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       *

 

 そうして、愛人の噂話もすっかり忘れてしまった数日後————ちょうど細川へ輿入れしてからひと月余りが過ぎたこの時節(タイミング)で、ついに、私が密かに暖めてきた計画を決行に移す夜がきた。

 十六夜(いざよい)月……ほぼ満月に近い、月明かりの明るい夜。

 新・細川邸は弥生に入ってから、いよいよ近づいてきた戦支度のせいもあって昼夜を問わず人の出入りが激しい。

 あの清和も戦の準備で忙しいらしく、ここ数日は表で寝泊りをして、私たちの部屋に来ない夜も珍しくはなかった。そして、今夜もこちらには姿を見せていない。つまり———待ちに待った好機(チャンス)到来!

 

 状況は整った。


 私は何食わぬ顔で、いつもと同じように夕餉を取り、霞とおしゃべりなんかを交わしつつ寝支度を手伝ってもらい、定刻には寝所に入った。霞が退出してからも小半刻(一時間)ほど、屋敷全体が夜の静けさに溶け込むころまで、私は横になったまま、ただじっと暗闇で目を凝らしていた。

 眠ることなく、頭の中でこの後の予定を何度も反芻(シュミレート)する。

 そして亥の刻を少し過ぎたころ、私はごそごそと寝所を這い出したのだった。


 芯を極力短くした燭台に火をともして、薄暗がりの中、部屋の隅にある唐櫃(からびつ)を開ける。ごそごそと下のほうに手を入れて、こっそり隠しておいた衣装を引っ張り出す。霞たちの目をごまかして用意した、明らかに姫らしくない衣装——裾を短く裂いた袴だったり、清和の衣装の中からこっそりと拝借した濃紺の直垂や毛沓(けぐつ)——だった。

 だまし討ちに近い輿入れで、私が愛用していた狩装束はもちろんのこと、男のような機能的な衣装は何一つとして輿入れ荷物の中には入ってなかった。だから、いざ馬にでも乗ろうと思ったら、それに見合う衣装を一から用意する必要があった。しかし、それを正面きって用意してくれというわけにはいかない。

 なぜなら、私は霞にも秘密で、この細川を脱出する計画を立てていたからだ。


 細川に輿入れした当初こそ曼殊院に手ひどく痛手(ダメージ)を負わされたが、その後は持ち直して、細川や京周辺の情報をひっそりと集めた。そうして、周囲には私が細川に馴染んだように見え、かつ私への油断が生じる頃合いを狙って、一気に逃亡を実行に移すと決めていた。


 大きな音を立てないように気をつけながら、私はそそくさと着替えにいそしんだ。

 袴はちょうどよい長さだったが、直垂はやはり清和のものだけあって大きすぎた。袖口から手が出てこない。かといって、ずるずると重い女物の小袿などではどうにも話にならない。少し思案した後、紐で襷がけをして、さらに袖口を絞ってみた。すると、とりあえず袖から手が出るようになり、動きやすく着こなすことに成功した。

 着崩れないかをその場で確認し、それから背中にたらしていた長い髪も一つに束ねた。

 手持ちの(きん)と、いざというとき換金できそうな宝飾の類を小さな包みにまとめて、それを背中に担ぐ。

 最後にこれまた清和のところから勝手に拝借した腰刀を、護身用に袴と着物の間に差し込み、身支度は完了だ。


 ふうっと明かりを吹き消して、闇に目を慣れさせてから、私はひっそりと部屋を出た。

 屋敷の表はともかく、奥はひっそりと寝静まっている。世の女たちは優雅に夢を見ているころなのだ。

 私は静寂の中を落ち着いた足取りで移動した。対屋を出て主殿の脇を抜け庭に降りると、用意しておいた毛沓を履いて建物とは逆方向から門をめざした。


 実家からの手紙の情報は正しく、西軍の大内氏が京に迫っているという話は、すでに細川でも周知のこととなっていた。大きな戦になることは避けられようはずもなく、このところ細川では昼夜を問わず、畿内はもちろん全国から、武士や使者たちが行き来する状態となっていた。そのため、夜も門を開けていることが多い。

 物陰から様子を伺うと、かがり火の中に三人の門番の姿が見えた。今宵も門は開けたままだ。

 時刻はまもなく子の刻になろうとしている。門番の交代がもう少し後であるのはすでに確認済みだ。


「……いつもと、同じ、か」 


 声には出さずつぶやいて、私はきびすを返した。少し離れた(うまや)へと向かう。

 清和との協定後、私は時折、散歩と称して屋敷内を偵察して回っていた。

 自分が住まう屋敷の構造は、きっちり押さえておきたいのが、私の性格だ。

 さらに脱出計画を思い立ってからは、清和のいない夜に寝所を抜け出して、主殿や門や厩やらの様子を調べておいた。


 厩のすぐ脇には厩番の休む小屋があるのだが、この時間になると不意の来客でもない限りは表には出てこない。今夜も中で眠っているようだった。馬を嘶かせたり騒がせたりしなければ、おそらくは大丈夫だろう。

 私はそっとかんぬきを下ろして厩に入ると、かねてより目をつけていた栗毛の馬に鞍を乗せた。夜更けの遠乗りにもかかわらず、馬は外に出られると知って喜ぶ様子を見せた。

 そうしてその馬をこっそりと外に出し、門に近い物陰につなぎ置いた。


「いいこと、少しだけここで大人しくしてるのよ」


 私は馬に優しく囁きかけて、小走りに厩へと戻る。そしてさらに二頭、こちらは裸の状態のまま外に連れ出す。この二頭は大人しいというより臆病が勝る性格だと調査済みだ。馴れぬ私に少し嫌がったが、幸いにも鳴き騒いだりはしなかった。

 それでも厩を離れるまでは、厩番が出てはこないかと幾分ひやひやした。 

 栗毛の馬をつないだ場所まで誘導し、私は首を伸ばしてもう一度門を確認した。門番は三人。変化はない。


 よし、いける!


 心の中で気合を入れて、一つ深呼吸すると、私はあとから連れてきた二頭の尻を強く鞭打った。驚いた二頭は、


 ヒヒヒィィン!


 と甲高い嘶きを上げて、猛然と駆け出した。門めがけ、突進していく。

 ぼんやりと立っていた門番は、突然の騒ぎに何事かと慌てた。あっという間に一頭が門を駆け抜けた。もう一頭は手前にいた門番がとっさに振るった棒に驚いて、その場で前足を泳がせた。


「……に、逃げたんか?」

「だ……誰ものってなかったぞ」

「こりゃいかん!」


 棒を振るった一番年かさのいった男がその場にとどまった馬を捕らえ、残る二人に素早く命じた。


「わしはこいつを厩にもどす。おまえらは逃げたあいつを早よう追え!」

「わ、わかった!」


 そうして三人の門番が門を離れた一瞬の隙を突いて、私は栗毛の馬にまたがるや、無人の門を駆け抜けた。

 門を抜けた一瞬、囮の馬を追って反対に走っていったうちの一人が振り返ったが、こちらを追うにはもう遅すぎる。乗っているのが私だと識別することすら出来なかっただろう。

 私は一気に馬を加速させて、月明かりを頼りに都大路を駆け抜けた。


 まずは第一段階、成功だ。


 私の脱出計画———それはこうだ。

 子の刻前後に単身屋敷を抜け出し、京の郊外・白川のあたりで尼となっている例の伯母の寺に駆け込む。それから実家と敵対している、文にもあった西軍の叔父上のところにでも、改めて逃げ込んでやる算段だった。

 伯母には事前には何一つ連絡を入れていないが、身に覚えはなくとも、曼殊院にいじめられる原因をつくった張本人なのだから、少しの間くらい私を匿ってくれたって罰は当たるまい。

 正確な寺の場所を知るわけでもないので、今夜は取りあえず鴨川を越えて白川近くで夜を明かし、明るくなってから人に尋ねるなりして寺を探すつもりだった。屋敷の者たちが私の不在に気づくころには、私はすでに伯母の寺に駆け込んだ後だ。


 月は明るく夜の大路を照らしていた。屋敷を出て大路を北上していた私は、二条大路と思しきあたりで東へと進路を変えた。碁盤の目状に張り巡らされた都の道は、こういう時こそ便利だ。正確な道が分からなくとも、ともかくこうして東へ折れれば、やがては鴨川にぶつかるようになっている。鴨川にぶつかれば、川沿いに橋をさがしてそれを渡り、さらに北東に進路をとれば白川に至る。


 屋敷を出てから、私は馬を休ませることなく、可能な限りの速度で走らせ続けた。

 先の戦さ以来、ずいぶん荒廃した都ではあるが、昼間は人が行き交うにぎやかな場所だ。だが深夜ともなると、都大路には馬の蹄の音だけが驚くほど大きく響く。

 この刻限ともなれば、まず真っ当な人間とすれ違うことはない。遭遇するとすれば、戦がらみの武士たちか、戦火に家を失い路頭に迷う者、あるいは夜盗の類だ。

 私はそのいずれとも関わりあうつもりはなかった。


 時おり道端で人影が動くことがあっても、決して速度を落としはしない。飛び出す者があったとしても、今宵は避けるつもりはなかった。可哀想だが、蹴り殺すことも辞さない覚悟だ。

 月明かりの下では、この格好なら男にしかみえないし、大丈夫だろうという自信はあった。だが飛び掛る、あるいは併走させるような隙を与えては、襲われないとも限らない。


 西に傾きかけた月が、正面に見える東山の稜線をくっきりと照らし出していた。鴨川に出るのに、そうはかからないはずだ。

 順調であると自負し、微かに安堵したそのときだった。

 山裾をちらちらと赤い光が踊った。

 気のせいかと思ったが、そうではなかった。前方から松明を片手に、疾走してくる人馬がある。


 まさか、ここに来て行き交うものと遭遇しようとは……。


 私はぎゅっと唇をかんだ。

 こちら同様、すでに先方にも私の存在は確認できる距離だ。脇道に入るにも、引き返すにも遅すぎた。急に進路を変えては、怪しまれる。

 手綱を握る手に力を込めながら、私は身を低くし、前方から来る騎馬との距離を計った。相手に速度を落とす気配はない。こんな刻限の単騎なら、どこかの武家の連絡係だろう。……そうであってほしい。


 ひい、ふう、みい……。


 心の中で五つ数える間に、私たちは路上ですれ違った。

 駆け抜けた瞬間、馬上の男と目が合う。降りそそぐ月光と同じくらい涼しく鋭い瞳だった。


「———え……っ!?」


 よく知る瞳に、私は知らず声を上げていた。


「清和っ⁉︎」


 目が合った相手はほかの誰でもなく、私の夫である細川清和———その人だった。


 どんな夫婦であれ、お互いにこのような刻限に、このような場所ですれ違うのはおかしい。だが、この場合、より怪しく状況的に咎められるのは、清和ではなく私だった。

 戦に関係のない女の私が、単身で馬に跨り、夜中の京市街を疾走しているなんて、常識ではありえないことだ。

 だからこそ、私は清和と目が合った瞬間、さらに馬に鞭を入れ、その場から全力で逃げるべきだった。それが、正しい選択のはず。頭では嫌というほどにわかっていた。

 なのに………。


「どう! どうどう!」


 私は反射的に手綱を引いて、馬を止めていた。馬首を背後にめぐらせると、清和も馬を止めて、こちらへ向き直るところだった。


「あんた、こんな時間にこんなところで何やってんのよ!」


 冷静に考えれば、その台詞は私がいえたものではないのだが、この時の私はひどく苛立っていた。馬上の男が清和だと分かった刹那、脳裏には数日前に耳にした愛人の噂がよぎって、ああ、そういうことね!と理不尽な怒りに胸が打ち震えた。


 愛人に対する正妻の嫉妬——のようなものでは、もちろんない。かつて、そんな人生は土下座しても要らないと思った、その気持ちに今も変わりはない。


 どんな運命の悪戯か、夫婦という間柄に収まった私と清和だが、あの山中での出会い以降、変化を強要されたのは、我慢を強いられたのは、果たして夫婦共にであったか?———否、だ。

 清和はその活動領域も人間関係も、九分九厘は変わらぬまま過ごしてきたのではないか。これまでとほぼ同じように、自由に気ままに、誰に憚ることもなく……例えば遠乗りや狩に、隠居した乳母の元に、あるいは今夜のように愛人の元を訪ねることもできる。


 どうして、いつでも清和だけが好き勝手でできるのだ。

 なぜ私だけが、我慢しなければならないのだ。

 同じ有力武家の家柄の生まれた者なのに、姫というだけで、この不平等は一体なんなのだ!


 長らく鬱々と蓄積されていた不満が、怒りが、爆発寸前まで込み上げていた。

 そんな私とは対照的に、清和は落ち着いたもので、松明を掲げながらこちらへと漆黒の馬を進ませた。いつもの低く透明な声で、皮肉に問う。


「お前こそ、どうしてこんな時間にここにいる。なにか緊急の事態でも起こったのか?」


 応えられるはずのない質問だった。無論、清和はそれを見越している。

 黙りこむ私に、清和は嘲りにも似た冷ややかな視線をよこし、言葉を継いだ。


「東軍・畠山の状況が変わったか?」


 それはつまり、西軍との取引なりで、畠山(うち)が東軍・細川家との和睦を必要としなくなったのか、という問いだ。もちろん、現時点において、そんな変化はありえない。

 私は微動だにせず、ただ清和を睨み続けた。


「お前の一存か。……霞や、実家は承知しているのか?」

「そんなわけないでしょ!」


 吐き捨てる私に、清和は嘆息した。


「ならば、このまま行かせるわけにはいかない」


 予想通りの展開だった。



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