺麗さっぱり落として欲しいわー。
その上で、いつものように渡り合おうじゃないか。
「んんっ。……ゴホッゴホッ」
私が無言のままでいたものだから、霞がわざとらしく咳払いをして、本日の用件を告げるべく催促をしてきた。
私は清和の髭から視線をそらし、挨拶と出陣の無事を祈る旨の口上を形式どおり口にした。
そして、侍女に運ばせた衣装箱を含め、出来立てほやほやの戦装束を清和に渡す。
清和は下がる侍女達に茶菓を持ってくるよう指示をして、受け取った衣装の確認を始めた。私はいちいち説明するのが面倒で、侍女が下がっているのをいいことに、霞に説明を任せると、その間に清和の部屋の中を勝手に詮索することにした。隅に控えていた泰之は清和に呼ばれて、霞の説明を一緒に聞かされている。
誰に気兼ねすることもなく隅々まで部屋を見て回れる状況だが、いっても入口から見たとおり、無駄のない部屋だ。そうじっくりと夢中になるようなものはない。足は自然と付書院の前に据えられた鎧装束に向かった。
朱色と黒を基調にした豪華で美しい鎧だ。近くで観るとよく分かるが、細部に至るまで練り絹やら金糸銀糸やらと高価な素材を用いている。兜飾りは細川京兆家の松笠菱を模った意匠になっていて、なかなか渋い。左脇に下げられた兵具鎖の太刀も、その鞘からして見事な細工で、私はしばし見とれてしまう。
ほぅと溜息を一つついて視線を落とすと、すぐ側に据えられた刀立てに目がとまった。鎧に装備すべき腰刀などが掛けられている。その中には、あの春雷の夜に私と打ち合った黒漆の太刀も含まれていた。
束の間、逡巡したが、私はその黒漆の太刀を手に取り鞘を観察した。一月の間に修理をさせたのか、表を見ても裏を見ても私の腰刀を受け止めた刀傷は跡形もなく消されていた。———まるで、最初から何事もなかったかのように。




