三
弓懸から矢を番えた弦が離れる、既のところで狙いを右に逸らせた。
が、放たれた矢は、ほぼまっすぐに茂みの中の黒い陰へと飛び込んだ。
直後、耳に届いたのは、
ヒヒィィーン
熊の怒り狂う叫びではない。
咄嗟に判じた通り、それは高く響く興奮した馬の嘶きだった。
「っ!!」
私は大きく目を見開き、暴れながら飛び出してくる漆黒の馬を———正確には、それとその背に跨っていた貴公子然とした男を見つめた。
熊じゃなくて、馬?
しかも、野性馬ではなく、人が騎乗をしているなんて……。
だけど、どうしてこんな山の中に人馬が……。
混乱にさらに目を大きくする私を、馬上の男は一瞬忌々しそうに見た。
それから魔術のような手綱さばきで、興奮する馬を鎮めた。
「どう、どう。……大丈夫だ、黒帝。もう、大丈夫だ」
透き通った低い声は、馬に対する愛情を多分に含んでいた。
その愛情が効いたのか、鼻息も荒かった馬は、やがて生来そうであるようにおとなしくなると、しきりに馬上の男へと鼻を押しつけようとした。
「痛むんだな。よしよし、もう少し我慢してくれ」
男は年のころ、私より二つ三つ上だろうか。
同じ馬上にいながら私を悠々と見下ろすだけの上背と、男らしい広い肩を持っていた。
額にはらりとかかった前髪の下には、凛々しい眉と切れ長の涼しげな瞳がのぞいている。
その目元からは、一見しただけで強気な性格がうかがえた。
しかし同時に、通った鼻筋と微笑んでいるように見える口元がそれを隠すだけの唯美さをも漂わせている。
美丈夫で名高い兄上たちを見慣れている私ですら、しばし見とれるほど端正な顔立ちの男だった。
まとわりつく私と鷹丸の視線を振り払うように、男はふわりと地に下り立った。
流麗で無駄のない、それでいて気品あふれる動作だった。
が、その立ち居振舞いとはうってかわった鋭い目で、彼はキッと私たち二人を睨んだ。
「どういうつもりだったかは知らん。だが、人の乗っている馬に矢を射ったのだ。責任は取ってもらうぞ」
「……うっ」
愛馬にかけたのと同じ声とは思えぬほど、冷ややかで強気な物言いに、一瞬、私はひるむ。
だが、ここで素直に謝っては、何をふっかけられるか分かったものではない。
見かけは貴公子だが、この調子では中身は別物と見た方が良さそうだ。
それに、こっちばかりが悪いわけではないはずだ。
私は馬の背に跨ったまま、フンっとそっぽを向いた。
「人気のない山の中から突然出てくる方も、どうかと思うわよ。この季節、冬眠から目覚めた獣達が腹を空かせてうろついているのは当然、知っているでしょう」
ハラハラしている鷹丸の様子が視界の端に映ったが、私はかまわず続けた。
「すぐ近くの茂みから、突然何かが出てくる気配がすれば、すわ熊か…!? って射かけられても当然じゃなくて? 咄嗟の判断で狙いを外してあげたのよ。人馬ともに命があっただけでも、ありがたいと思いなさいよ」
対して男は、なんとも人を小馬鹿にしたように鼻の先で笑った。
「さほどに熊に怯えるのならば、射る前に逃げればよかろう。……一体、何様のつもりだ? それごときの度胸と腕しか持たないのなら、狩なんてやめておくことだな」
「な……んですって!?」
カッと頭に血が上るのを、久々に経験した。
畠山の血筋のせいか、それとも環境のせいか、私は良くも悪くも自尊心高く育った。
その自尊心をこの男は軽く踏み躙ってくれたのだ。
しかも歯ぎしりしたくなるのは、自信たっぷりに応えるその姿が、見栄やその類のものではないと明白に分かることだ。
おまけに、この男の云う事はど正論だった。
余計に腹が立つ!
「貴…様……!」
低く唸った私に、男は冷めた目だけを向けた。
物怖じしない態度といい、只者とは思えない。
今更ながらに、何者なのだろう?という疑問が浮かんだ。
東軍のどこぞの家臣、あるいはこのあたりの国人だろうか。
供もつけずに単身でうろうろしているところを見ると、大した身分のものではないようだ。
でも、それではこの気品と自信に満ち満ちた態度はなんなのだ。
金剛峯寺の高僧の身内とか義経をきどった訳ありの御曹司とか?
だとしても……。
私を凌駕する出自はありえない。
ならば、私の身分を明かしてその場にひれ伏させてやろうか、という短絡的な思考が脳裏をよぎった——が、危ない、危ない。
そんなことをしたら、反対にこちらの身が危うくならないとも限らないのだ。
どうやら私は、本当に頭にきているらしい。
強くこぶしを握ったまま、理性が離れてしまわないよう自分を叱りつけた。
この狩り場は、都から飛び火した東軍と西軍の対立地の一つとなっている大和の国との国境に近い。
普段ならば私が訪れるような場所ではない。
今回は、たまたま父上にくっついて物見遊山の気分で国境の出城まで来て、さらにそのついでに足を伸ばした場所だ。
つまり、領内とはいえ、完全に見知らぬ地域。
事前に耳にした情報では、河内の方へ抜ける街道にも近く、また高野山や吉野の入り口にもなっている場所柄ゆえに、もともと地縁のない者が行き来していても何ら不思議はない。
この男が味方である東軍の人間ならば、さして問題にはならないだろう。
だが、西軍の人間となると事情が変わる。
見たところ一人だが、少し離れた場所に数人の仲間がいたとしてもおかしくはない。
私の身元を知ったなら、その者達と合流して私を拐かす……などということも大いにあり得る。
三つ呼吸をする間に頭を全力回転させた私は、ふぅっと小さく息をつくと拳を緩めた。
「……いいわ。確かに矢を射ったのは私だから、責任はとりましょう。だけど! そちらにも非があることは認めなさいよ‼︎ それから、何者か名を明かしなさい!」
これは、譲歩できうるギリギリの線だった。
まず、この男が危険な存在なのか否かを推しはかる簡単な方法は正体を知ることだ。
名が知れれば、敵か味方かくらいは判断がつく。
その上で、私が責任をとってやるべき相手なのだとしたら、相応のことをするまで。
ただし、いずれにしても今この場での対応は無理だ。
馬の治療薬や幾ばくかの金品を要求されたとしても、いま私の手元にはそれらのものは何一つない。
したがって、要求されたものを与えるには、いったん国境の出城に帰ってそれらのものを持ち出すか、届けさせるしか方法がなかった。
そうしないことには私の身元がばれる上に、下手をすると父上達にもこの争いを知られてしまうことになる。
もしそうなったら、あの義母上が黙ってはいまい。
せっかく解禁されたところに、狩の全面禁止は厳しい……。
単純に、物の損得を天秤にかけてみれば、この男の言った腕云々などはどうでもよくなった。
とりあえず私と鷹丸の安全を確保し、なおかつ家に秘密にしておけるのなら、それが最善だ。
男はしばらくのあいだ綺麗な石灯籠のように口を閉ざしていたが、私の苛々が頂点に達する寸前でやっとその口を開いた。
しかし、その口から漏れ出た言葉は———
「非も認めんし、名も明かさん。否、明かす必要はあるまい」