六
私は幾分冷静さを取り戻して、清和に対峙する。
「あんただって、私と一生楽しく夫婦ごっこをするつもりはないんでしょ。愛人も抱えているようだし」
「愛人……? 何の話だ?」
とぼける清和に、私は物分かりのよい笑顔で理解を示してやる。
「別に隠さなくてもいいのよ。跡取りの問題もあるし、いずれ屋敷に迎えたらいいじゃない」
そう、私は清和とその愛人になど興味ないのだ。
大切なのは——私の人生だ。そこに、この男の入り込む余地はない。
「沙羅、お前は……」
「いいわよね、あんたは。そんな風に自由に振舞えてさ。でも、私はそうはいかないのよ。一生、細川の屋敷に縛り付けられて、細川清和の正室として曼殊院やら実家やらの要望に応え続けるなんて、まさに蛇の生殺しみたいで……冗談じゃない! 私だって、私の生きたいように、自由に生きるの!」
「偉そうなことを言うわりに、相変わらず自分の立場が分かっていないようだな」
清和は久しく見せていなかった好戦的な眼で、馬上から私をみおろした。
「お前一人の無責任な行動で、霞はどうなる? 畠山は?」
「もとより私を陥れた臣下や実家など、どうなろうと知ったことじゃないわ」
「その臣下や実家のおかげで、今日のお前は存在しているんだぞ。お前が畠山の姫として、なに不自由なく贅沢に育てられたのは、いずれ領地の平和や安寧を保障する重責を果たすためだ。お前一人を好き勝手に生かすためじゃない。そんなことも理解できていないのなら、お前に自由云々をいう資格はない。自由をと望むのならば、畠山の領民たちに相応のものを返してからにしろ!」
初夜の言い争いと同じ———清和の言うことは、正論だった。高貴な生まれの者にはそれ相応の義務が付随する。だが、それを認めてしまっては、私の存在価値は……この世に生きる意味は、見いだせなくなる。
「姫であることも、贅沢な生活も、私が望んだものではないわ! 勝手に与えられたものよ。その引き換えが和睦の道具となることだというのなら、私は最初からそんな取引には応じなかったわ。私の意志とは関係なく、父上やあんたたちの都合だけが通るなんて、どう考えても公平じゃないわ」
「その考え方自体が、すでにおかしいというんだ」
「育てていただいたご恩のために、残りの人生すべてを犠牲にしろというの? 私はそのために生まれたの? そんなの、ただの木偶じゃない! 生きてる意味がないわ。それなら……」
私は右手を、腰に差していた腰刀の柄においた。
清和の冷ややかな瞳が、ゆっくりと私の右手を追う。
「それなら?」
「ここであんたと刺し違えて、死んだほうがよっぽどマシよ!」
叫びざまに、一気に刀を抜き放った。
半分は啖呵、でも半分は本気だった。清和と剣を交えてでも、私は逃げるつもりだ。
「本当に、馬鹿な女だ………」
かつて狩場で口にしたのと同じ台詞で、清和は応じた。
今夜の清和は、最初から仮面をかぶっていない。私の知っている、あの皮肉な『氷の貴公子』だ。だが、私としても、下手な腹の探り合いがない分、よっぽどやりやすかった。
互いに騎馬のままで、じりじりと微妙な距離を測る。
畠山で手にしていた太刀の半分ほどの長さしかない腰刀は、間合いを詰めるにはいささか心許なかった。だが、贅沢はいえない。これで乗り切るしかない。
先手必勝!と、私は刀を握る手に力を込め、馬の腹を蹴った。清和めがけ刀を突き出す。
刺し違えても、とはいっても実際に清和を殺そうとは思っていない。奴がひるんだ隙に逃げるだけの機会を得られればいい。
清和はとっさに、左手に握っていた松明で腰刀を受け流した。細かい火花が両者の間に降り注ぐ。
腕を伸ばせば切っ先が届くほどの位置で、私たちは睨み合った。
清和は私の攻撃をただの牽制と受け取っているのか、自分の太刀を抜く気配を見せない。
或いは……狩場でも見せていた、あのあふれる自信は本物ではなかったのか……。
屋敷の中で、霞が愛人の噂を聞きつけてきた様に、私も清和に関する噂をいくつか拾っていた。もっぱら脱出の下調べの最中に家臣の侍たちが話していたことだが……。
———清和様は武将としての器量はいまいちだ。故に実際の戦ではお館様は清和様を戦陣には立たせたがらないのだ……とそんな話があった。
噂を鵜呑みにするほど愚かではないが、私自身この男が立ち回るのを見たわけでもない。
ぺろりと唇をなめて、私は手にした刀の柄を握る手に再びぎゅっと力を入れた。
お手並み拝見といこう。
馬を斜交いに寄せつつ、私は立て続けに松明めがけ切っ先を繰り出した。
しかし、右から、斜めから、正面からと次々に繰り出す切っ先を、清和は依然、太刀に手を伸ばすことなく、器用に避け続ける。攻撃の速度を変えても、松明に届く寸前に避けられるか、あるいは受け流された。
だが、黒い愛馬がその目先で絶え間なく揺れる松明に怯えを見せた刹那に隙が出来た。私はその好機を逃すことなく、燃え盛る炎に狙いを定め斬りかかる。
闇を切り裂いて松明の火が宙に飛んだ。あたりを火の粉が激しく舞う。
その火の粉を更に切り裂くように、私は返す刀を振り切った。刀の先には清和の右半身があるはずだった。——が、清和はすでに上体を後方に反らせて、その刀身をやり過ごしていた。均衡を崩すことなく、元の体勢に戻った清和のその手は、腰の太刀にかけられていた。
抜かせるか! と私は大きく振りかざした右腕を一気に打ち下ろす。
私の刀が空を切る音とは別に、びゅんっと夜よりも深い闇が私の鼻先を駆ける気配がした。そして———
打ち下ろした刀はガガガッという予想外の鈍い衝撃に跳ね返された。真剣が打ち合う感触ではない。
青白い月光に照らされた刀身の先を見ると、この期に及んで呆れたことに清和は抜刀することなく、その鞘入りの太刀で私の腰刀を受け止めていた。
「……どういうつもりよ。あんた、私を舐めてるの」
「馬鹿女を相手に剣を抜くなど、片腹痛い」
挑発めいた言葉が、私をかっと熱くさせる。
両脚に力を入れて馬の腹をしっかりと抱きこむと、左手で握っていた手綱を手放す。かわりに、その手を腰刀の柄に添えた。脇をしめ、全体重を集約する勢いで、ぎりぎりと刀身を清和に向かい押し出す。それでもなお清和は抜刀することなく、鞘越しに鋭い視線だけで応じた。
黒漆の鞘にじりじりと深い傷が穿たれるのを感じつつ、私も視線は清和の鋭い眼から逸らさない。
睨み合うこと数秒。
不意に清和の視線が左にそれた。
それが奴の戦略だと理性は警鐘を鳴らしたが、本能的な反応に私は負けた。つられるように私の視線も一瞬それた。同時に刀にかけていた力も、僅かばかりではあるが散らされる。その隙を縫うように、清和は太刀の鞘から刀身を抜き放っていた。
闇から光が生まれたような一閃。
それは刹那———にもかかわらず、瞬きを繰り返してみる光景のようだった。冴え冴えとした刀身が視界の端をゆっくりと過ぎっていく。
そして、その先で光は濁った闇を叩きおとした。
バシュッ…バシッ……!
「———っ!?」
音もなく抜かれた清和の刀は、ひゅんひゅんと音をたてて、立て続けに飛来した矢を、地面に叩き落していた。
私はとっさに刀を引き、周囲の暗闇に視線を走らせる。
なんて、ことだろう。
清和の背後に三つ、私の背後に二つ——合わせて五つの人影があった。月明かりに浮かび上がる姿は男——でも、検非違使などの役人ではない。荒れた風体から、彼らが都を荒らす賊であることは容易に知れた。
清和とのやりとりに集中しすぎて、前後から囲まれるまで気づかなかったなんて……。
自分の不覚さに思わず舌打ちしたが、後の祭りだ。前門の清和、後門の野盗……本当に、笑えないわ。
争いを中断した私と清和に向かい、野盗たちは様子見のためか、距離を保ったままさらに数本の矢を射掛けてきた。
「……落とせるか?」
背後の野盗三人へと体ごと対峙して、清和は声だけを私に投じた。
間髪をおかず飛び込んできた二本の矢を頭上で叩き落して、私は「当たり前でしょ」と早口で応じる。
「あんたこそ、大丈夫なの? 不安だったら私の後ろに隠れていなさいよ」
「面白くない冗談だ」
互いに背を預ける形で、飛来する矢を叩き落す。
それぞれが十本からの矢を落としただろうか。矢が尽きたのか、飛び道具では意味がないと悟ったのか、野盗の攻撃がやんだ。かわりにじりじりと距離を詰めはじめる。
私に近づく二人の相好も徐々にはっきりとしてきた。一人は中年の男。もう一人は、私よりも年下ではないかと思われる少年だった。どちらも共通するのは薄汚れて荒れた肌と濃い隈のできた眼。その眼が私を捉えて、大きく見開かれた。つぎの一瞬には下品な光を宿して、細められる。
「お頭ぁ! こいつは驚いたぜぇ‼︎」
中年の男が、清和の側にいる首領らしい男に早速、報告する。
「どうした!」
「こっちの奴は、女ですよ。しかも、こんな女がこの世にいるなんてなあ!……これまでお目にかかったこともない上玉です!」
「そいつは、でかした。傷つけんじゃねえぞ! 生け捕りにするんだ‼︎」
兎や雀じゃあるまいし、私を無傷で生け捕りって……馬鹿か、こいつら。
「やれるものなら、やってみたら?」
哀れみに近い呟きは、果たして二人の男に届いたのか……。
まず、少年が手にした長槍を何の捻りもなく素直に突き出してきた。私は右に上体を傾けて、それをひょいと避け、少年が引き戻すまえに伸びたその柄を左脇に挟み込み、体ごとひねるように引く。と同時に、右手に握っていた腰刀を少年に向けて突き出した。少年はわっと驚いて槍を放し、尻餅をつく。
急場しのぎだが、短い腰刀よりはこの槍のほうが有利と判断して、私は手にしていた腰刀を素早く鞘に戻した。そうして左手の槍をびゅんと頭上で回転させて右手に持ち直すと、あわてて向かってきた中年の男の長槍を撥ねた。ついでに、そのまま反動を使って男の喉もとの空を斬った。その牽制に男は凍りつき、かろうじて数歩、後退する。
先輩の危機を救おうとしたのか、はたまた若気の至りか蛮勇か、少年が立ち上がり腰にさしていた刀を抜こうとした。だが、私の槍の動きのほうが圧倒的に早く、少年の右腕は刀を抜くよりも前に私の突き出した槍の剣先に一突きにされていた。
得物が肉を貫くなんともいえない感触が、指先からぞわりと伝わってくる。
人を傷つけるのはこれが初めてではない。———正確に言うなら、傷つけるどころか私はこれまでに人を殺めたことがある。かつて、まだこの京に畠山の一族が住まっていた頃、夜中に押し入ってきた賊から身を守るために、十を過ぎたばかりの幼ない私は無我夢中で刀を振り回した。その時分はまだ本格的に剣術の稽古をしていたわけでもなく、賊を弑せたのは僥倖ともいえるし、程度がわからなかったからの蛮行ともいえる。いずれにせよ、いざとなれば自分の身は自分で守らなければならないと思い知らされた一件だった。そして、正当防衛とはいえ、人の命を絶つ後味の悪さも思い知らされた。
十分に剣の腕を磨き、命の重さも理解できるくらいに成長した今だからこそ、無闇に人を殺めたくはない。
「ぎゃあっ!」と声をあげて右腕をかばうように蹲った少年を見下ろす私の耳に、背後から清和の低く底冷えする声が届く。




