二
「そうだな……」
思案する清和も、すでに『春の貴公子』の仮面を纏っている。
穏やかな雰囲気を崩さぬためにも一応訊いてみたものの、実際のところ私には、清和から特別な注文を受ける気など毛ほどもなかった。つけるべき話は大方ついた。あとは一般的な琵琶曲の一、二曲も披露して、さっさと表に退散してもらうつもりだったのだ。
仲のよい夫婦ごっこなど、まさしく道化だ。長々と演じるものではない。お互い、ここからは事務的に行こうじゃないか。
決断が早そうな清和にしては珍しくぐずぐずしているので、いっそこちらから適当な曲を提案してやろうかと口を開きかけたところ、
「おそれながら、清和様」
横から口を挟む者がいて、私は虚をつかれた。驚いたことに、しゃしゃり出てきたのは霞だった。
「沙羅姫さまの母方は、代々有名な楽師の家系でございます。ここはひとつ、家伝の琵琶曲を所望されてはいかがでしょう」
「ほう……家伝の」
関心を示す清和に、霞はまるで自分のことのように誇らしげに語った。
「姫様の琵琶の腕はそれだけでも十分に素晴らしゅうございますが、家伝曲は何百年という伝統もあり、曲もその演奏も群を抜くものばかり。なかでも『雪月花』は一度聴いたら忘れられぬ見事さでございます」
霞は主人のことを心配してくれる、よい侍女だ。だが、主人の気持ちを汲みきれず、こういう余計な口出しをしてしまうあたり、まだまだ未熟というしかない。
霞、調子に乗りすぎよ! と心の中で叫んだが、時すでに遅し。案の定、清和は霞の提案に乗って『雪月花』を要求してきた。
霞は嬉しそうに口元を綻ばせて、私にしか見えぬ位置で「やりました!」という気合の姿勢までして見せた。私の良いところを見せるいい機会とでも勘違いしているようだ。
がっくりと力が抜けそうになった。だが、まあいい。出し惜しみするものでもない。
むしろ、家伝曲は一族の者しか弾けず、披露する場も限られているので、聴き知る人が少なく、旋律にせよ演奏技術にせよ評価をしにくい曲が多い。従ってこのような場では好都合ともいえる。
幾分、霞が期待値をあげたが、それでも十分に応えられはするだろう。
気を取りなおして、私は撥を握った。ジャッと絃を撫でる。
『雪月花』とは『雪花』と『月花』という趣の異なる二曲からなる比較的、演技性の強い演目だ。
とりわけ、『雪花』は、静・動・静の劇的な作品だ。最初、ハラハラと舞う雪が、次第に激しい吹雪となり、すべてを白銀に呑み込んだ後、やがてまたハラハラと舞う雪に戻っていく構成になっており、技巧的で息も突かせぬ激しさが、同時に華やかな印象を与える。
それに対して『月花』は、緩やかで情緒的な作品だ。月光の下で、ゆっくりといくつもの蕾が花開いていくように、微妙に異なる美しく冴え冴えとした旋律が幾重にも重なる構成で、一見、技巧的ではないが、穏やかである分、誤魔化しのきかない技術と表現力と要する難曲だった。
幾ばくかの沈黙の後、私は静かに撥を動かした。
ごく小さな音でビィンと絃をはじき、数拍おいてもう一度、同じ音を奏でる。反復される単純な旋律。それはゆっくりと、けれど少しずつ、その間隔を狭めていき、同時に混ぜ込まれていく他の絃音によって、勢いを増す。猛然と舞う吹雪へと。
演奏を始めると自然、私の姿勢は良くなり、呼吸が整う。目を閉じて演奏に集中すると、すぐ目の前に亡き母上や、今は遠くにいる義貴兄様がいて、ともに琵琶をかき鳴らしているような不思議な一体感と安心感を得ることができる。
そう、この『雪月花』は家伝の総仕上げとして、義貴兄様が最後に教えてくれた曲の一つだった。習得するのに、一年近くを要した難しい曲だった。それでも、私は嬉しくて毎日欠かさず練習したものだ。
紀伊の屋敷で兄上達と過ごしたあの頃、まさかこんなところでこの曲を披露することなど想像もしていなかった。曲の傍には、いつも兄上や父上、義母上、霞や鷹丸……私の大切な人たちがいるはずだった。大切な人の許でしか、弾かないと思っていた。
今———ここに家族の姿はなく、ただ霞がいて、そして……清和という、肩書きだけの夫がいる。
もし、あの日……あの狩の日、私と清和が会うことがなければ、会わずしてこの細川に嫁いで来ていたなら———私達は、もっと違う……幸せな『夫婦』になれたのだろうか……?
そんな埒もない考えが浮かんで、一瞬、琵琶の音を乱した。
兄上がいたら、間違いなく叱責される。弾くなら集中して、真剣に弾け。中途半端なことはするな、と。
私は再び演奏に集中して、荒れ狂う雪原の中に己を溶け込ませた。
そうしていつしか遠ざかった吹雪に、雪も止んだ幾許かのあと———、今度は深い闇の中に浮かぶ、蒼白い月の下に身をおいた。
闇に降る冷ややかな光の中、ゆるゆるとその蕾を膨らませていく花々。おもむろに弾けるように、一輪がパッと花開く。
同時に、目の前の清和や霞の表情が、ともに柔らかく開いていくのも分かる。
音楽とは、不思議なものだ。
月光の降る草原に次々と花開く、その花の芳香が私だけでなく聴く者たちにも香るようにと、私は撥を握る手を柔らかく優しく動かした。
演奏時間が小半刻あまりにもなる『雪月花』だが、久しぶりに弾くとそんなに長くは感じられなかった。私自身が、開放感に包まれていたのかもしれない。
やがて、最後の一輪が月光を浴びて咲き誇った瞬間、汐が引いていくように穏やかに曲は終わりを迎えた。
ビィィン……と残る余韻に、人々の溜息が重なっていく。
その感触に満足して、私は瞼を上げた。幻と現が融合する僅かな時間があり、その後、観客から繰り出された惜しみのない拍手を、私は当然のものとして受け取った。
「たしかに……素晴らしいな」
清和が吐息まじりに呟いた。
「これほどの演奏を聴いたのは随分と久しぶりだ。……珍しく私も興が乗った」
何を思ったのか、清和は一つ手合わせをと言い出した。
「手合わせって……あなた、弾けるの?」
「たしなむ程度にはな。……誰か、私の琵琶を用意してくれ」
急に命じられて、侍女がばたばたと琵琶を用意する。横目でそれを見ながら、私は霞が持ってきた干菓子を口に放り込み、冷えた薬湯でごくりと喉に流し込んだ。
たしなむ程度で、私と合奏ですって? はっ。赤っ恥をかくわよ。
澄ましたまま、内心せせら笑ってやる。
用意を終え琵琶を抱えた清和は、さらに驚いたことに『月花』の合奏を要求した。
口に含んでいた薬湯を吐き出しそうになり、私は慌てて袖で口元を押さえた。
「『月花』って、さっきが初見でしょう?」
「そうだが、あの曲は連弾用ではないのか? そういう旋律だった」
「たしかに……そうだけど」
清和の指摘するとおり、『月花』は合奏に適した曲として作られてもいた。主旋律を私が弾き、それを合奏者が追いかければ、それだけで見事な合奏となる。
「まああっ、この細川で『月花』の合奏が聴けるなんて……!」
霞が感激に堪えないという声を上げて、その場の雰囲気がことさらに盛り上がった。これで否やの答えは興ざめる。
私は苦々しく思いながらも再び撥を取った。
まあ、いい。恥をかくのは私ではなく清和だ。初見で『月花』を弾くなど、多少は覚えがあったところでそう出来ることではない。
一呼吸おいて、様子見に最初の部分を爪弾いてみた。清和は意外にもすんなりと……というか、何の違和感もなくそれについてきた。
滑らかな撥捌きだった。大きくしなやかな右手に握られた撥が、躊躇いなく弦をはじく。
顔には出さなかったが、私はかなり驚いた。
たしなむ程度ではない。……これは、かなりの腕前だ。
絃を巧みに押さえる左指の動きも、右手に握られた撥の冴えのある動きも、その辺にいる楽師や琵琶法師よりもよっぽど優れていて、生来の感覚のよさを感じさせる。
これじゃ、真面目に弾かなければ、私のほうが恥をかく……。
ひやりと危機感を覚えて、私は改めて姿勢を正した。
それと同時に思い至る。技術だけではなく、清和の演奏はどこか、義貴兄様やかつて京でよく合奏した綾小路の隠居のそれと似ていた。
主張するのではなく、ちゃんと相手の音を聞いて、その相手の音を包み込むように自分の音を寄り添わせる———私の苦手とすることが、この清和にはできるのだ。
私は演奏しながら、また混乱しそうだった。
あの冷ややかで己を曲げない、ゆえに山中でも私と争う羽目になった清和に、こんな相手を思いやった演奏ができるなんて……。
ひとしきり演奏を終えてなお、私は茫然自失の態だった。得意とする分野で、自分の劣った部分を思い知らされるなんて。
そんな私の心境も知らず、霞たちは清和に再演をねだり、清和が旺盛な奉仕精神でそれに応えている間も、私は琵琶を抱いたまま動けないでいた。
なんとか立ち直ったのは、名残惜しそうにしながらも霞たちが琵琶を片付け、軽食の用意を始めた頃だった。
いつのまにか昼どきを過ぎて、陽の光は少しずつ西へと傾きかけていた。
先ほどから、清和がじっと私の表情を窺っている気配がする。
どうした? と問われるのは不愉快で、先手を打つことにした。
あえて視線を合わせぬまま、私は気持ちを切り替えるように口を開いた。
「そういえば、ひとつ気になっていたことがあるの」
「……なんだ?」
「答えにくいなら、話してくれなくても構わないんだけど……あなたのお母様のことについて」
機会があったら、絶対に訊いてみたかった事だ。
「その……やっぱり、曼殊院と仲が悪くて、それで亡くなったりしたの?」
清和の母——この屋敷では『北山殿』と呼ばれていたらしい——がすでに鬼籍に入っていることは、輿入れ直後の情報で知っていた。だが、いつどういう状況で亡くなったのかまでは、他家の私が知るよしもないことだった。
輿入れとほぼ同時に始まったあの曼殊院のいじめを受けて、私はもしや……と思うようになっていた。
清和は右手でもてあそんでいた扇を取り落としそうになり、
「いやいや、さすがにそれは……」
言葉を濁しながら、苦笑した。
「母上と曼殊院様は嫁姑の関係ではあったが、ごくごく普通の仲だったと思うが。——いや、側室の方に比べたら、どちらかというと仲が良いほうだったかもしれないな」
意外な話だった。
顔を上げて目を丸くした私に、清和は少し迷うようにしたものの、やがて亡き母のことを語り始めた。
「……息子の私が言うのもなんだが、母上は美しくて理知的な人だった。女人にしておくには惜しいほどの政治的才能の持ち主だったとも聞く。あの曼殊院様や他の側室方と上手くやっていたのも、そういう才に因るところが大きかったのかもしれないな。その母上が亡くなったのは、もう……八年前になるか。事故だった」
「……事故?」
「ああ……」
清和は、開いた扇に視線を落とす。
「この戦が始まる前で、まだ細川邸も御所の近くにあった頃だ。邸内に馬場があった。あらかじめ調教された馬しか入れないようになっていたから、さほど危険な場所ではないはずだった。私もそこでよく馬の稽古をした。弟の山王丸——祝宴のとき、少しだけ挨拶に来たのを覚えているか?」
訊かれて、私はおぼろげな記憶を辿る。最悪の体調で、あの婚礼の宴のことは八割方抜けているが、そういえば家臣の紹介の前に、一人特別に挨拶に来た少年がいた気がする。
「あの、もうすぐ元服する予定だといっていた弟君……?」
「そうだ。あの山王丸は、当時はまだ五つになったばかりだったか……今でこそ私や父上にもよく懐いているが、幼い時分は母上にべったりの子で……それでも男子らしく育っていたんだろう。馬乗り始めの前に、自分の馬が見たかったようだ。その日、母上に頼み込んで、普段は足を運ばない馬場を母上と一緒に訪れた」
低い清和の声がやけに透る気がして、はたとあたりを見渡すと、せわしなく動いていた侍女達が、うちそろって一時的に部屋から姿を消していた。清和も同じように部屋を見渡すと、ぱちんと扇を閉じ、僅かに声を下げた。
「山王丸の馬乗り始めは、まだ少し先の予定だった。だが、山王丸のための子馬はすでに用意もされていたので、母上と一緒に子馬と遊ぶことにしたらしい。馬は臆病な性質だが、刺激しなければ危険な動きはしない。ましてや調教されていれば尚のこと。ところが……どうしたはずみでか分からないが、馬場にいたうちの一頭が急に暴れだした。皆が取り押さえようとしたが言うことをきかず、折りしも山王丸と子馬が戯れる場に向かい暴走した———」




