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言質(げんち)をとったわよ。———その約束、忘れないでね」


 どれだけ愉しくとも、充実してようとも、いずれ勝負というものには決着がつく。このままの状況で勝負を続けても、私が勝つ見込みは限りなく低い。

 どのような条件下で再度勝負するかは不明だが、冷静に判断すれば、可能性がある分、このままの分の悪さよりはマシだろう。


 呼吸を整える私の様子を黙って見ていた清和は、やがて太刀を一振りすると、慣れた手つきで鞘へと収めた。そうして、天を仰ぐと早口で言った。


「とりあえず、今夜のことは不問にする。急いで屋敷に戻るぞ」


 私の返事も待たず、清和は馬首をめぐらせるや、細川邸へと向かい馬を走らせた。私もあわてて刀を収めると、後を追う。そのころにはポツリポツリと雨が降り出していた。

 月明かりも松明の明かりもない状態で、おまけに雨はあっという間に土砂降りになった。

 大粒の雨が、激しく体を打ちつける。近づいてくる雷が、時折、視界全体を真っ白に染めて、疾走する清和と私の陰影(コントラスト)を浮き彫りにした。


 私はろくに前も見えず、清和の馬の後を追うだけで精一杯だった。

 あとで思えば、清和の目をくらませて逃げるには絶好の機会だったのに、このときの私にはそんな狡猾な考えはまったく思い浮かんでなかった。

 ただ見失っては大変だと、清和の背中だけを見つめていた。奴の背中についていけば大丈夫だ、という不思議な安心感を<信頼>という言葉に当てはめたのは、もう少し時が経ってから、だったか………。


       *


 激しくなる雷雨の中、なんとか屋敷に帰り着いたのは、牛の刻も半分回った頃だった。

 若夫婦揃っての真夜中の外出だけでもありえないのに、全身ずぶ濡れでの帰還という異様な有様に、門番たちが唖然とするのは、まあ仕方のないことだった。

 理由を問いただしたげな門番達に、清和は余計なことは何一つ口にせず、ただ私たちの外出をきつく口止めして、さっさと邸内へと入り込んだ。


 雷鳴のおかげで、多少の物音では厩番は出てきそうにはない。私達は手早く馬を繋ぐと、誰にも気づかれることなく西の対屋へと戻った。

 馬に乗っている間はともかく、濡れた衣装は次第に体温を奪いはじめ、部屋にたどり着く頃には私はカチカチと歯を鳴らせていた。一刻も早く、乾いた暖かい衣装に着替えたい。

 ところが、清和は妻戸の前まで来るとぴたりと足を止めた。


「……何なのよ、早く開けてよ」


 私がその背中にひそひそと声をかけると、清和は顔だけをこちらに向けて、低い声をさらに低くして訊ねてきた。


「お前、明かりをつけたままにして出たのか?」


 そんな訳がない。普段から火の始末には気をつけている。今夜もきっちり吹き消して出たはずだ。

 黙って頭を振ると、清和はほんのわずかに妻戸を押し開けた。細く弱々しい光の筋が私たちの立つ簀縁(すのこえん)に伸びてくる。


「……⁉︎」


 消したはずの明かりがついている、ということは……。

 部屋の中に、誰かいるの⁉︎


 私は清和を押しのけて、ぎいっと妻戸を大きく開けた。

 部屋の奥——寝所としている几帳の陰で、小さく打ち震える人影がある。


「そこにいるの、誰なの?」


 声をかけると几帳に映った影が、がばりと身を起こした。


「姫様っ⁉︎」


 かすれた声を上げて、几帳から飛び出してきたのは霞だった。


 なによ、霞じゃない……。


 怪しい者ではないと分かりほっとする私に駆け寄るや、霞は「わあぁぁ」と泣き崩れた。


「な、何? 何なの? どうしたの?」


 驚く私に、霞は嗚咽交じりの声で、切れ切れに訴えた。


「に、俄かの嵐で……かみ、雷が、あまりに激しいのでっ、姫様お一人で大丈夫かと、様子を……見に、見に来てみればっ、寝所は、もぬけの殻で……」


 それで、どうしていいのか分からず、泣いていたというわけね。

 やれやれと嘆息する私を見上げて、霞は弱々しく笑う。


「ご無事でよかった! 姫様に何かあったら、わたくしどう責任を取ってよいか……」


 大丈夫よ、と言って抱きしめてやろうとした矢先、霞は私の度肝を抜くようなことを言ってのけた。


「———わたくし、自害も覚悟しておりました」


 ぎょっとして視線を几帳にやると、その裾には錦袋から飛び出した守刀が転がっていた。


「霞………」


 私は絶句して立ち尽くす。脳裏には、都大路での清和とのやり取りが蘇る。

 ———『お前一人の無責任な行動で、霞はどうなる? 畠山は?』

 ———『私を陥れた臣下や実家など、どうなろうと知ったことじゃないわ』

 そう、私は自分のことしか考えていなかった。残された者がどうなるかなんて、真剣に想像していなかった。

 霞はお付の侍女として、その監督不行き届きを責められるだろう……程度のことは考えたが、まさか、責任を感じて自害するなんて……。

 もし、あのまま清和とすれ違うことなく白川まで逃げ切っていれば、霞は今宵ここで一人命を絶っていたというの……?


 それを想像して、私は濡れて重くなった直垂の前身頃をぎゅっと握りしめた。まるで溢れ出る流血のように、染み込んだ雨水が指の間を伝って滴り落ちた。

 霞にかける言葉も今は見つけられない。胸が締めつけられて、身動きもできない。


「よかった……ご無事で、本当によかった………」


 泣き笑いで繰り返す霞に、それまで黙って私たちの様子を見ていたらしい清和が動いた。

 霞の傍らに跪いて、そっと彼女の上体を起こしてやる。

 そうして彼は、私の知らない優しい声で、染み入るように言った。


「心配をかけて、すまなかった」


 私は驚愕に目を見開く。


 なんで⁉︎ なんで、あんたが謝るのよ!


 だが、清和は私に発言の隙を与えまいとするかのように、ぺらぺらと勝手なことを口にする。


「今宵は月も明るく穏やかだったから、夜中にこっそり遠乗りに行こうと沙羅姫を誘ったのは私なんだ。昼間は私もいろいろ慌しく、また屋敷の者や曼殊院様の目もある。姫が馬に乗るのをおそらく、彼らは歓迎すまい」

「……はい、たしかに」

「お前には知らせておこうかと思ったが、そのことでいらぬ心配をさせて眠りを妨げても悪いと思ってね。ここは黙って出かけることにした。沙羅姫には、いつもどおり振る舞うよう私が言い含めておいたんだ」

「そう……だったのですか」

「おかげで、満開の夜桜を楽しむことができた。その帰り、まさかこんな嵐になるとは思わなかったが……」


 霞は清和の話に驚いてはいたが、それを疑う様子は微塵もなかった。徐々に落ち着きを取り戻し、真面目な顔で相槌を打っている。

 腹芸云々といっていたが、たしかに清和はそれがお得意のようだ。

 現実と乖離する内容はともかく、彼の説明で事態が収束に向かったのは確かだった。


「わたくし、取り乱したりして、本当に申し訳ありません」


 霞は目尻に残っていた涙を恥ずかしそうに拭うと、私を見上げ、それから清和に向き直り、改めて頭を下げた。

 清和はちらりと上目で私を見て、私が口を開く気配がないのを見て取ると、


「もういいから、まずは乾いた衣を用意してもらえないか」


 と霞に命じて、彼女を部屋から追い出した。

 霞がいそいそと部屋を出て行くその後ろ姿を見送ってなお、私は立ちつくしたままだった。

 ややして、冷え切った身体がぶるっと震え、私は現実に立ち戻るように視線を清和に戻した。

 彼はいつの間にか部屋の奥へ進んでいた。几帳をいくつか動かして、いつもより目隠しを多くすると、私に振り返る。


「……なんて顔をしてる。唇が、真っ蒼だぞ」


 霞にかけたのとは全く違う、いつもの冷え冷えとした口調でそういって、こっちで着替えろと顎をしゃくった。

 私は大人しく、とぼとぼとそちらへと向かった。

 清和は多くを語りはしなかった。ただ一言、


「わかったか」


 とだけ、すれ違いざまに言って、部屋の入口近くで濡れた直垂の片袖を脱いだ。


「…………」


 厭になるくらい、わかった———という一言を、発することなく呑み込んだ。口を開くと、何故か泣いてしまいそうで、声に出しては言えなかった。

 不貞腐れたように黙ったまま、几帳の陰にしゃがみこんで、私は自分の浅はかさを悔やむ。

 かつて、曼殊院のところに清和が乗り込んできて、協定を言い出したあの時と同様に、彼の言うことは正しい。そして、その主張の正しさは、彼の行動によっても示されている。

 悔しいが、清和を認めないわけにはいかない。

 それくらいの、矜持(プライド)は私にも残されていた。 


 やがて霞が乾いた布や小袖を用意して部屋へと戻ってきて、清和や私の着替えを手伝った。

 絹の小袖はしっとりと暖かく、私の心の凍てつきまでもを溶かしていくようだった。人心地ついて、私はようやく霞に声をかけることができた。


「霞……ごめんね」


 小さな声でそれだけ言うと、霞は照れたようににっこりと笑んで見せた。

 清和の夜具の仕度を終えると、霞は手短に挨拶をして、私たちの部屋を去って言った。その頃には、激しかった雷鳴もおさまり、雨も幾分小降りになりつつあった。

 清和は無言のまま、いつものように自分の夜具を持ち上げて、几帳で仕切られた奥の間へと運んでいく。


 燭台の火が消されたあと、暗闇に包まれた部屋の中では、これまたいつものように沈黙が広がっていた。ささやかな雨音だけが、耳に届く。

 清和がもう眠っているのか、いないのか、私には分からない。

 いつもならそんなことは、気にもならない。

 だが、今夜はなぜか清和が気になって仕方なかった。

 彼に謝るつもりなんてないし、礼を言うつもりもさらさらない。それ以前に、言葉をかけるつもりもない。否、いまは話などできない。

 私はごろんと寝返りを打って、清和に聞こえないよう静かに息を吐き出した。


 このもやもやは、なんだっていうの?


 奥の几帳を見つめながら、寝つけぬ夜を苦々しく思う。

 それでも身体の疲れは、いつしか私をまどろみへと誘う。夜が明ける前には、深い眠りの淵へと落ちていた。

 そして翌朝———。

 私が目覚めた時には、すでに部屋の中に清和の姿はなかった。身仕度を終えて、さっさと表へ戻った後だった。


 私は身体を起こしかけて、それから思い直して、再び夜具の中にもぐりこんだ。

 寝ても覚めても清和のことを気にするなんて、なんだか癪に障る。

 霞が起こしにこないのをいいことに、その日、私は昼近くまで惰眠をむさぼった。

 再び目が覚めたときには、すっかりお腹がすいていて、いつもの私に戻れていた。……と思う。



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