八
いま口をあけると呻き声が漏れてしまいそうで、唇を引き結んだまま慌てて視線を目の前の絵巻へと落とした。
東屋の巻で、浮舟がまさしく絵物語を見ている場面が描かれている。
絵物語を見る浮舟の、その絵巻物を見ている私、その私の姿を……という不思議な二重、三重の入れ子構造が脳裏に浮かんで、一瞬痛みを忘却できたような気がした。———が、それはあくまで束の間の気散じに過ぎない。
痛み以外のものに集中しなければと、私は食い入るように絵巻の浮舟を注視した。
曼殊院の絵巻に描かれた浮舟は、当時の美人らしくふっくらとしていて幸せそうだ。悩み多き浮舟にはみえない。私の絵巻の浮舟はどうだっただろう……さすがに総てを思い出せはしなかったが、断片的に幾つかの記憶が蘇る。
ああ、なんだか懐かしいなぁ……義母上とよく京の畠山邸で観たっけなぁ……義母上は元気かなぁ……。
「…………」
それまで全く関心を示さなかった私が絵巻を熱心に観始めたので、曼殊院たちはどうしたことかと怪しみつつも、ともかくそれぞれの絵巻へと関心を戻し始めたようだ。
いまさら絵巻に関心など持つはずがないことを知っている霞だけが、私の異変に気づいていた。
直ぐ脇でおろおろとする気配が伝わってくる。だが、彼女に下手に動かれては状況を更に悪くすることは目に見えている。これ以上、曼殊院たちに付け入る隙を与えたくはなかったし、この場で醜態など絶対にさらしたくはない。
そろりと脇に回した手で、霞には何もするなと合図を送った。
そんな理性的な行動とは裏腹に、胃の痛みは最初ほどの衝撃はないにしろ、次第に深さを増しつつあった。痛みに伴い、じわりとこめかみや背中に嫌な汗が浮き出る。
絵巻に集中しようとすればするほど、意識は別のものへと飛んだ。
思えば、生まれてこのかた畠山ではこんな精神的苦痛に晒されることは一度としてなかった。理不尽ないじめというものに対して、私は耐性が無さ過ぎるのか……?
女らしい依存心を嫌い、男がする狩や剣に興じた私だ。誰にも頼りたくはなかったが、いまこの時だけは誰かが助けてくれるのなら、その救いの手を迷うことなく取っただろう。
だが———ここには助けなど存在しない。
霞はここ数日、清和に相談してはどうかとしきりに言ってきたが、どうしてあの清和に、その祖母の悪行を言えよう。逆に私の立場を失いかねない。
望まない結婚、望まない夫、望まない生活———この細川で、私はまったくの孤独……孤立無援だった。いや、それをいうなら、あの実家での最後の数日も同じか。
歯を食いしばりながら、曼殊院たちに気取られぬようそっと胃のあたりを押さえて、私は必死に痛みと闘った。しかし、痛みが去る気配はなく、いまや耳鳴りまでが始まろうとしていた。きっと、真っ蒼な顔をしていることだろう。
ここにきて侍女たちもその異変に気づいたのか。あからさまな厭味ではないひそひそ声が、頭上を飛ぶ小虫のように不快に行きつ戻りつしはじめている。
くぅぅ……このままでは気を失ってしまう。曼殊院の前で昏倒するくらいなら……いっそ、死んだほうがましだ!
屈辱と痛みに顔をゆがめた、そのときだった。
耳鳴りの中ですら、ぼわん、ぼわん、と派手に地響く音がした。部屋の中にいた者の視線が、いっせいに戸口へと流れる。
絡められた罠がわずかに緩んだように少しだけホッとして、私も虚ろな目をゆるゆるとそちらに向けた。侍女らしくない巨躯の持ち主が、転がるように戸口に控えるところだった。その体格はどうであれ、曼殊院の侍女が足音を立てるほどに慌てるなどというのは珍しいことだ。
「し、失礼いたします!」
「一体、なにごとじゃ?」
「恐れながら、き、清和様が、これより曼殊院様のもとにご挨拶に参られるとのこと」
一瞬、我が耳を疑った。
———清和が⁉︎
想定外の事態に、遠くなりかけていた意識が一気に戻ってくる。
「まあっ、清和がこちらに!?」
曼殊院にとっても、それは意外なことであったらしい。腰を浮かさんばかりに前のめりになると、控える侍女の後方……本殿に続く庇へと熱い視線をむけた。
戸口に平伏した侍女は早口に「もう、すぐそこの渡殿までおみえです」と悲鳴じみた声で告げた。
それを聞いた曼殊院はさすがに行動が早かった。我に返るや、控える侍女たちに清和を迎える準備を命じた。侍女達が慌しく動き始める。
にわかに色めきたつ部屋の中で、ただひとり私だけが取り残されたようでもあった。
あの清和が、ここに来る……。
事態に先に対応したのは、私ではなく霞だった。曼殊院の侍女に混じっててきぱきと動き回り、彼女に促されるままに、私もそろそろと座を移した。
意識の回復とともに耳鳴りは収まったものの、まだ万全というには程遠い。残る胃痛をかばう私に、霞はさりげなく脇息を添えてくれた。
「姫様、もう少しの辛抱ですからね」
励ますように、そっと私にだけ聞こえる小声で霞は囁く。
その気遣いは嬉しいが、何を根拠に「もう少し」などと云うのか理解不能だ。否、むしろ状況は更に悪くなる可能性だってある。下手をすると、前門の虎、後門の狼……になりかねない。
霞の近視眼的楽天振りが小憎らしくさえあった。
「………」
脇息に左腕を乗せて上体を預けるようにしながら、私はただ胃痛が引くのをゆっくり待つしかない。
懐紙で額にうかんだ冷や汗を押さえて、その隙間からそっと周囲の侍女たちに目をやると、それまでの私への執心はどこへやら、今は私のことなどまるで眼中にはないかのように、わらわらと御簾を巻き上げたり几帳や絵巻物を動かすことに余念が無い。
霞をまねて『地獄で清和……か?』と無理やり楽天的に考えてみて、自嘲的な笑みが浮かんだ。
四面楚歌の状況が打開されて助かったのは確かだ。だがしかし、事態が好転するとはやはり思いがたかった。一時避難に過ぎない。
少しずつ胃の痛みが和らいでいくのと同時に、私は落ち着きを取り戻す。
そもそも、どうしてあの清和がこの時点でここへ来るのか。
先触れをよこしているのだから、私がここにいることを知らないはずがない。ということは、あえて私のいるこの時に、挨拶に来るということだ。
……解せない。
まさか、祖母と孫とで嫁いびりでもするつもり⁉︎
嫌な予感に、人知れず身震いをする。
新たな緊張をはらみ始めて、いっそ清和が来るその前に退散してやろうか、今ならそれも容易に出来そうだと、戸口にちらりと目をやった。まさにそこに———奴は、現れた。
***
萌黄色の直垂姿も鮮やかに、清和は悠然と私の視界に飛び込んできた。悔しいが、その鮮やかさに見とれて、咄嗟に視線をそらせなかった。
清和はいつもの涼しげな瞳で部屋の中を一瞥し、長身を少し曲げて妻戸を潜りぬけると、ゆったりとした足取りで彼のために用意された上座へと向かった。そうして皆が見守る中、かすかな衣擦れの音とともに、まるで蝶が止まるようにふわりと優雅に腰を下ろした。
その姿も所作も、非の打ちどころがなかった。侍女の間から、ほうっと吐息が漏れ聞こえてくる。
清和は部屋の中の一同を見渡し、まず向かって右に座す私と目が合うと、ひどく親密に微笑みながら小さく会釈して見せた——そう、まるでいつもそうであるかのように。
私は内心ギョっとして、そのまま硬直する。
無視するならまだしも、一体どういうつもり⁉︎
いぶかしんだ直後、侍女たちの不穏な気迫を背後にびしばしと感じて、
おのれ清和、そういう腹づもりか!
と思わず歯ぎしりをした。
自分の人気を武器に、<女たちの嫉妬>という陰湿な小細工を弄するつもりね。
奥歯をかみ締めて、じっとりと清和をねめつける。
そんな私にかまわず、清和は向かって左に座す祖母に向かい挨拶を口にした。
「曼殊院様におかれましては、本日もご機嫌うるわしゅう」
「そなたも息災でなによりです」
曼殊院の声は心なしかいつもより高い。
「沙羅姫と歓談中とうかがっておりましたので、お邪魔かとも思ったのですが……」
ご一緒させていただいてもよろしいですか? といまさら事後承諾を得ようとする清和に、曼殊院は満面の笑みを湛える。
「邪魔などと、とんでもない!」
歓迎の意向をはっきりと示し、少し拗ねたような口調で続けた。
「最近はそなたが顔を見せてくれないので、寂しく思っておりましたよ」
申し訳ございません、と清和はその頭を深々と下げた。
「本来なら婚礼のあと夫婦揃ってご挨拶に伺うべきところを、軍議に加え山王丸の元服準備などいろいろと立て込んでおりまして、本日まで参上かなわず、大変心苦しく思っておりました」
「まあ……そうでしたか」
曼殊院は私の前では見せたこともない甘い顔で、ゆるゆると頭を上げる清和を愛おしそうに見つめた。
「そなたが細川家の嫡男として多忙なのは、承知の上。つい我儘を申してしまいました。今日こうして顔を見せてくれただけでも、嬉しく思いますよ」
傍から見れば、仲のよい祖母と孫のやりとりだ。
本当に、孫が祖母に挨拶に来ただけなのか……?




