三
嫌な、感じだ。
なんとなく居心地が悪くなって、私は早く霞たちが戻ってこないかとちらちらと入口を気にした。
母君の事を言い出したのは私だが、こういう展開は予想していなかった。こんな深刻な話を一人で聞くのは気が重い。
察しのいい清和は、そんな私の様子に気づいたのか、幾分淡々とした口調で結んだ。
「子馬は逃げたが、山王丸は恐ろしさに身がすくんで動けなくなってしまった。その山王丸が蹴り殺されそうになる寸前のところを、母上が身を挺してかばい、亡くなったらしい」
それ以上、突っ込むべき話ではなかった。事故というには、生々しすぎるきらいもある。
なにより実母の最期をこれ以上、思い出させる必要はない。「お気の毒ね」と同情して、この話はおしまいのはずだった。
なのに———私はつい口を挟んでしまっていた。
「らしい……って、え? 清和、あんたその場にいたんじゃないの?」
「いや……」
清和の澄んだ涼しい瞳に、紗がかかった。
「幸か不幸か、その場にはいなかった……」
いつもの低く透明な声も僅かにくぐもって聞こえた。私は訊ねたことを激しく後悔した。
そうか……清和は母の最期を知っているわけではないのだ。
淡々と見てきたように語るから、てっきり清和は現場に居合わせたのだと思っていたけれど、清和自身も誰かにその最期を聞かされただけなのだ。自分の目で見たわけではないのだ——でなければ、あんなに冷静に話せるわけもないか……。
気まずさを誤魔化すように、気づくと私はあまり後先を考えずに口走っていた。
「突然の事故で、お気の毒だと思うわ。それでも、あんたは事故の起きるその日までは、母上と一緒にいられたんでしょう? 私なんて、母上の顔も覚えてないんだからね! 私に比べればあんた全然いいじゃな……」
途中で言葉を飲み込んだ。しまった!これじゃまた喧嘩になる……とヒヤリとしたが、意外なことに清和は皮肉もいわず、非難もしなかった。
「そうか……早くに、母君を亡くしていたのか」
遠い記憶の旅路から戻ってきたように、清和は穏やかに微笑み、それどころか逆に私へと相憐れむような眼差しをむけた。
私の居心地の悪さは最大値に達した。はらりと扇を開いて、その影で口を開き、何か言いかけては思いとどまった。
そうしてどちらともなく言葉をなくし、微妙な沈黙が辺りを支配したその時——侍女達が懸盤を持って賑々しく戻ってきた。
しんみりとした空気の欠片を砕いていくように、女たちの発する特有のかしましさが部屋に満ちていく。先頭をきって入ってきた霞が、私と清和の間の悪さを埋めるように、新しい酒盃を二人の間においた。
ちなみに酒と一緒に、例の引千切も大きな皿にてんこ盛りに用意されていた。それを見ても、今朝のような吐き気は起きなくてホッとしたわ。
大量の生菓子を前に、清和も先ほどの一つは食べたが、それ以上は遠慮するという雰囲気だったので、そのまま部屋にいる侍女たちに振る舞うよう霞に命じた。
侍女たち……特に年若い娘たちは、わぁ!と喜んで、さっそく桔梗から嗜められたりしていた。
ともかくも、賑々しく明るい雰囲気に、私は胸を撫で下ろす。
扇を仕舞い、酒の入った鬻げを手に取ると、私はそっと新しい盃を取り上げる清和の横顔を盗み見た。そこにはもう、先ほどの悲哀の影はなかった。
伝聞と直接の記憶、どちらがいいという話ではないが、清和が直接、母親の死に接していなくてよかったと思った。不用意な好奇心で、悲しい記憶を呼び起こして、傷をえぐるような真似だけはせずに済んだのだから。
それと同時に、思う。———あの弟君本人の前でこの話にならなくてよかった、と。
「どうぞ!」
後ろめたさも手伝って、私は自発的に清和に酒を注いだ。
盃を優雅に口元に運ぶ清和は、すでにいつもの貴公子だ。
彼は盃を空けて、それから思い出したように「ああ」と言って私を見下ろした。
「そうか……気になっているというのは、曼殊院様が沙羅姫に殊更酷く当たる理由、か」
「…………!」
いきなり核心をつかれて、鬻げを持ったまま私が口の端をひくひくさせていると、
「知りたいか?」
清和は悪びれる風もなく訊ねた。
「——知ってるの?」
逆に問うと、清和は盃をもどして、ゆったりと腕を組んでみせた。
「たぶんな」
いつもなら、こんな状況で食いつきはしない。だが、これからも続くであろう曼殊院との闘いと、この機を逃してはもう機会はないかもしれないという思いが、私の強い意地を押し込めた。
私はにじり寄るように、清和に近づいた。反射的に、清和は僅かに上体を後ろに引く。
「……どういうこと? どんな理由があるっていうのよ!」
これまでの仕打ちが走馬灯のように脳裏を駆け抜け、思わず知らず声が怒気をはらむ。
こんな態度じゃ理由を聞く以前に、また二人の争いになるかと再びヒヤっとしたが、清和は呆れるように私をみるだけで、攻撃に転じようとはしなかった。
小さく咳払いをして、侍女たちの視線をそれとなく私に知らせつつ、やつは言った。
「一言で云うなら、『女の因縁』か」
「女の……因縁?」
「そう。曼殊院様が若いとき……まだ槇姫と呼ばれていた時分に、畠山家の姫と輿入れを巡り争ったそうだ」
「何よ、それ……」
私は脇に戻ってきた霞と顔を見合わせた。
初耳だ。先代か先々代くらいの話になるのだろうが、因縁といわれるほどの争いだったなら、私の耳に入っていても不思議じゃないのに、そんな話は聞いたことがない。
霞もふるふると小さく頭を振って、聞いたことがないという。
「……っていうか、そもそも輿入れで揉めるってどういうことよ。どうせ本人の意志とか関係ない、政略結婚でしょうが」
「無論、そうだ。だが、相手は足利将軍家———」
将軍家——と聞いて、ふと思い当たる。
白川の伯母上の……こと?
通常、将軍家には日野家ゆかりの姫が輿入れすることが、ここ何代かの慣例となっていた。ところが、先々代の将軍の時代、正室に迎える予定の日野家の姫が輿入れ前に一人、輿入れしてからも二人、立て続けに亡くなり、ついに日野家一門に適齢の姫君がいなくなってしまう事態が発生したそうだ。
そんな好機を、他の武家が放っておくはずがない。畠山でも正室候補に名乗りを上げ、当時、才色兼備の誉れ高かった父上の姉姫……私にとっては伯母上にあたる姫が、権謀術数の果てに他家の姫を蹴落とし、ついに将軍の三人目にして最後の正室として輿入れしたという。
「もしかして、伯母上のことを云ってるの?」
眉をひそめる私に、清和は鷹揚にうなずいてみせる。
「将軍家への輿入れは政治的な問題だ。姫君個人の性質……その甲乙を競うものではない。当時、最後まで争ったのが畠山と山名で、結果的に政治手腕の優れていた畠山が姫を将軍家に送り込むに至った。客観的に見ればそれだけのことだ。———だが、花戦の張本人たる曼殊院様はそう冷静には受け止められなかったようだ。もともと誰かさんと同じく、蝶よ花よと育てられ、世の姫君としては最高の人生を送ることが約束されていた人だ。輿入れも当然、皆が望む最高峰の家へ嫁ぐと信じて疑っていなかったのだろう。——この感覚は私には理解しがたいが、畠山家の『今かぐや』といわれた沙羅姫なら、少しは理解できるものなのかな?」
一瞬、厭味かと思ったが、違った。清和はどこか哀れむような目で、西日の差す庭先を———否、その向こうにある曼殊院の対屋を見つめているようだった。
私は曼殊院に同情するつもりなど、これっぽっちもない。
だが、小さく安全な世界の中で、お前だけが<特別>だと育てられ、それを疑わずに成長する姫が悪いともいえない。素直に成長すればそうなってしまうのだ。
「曼殊院は、良くも悪くも世間知らずだったのよ。姫としては一流だったかもしれない。でも、世の中を動かしているのは政だということを学んでおくべきだったわ」
「沙羅姫のように……?」
清和の視線が私に戻り、ふわりと笑った。
「私はっ……」
大きくなりそうな声を察した霞が、咄嗟に私の袖をひく。おかげでしゃっくりを呑み込むように続く言葉を呑んでしまったが、それで黙るつもりはなかった。一拍おいて、作った笑顔で言ってやる。
「……私は私なりに、客観的に周りを見ることをしてきたつもりよ」
それでも、まんまと父上たちの政治的謀略に嵌められて、こうして細川に輿入れさせられたわけだから、説得力には欠けるけれどね……。
笑顔のまま、ぎりりと奥歯を噛締める私の前で、清和は『春の貴公子』の微笑を浮かべたまま頷いた。
「そうかもしれないな。意外に冷静だと、曼殊院様たちとの遣り取りで感心した。そういう姫は好ましいね」
さらりと言われて、私は妙にうろたえる。仮面だと分かっているが、いや、そうだからこそ、先が読めなくて私は後手後手に回らざるを得なくなるのだ。本当にやりにくい。
黙りこむ私を尻目に、清和は何事もなかったように、話を曼殊院に戻した。
「通常であれば他家もあえて、当代で一二を争うような姫に対立候補をぶつけるような真似はするまいに。それだけ好機だったということだろう。……『競争相手』が存在する、ということを知ってしまったのも、曼殊院様の不幸だ。比べられることも、負けるということも、それまでの人生ではなかった。自分が手に入れて当然と思っていたものを、自分ではなく畠山の姫が手に入れてしまった。———それは、自信家で自尊心の高かった曼殊院様にとって、初めての……同時に生涯でただ一度の敗北だった。しかも彼女にとってそれは、政治的敗北ではなく、『女』としての敗北と記憶されてしまった。……それゆえに、今も根にもってらっしゃるというわけさ」
普通じゃないとは思っていたけれど……そんな私怨で私をいじめるなんて……。
「……あまりにも、馬鹿げてるわ。私がその好敵手だった姫の姪だから、そのときの屈辱をお返しってわけ⁉︎」
「それが全てかどうかは、周りの知る限りではないけれどね」
他人事のようにあっさりと言ってくれるじゃない。
「伯母上のことはよく知らないけれど、結局、姫君を一人御産みしただけで、お祖父様が望んだような外戚の関係を築くには至らなかったはずよ」
そして、側室腹の先代将軍が跡を継いだのち、伯母上は落飾して、白川あたりの尼寺に身を引いたと聞く。
「山名から細川家へ輿入れして、男子を御産みして、今もあれだけの権勢を誇っているのだから、結果的には曼殊院の勝ちじゃない。昔のことにこだわる必要ないでしょ」
「沙羅姫も、もう十分に曼殊院様の性格を理解していると思うが……そう思うのなら、一度提案してみることだな」
清和はどこか楽しげですらあって、私は毒気を抜かれた。
嫌味も皮肉も言わない、おおらかで貴公子然とした清和は、本当に別人のようで喧嘩にすらならない。それは周りの者や、私たち自身にとってもよいことなのかもしれないけれど……なんだか、調子が外れてしまう。
なんだかなぁ…と見つめる先で、清和は気さくにも周りに控える侍女たちに声をかけた。
「せっかくだ。霞たちも飲んだらいい」
「いえ、そのような……」
「息抜きは、誰にとっても必要だ。殊に嫁姑の難しい関係の仲立ちをしてくれている、縁の下の力持ちたちにはね」
肩をすくめる清和に、侍女たちの間から軽い笑いが漏れた。見ればあの曼殊院の間者でもある桔梗も顔をほころばせている。
清和に視線で促されて、仕方なく私も言を継いだ。
「この沙羅姫付きということで、みんなには気苦労をかけることもあるでしょう。清和殿もこうおっしゃってくれているのだから、ここは寛ぎなさい」
後に霞は、この日のことを『転変の日』と名づけて、細川家における女の勢力図が逆転するその最初の過程だったと、何度も後輩たちに語り聞かせたという———。
侍女たちの嬌声に包まれて、私は人知れず嘆息した。
曼殊院にしても清和にしても、とにかくこの細川では調子を乱されてばっかりよ。
なんかもう、やりにくいったらありゃしない!
ぷいっと顔を背け、私は自分の盃に酒を満たすや、ぐいっと飲み干した。
私が少し大人になったせいなのか……それとも清和が作り出したこの場の雰囲気のせいなのか。
酒は相変わらず仄かに苦かった。それでも何故か不味くはなかった。




