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「沙羅姫は、竹取の『なよ竹』もよいですが———私には『葵』のほうがお似合いのように思えますね」


 私をも、源氏物語ごっこに入れてくださるとは。しかも、そこに明確な悪意は見えないが、女主人公(ヒロイン)の『紫』でも『浮舟』でもなく、選りによって『葵』に譬えてくださるとは……見掛けは『春の貴公子』なれど、やはり本質は皮肉に満ちた『氷の貴公子』の清和らしいじゃないか。


 葵———言わずと知れた源氏の正妻で、その誇りの高さゆえ源氏とはしっくりいかず、挙句、六条にとり殺される哀れな女だ。

 ここぞとばかりに、曼殊院が口を挟んできた。


「『葵上』ですか?……私にはむしろ、『三ノ宮』がお似合いかと思いますよ。大切に育てられた世間知らずなお姫様なところなど、特にねぇ……」


 そして、源氏の愛にも気づかずに、罪を犯してしまう愚かな姫君。いずれお前もそうなるのではないか——と、曼殊院は私にだけ分かるように意地悪く微笑む。


「ふむ…たしかに『三ノ宮』の育ちのよさは重なるところもありますが……」 


 清和はやんわりとそれを打ち消した。


「沙羅姫は『三ノ宮』よりも断然強いお心をお持ちですよ。その強さゆえに、私は『葵』を連想してしまうのです。左大臣家で大切に育てられてきた葵上は確かに誇り高い姫君でしたね。望まぬ結婚で自身が年上ということもあり、なかなか素直にもなれず、源氏と心が通うようになるのは亡くなる少し前……。源氏に依存する姫君が多いなかで、私には、葵上は出来すぎた姫だったように思えます。さまざまな困難に耐え忍び、上手く心の内を表すことのできない意地張りなところがあって———」


 清和はそこに見えない誰かから視線を戻すように、私に焦点を移した。


「私は時々、心配になるのですよ。沙羅姫も同じように少し意地張りな方のようですからね。寂しくとも誰にも頼らず、独りで耐えてらっしゃるのではと」


 私は思わず斜に構えるのをやめて、まじまじと清和を見つめた。

 まさか、私と曼殊院の確執を知っていて、暗にそれをこの場で匂わせて曼殊院を牽制するつもりなのか⁉︎

 あの、私の知る清和が……『氷の貴公子』が、そんなことをするとは思えない。


 これは、何かの罠か……?


 沈黙の底で穿った考えに戦慄する私を、清和は包み込むような優しい瞳で見返した。

 低く透明な声が、いつもより僅かに温かみを持って部屋の中に響き渡る。


「私は、源氏のように大切な人を失いたくはない。何があっても、沙羅姫——貴女を守ってみせますよ」


 私の姿を宿したその瞳には迷いや曇りはなく、ただ優しさとその奥に煌めく真剣さが怖いほどに際立っていた。


「だから……どうか、これからは私を頼りにしていただきたい」


 傍目に見れば、愛の告白に他ならなかった。

 誰ともなく侍女達の間から吐息が漏れ、羨望のまなざしが向けられる。

 視界の端に映る曼殊院ですら、毒気を抜かれたようにぼうっと私達を見つめるだけだ。


 私の胸が高鳴らなかった———といえば、それは嘘になる。ほんの一瞬、その言葉に酔うように、あるいは古の物語の中に引き込まれるように、ときめいた。

 だが次の刹那、理性が警鐘を鳴らした。


 まてまてまて、騙されるな! 清和は、この私に対してこんなことを言う男ではない‼︎


 なぜなら、私達はあの早春の山で出会っているのだから。

 お互いの正体を、知っているのだから。

 そう……狙いはよく分からないが、この男は何かを企んでいる。


 ———もっとも、このときの私にはその企みは看破できなかったし、私を守ると言ったその真意を知るのは、だいぶ後になってからのことだったのだが……。


 私は混乱しそうになる自分を叱咤しつつ、瞬きを数度する間に、用意されている答えは一つしかないのだということに思い至った。たとえ不本意だとしても、曼殊院たちの前で「否や」はない。

 私は口ごもるように、小さく応えた。


「はい……頼りにしております」


 と。

 その返事に満足したように清和は小さく頷く。

 私はなんだか無性に悔しくて、奴から視線をそらし、うつむいた。

 周囲からは照れているように見えたかもしれないが、これはそんな可愛い感情じゃない。屈辱に近い。奴の筋書きで踊らされているようなものだ。

 結局、『氷』であろうと『春』であろうと、清和は私に屈辱を与える存在なのかもしれない。まさしく、天敵——。


 その天敵は、もう一人の天敵たる曼殊院に向き直ると、おもむろに退出の挨拶を口にしはじめた。


「……ああ、曼殊院様のところにお邪魔すると、楽しくてつい時間が経つのを忘れてしまいます。もう(うま)の刻をまわる頃ですね」

「まあ、もうそんな時間になりますか」

「たいへん名残惜しいのですが、私達はそろそろ失礼させていただくとしましょう」


 私と曼殊院は同じ言葉に反応して、顔を上げる。


「……私達?」

「ええ。沙羅姫には、このあと琵琶を聴かせていただくお約束になっているのですよ」


 清和は当たり前のように、にっこりと私に微笑みかけた。

 そんな約束した覚えもなく、私は訝しげな目で清和を見返す。


 何のつもりなのよ!


 しかし、無言の抗議は霞によって遮られた。ぐいっと袿の袖をひっぱられて、私はとっさに脇に控える霞へと顔を向ける。見ると霞は、小さく何度も頷いている。


 私の知らないところで、清和とそんな約束をしたとでも言うの⁉︎


 その隙にも引きとめようとする曼殊院に対して、これまで時間がなくて琵琶を聴くことができなかっただの、二人でゆっくりと過ごす機会を探していただの、清和はもっともらしい理由を述べて、私がともに辞することを了承させた。

 曼殊院は恨めしげに私を見て、何か言いたそうに口元をもごもごとさせたが、そこからいつものような言葉が発せられることはなかった。


「さあ、参りましょう」


 颯爽と立ち上がった清和は、私の前でその右手を差し出す。束の間の躊躇の後、私はその手を取った。力強く引き上げられて、私はすくりと立ち上がる。

 この空間を離れられると思うと、体が急に軽くなったようだった。

『今かぐや』の仮面で曼殊院たち一同に微笑んで、私は清和の後に続いて戸口へと足を向けた。歩調は自然と速くなり、いまや清和の背中にぴったりと付くほどに接近していた。だから、奴が戸口で何かを思い出したように急に歩みを止めたときには、危うくその背中にぶつかるところだった。

 振り返った清和をむぅっと見上げると、奴は私など眼中にない様子で、


「ああ、そうでした!」


 と、そのまま私の背後の曼殊院へと貴公子らしく微笑みかけた。微笑む清和を見上げているのも本当に馬鹿みたいで、私は体をずらしてもう二度と拝みたくはなかったはずの曼殊院の顔を振り返る。

 曼殊院は、清和が琵琶の宴に自分を誘ってくれるとでも勘違いしたのか、ぱっと花が咲くように喜色満面の体で居住いを正した。少々上擦り気味の声で問う。


「なんですか?」

「曼殊院様に、ひとつお願いがあったのです」

「……お願い、ですか?」


 期待はずれの台詞に落胆したように、曼殊院の両の肩が微妙に落ちた。


「曼殊院様にしか、お願いできぬことなのですが……」


 そういわれれば、この孫大好きのババアは断れまい。

 何を言うつもりだろうと、清和の横顔を盗み見ると、彼は白い歯を見せて、ひときわにこやかに笑った。


「これからは、曼殊院様と沙羅姫の歓談の席に、私も同席させていただきたいのです」


 最後まで予断を許さない男だ。今日の登場のみならず、その提案は驚愕に値する内容だ。

 曼殊院もまた驚いた顔で清和とそれから私をちらりと見た。


「遠からず、また出陣せねばならぬ日が参りましょう。時間の許す限り、細川の身内であるお二人とはご一緒しておきたいのです。……お許しいただけないでしょうか?」


 曼殊院のなかで、計算が働いたことは言うまでもない。嫁いびりと、かわいい孫との時間を天秤にかけ———。


「もちろんですよ。かわいい孫夫婦に会えるのを、どうして拒みましょうや」


 嫁いびりができないことを差し引いても、清和とともに過ごす時間は魅力的だったようだ。

 最初から当たり前のように応じた曼殊院に、私は内心ほっとしていた。彼女同様、私の中でもすばやく計算が働いていたからだ。


 清和が何を言い出すか分からないという不安や、お互いに猫を被り続ける苦痛はあっても、清和と同席でいる限り、曼殊院のあの執拗な虐めは息を潜めるだろう。———そう、今日のように。

 結果的に、曼殊院にとっても私にとっても、清和が同席したほうが得なのだ。だが——清和自身には、何の得があってそんな提案をするのか……。


「では、また近いうちに……」


 曼殊院への笑顔をそのままに、清和は小さく顎で私を促すと、すばやく戸口をくぐりぬけた。さまざまな疑問を抱えつつも、私も後を追い逃げるように曼殊院の部屋を後にした。



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