七
曼殊院は———敵だ。それもひどく悪意を持った。
最初の一手で、不意打ち。二手目で煮え湯を飲まして私に醜態をさらさせようとしたけれど、これは失敗。続く三手目と四手目で実家と私を馬鹿にして、私が泣き出すのを待ったのかもしれないけれど、お生憎様。こちらはあんたが思ってる以上に冷静よ。五手目に詰とばかりに、清和は私の味方ではないと匂わせたけれど、私と清和ははなから天敵同士みたいなもの。それをご存じなかったのが残念ね。
会話が噛み合わないのは当たり前。最初から、彼女は私を好意的には受け止めていないのだ。
曼殊院も周りの侍女も、顔は笑顔だが、心の中は悪意に満ちている。
すべてを悟った瞬間、これまで制御していた分、一気に頭に血が昇った。
「曼殊院様……」
それでも表面上はつとめて穏便に対峙した。
「会うたこともないわたくしを過大に評価してくださっていたのなら、その期待を裏切ってしまって申し訳ない限りでございます。清和殿の言葉を真に受けるなという、先ほどのお言葉……ご忠告として有り難く胸にとどめ置きまする。仲睦まじい夫婦となるには、お互いをよく知らねばなりませんものね」
対する曼殊院も平然としたものだ。
「あら、そんな風に聞こえてしまいまして? もちろん、あの子のやさしい心遣いにも気づかず、己が身のほどを知らず懸想するような愚かな姫御が世の中に多いのは事実。ですが、畠山の姫ともなれば澄んだ鏡をお持ちでしょうし、身のほども十分わきまえておいででしょうから……ねぇ?」
「この沙羅姫では清和殿とは釣り合わない……そう細川家の方々は思っていらっしゃると?」
「ふふふっ……『畠山の今かぐや』がそんな事を言っては、周りの者たちが驚いてしまいますわよ」
言葉面は謙遜するなと聞こえるが、実際の声音には、わかりきったことを言うとみんなが呆れるぞ、という揶揄が含まれていた。
初対面の孫の嫁に対して、ましてやそれが畠山宗家の姫であることを承知の上で、よくぞそこまでという発言だった。
そっちがそういうつもりなら、こっちにだってそれ相応の振る舞いがある。
全面戦争じゃあぁぁああ!!!
私は沸々と煮えたぎる怒りを押し殺しながら、一呼吸の後『畠山の今かぐや』の鎧を装着した。
一同を前に、にっこりと艶やかに微笑みかける。
十八年の長きに渡り磨きをかけた、それはもう華やかで豪奢でうっとりととろける微笑み。かの楊貴妃や、月の天女もかくやという極上の微笑みだ。
侍女達が一瞬、はっと息を呑む気配がした。やがてそれは憧れに似た溜息へと変わり部屋中に拡散する。
それでも曼殊院だけは無表情のまま、平素と変わらぬ姿勢を見せていたのは、さすがというべきか。
極上の笑みを崩すことなく、私は心持ち身を乗り出した。困ったように少しだけ首をかしげて曼殊院をみやる。
「曼殊院様、ご挨拶の途中で大変申し訳ないのですが、今朝がたより気分が優れず、今もまたぼうっとなってまいりました。はるか昔に、細川へ嫁してこられた曼殊院様には、もう遠く朧な記憶かも知れませぬが……わたくし、輿入れの翌日がこのように嬉しくも辛いものとは存じ上げませんでしたの。昨夜は清和殿と二人で初めての夜を迎えまして……その、初めて会うたとは思えぬほど互いに心を開き、それはもう親密なひとときを過ごすことができ嬉しゅうございました。ただ、正直なところ……あまり眠れませなんだ。また目が覚めてからも、時折、昨夜のことを思い出しもして……ふふっ、曼殊院様のお優しい言葉も、なにやらよう耳に届きませぬ。本日はこれにて退出させていただき、体調を整えた上で、後日また改めてご挨拶に参上させていただきとうございます」
「まあ!」
嘘は言っていないつもりだ。どうとるかは、聞いた者次第ではあるが。
案の定、私の口上に想像を逞しくした侍女たちが、赤らんだり青ざめたり目を大きく見開いたり俯いたりと面白いように反応する中で、依然、曼殊院だけは悠然と構え続けていた。
私がそう言うのも計算済みとばかりに、ふいと曼殊院は不敵にほくそ笑む。
「そうねえ、沙羅姫は昨日も気分が優れないのでしたわね。華燭の典の折にも中座したそうだし……健康だけでもとりえがあれば、よろしかったのにねぇ。姫君としてさぞや大切に育てられたのでしょうが、そんな調子が続くようでは肝心の跡継ぎを産むことも出来ましょうや? せっかく正室を迎えたのに、これでは清和が不憫と言うもの。どこぞで美しく気立てのよい側室を見繕うてしんぜようか? さすれば、いっそ姫も肩の荷がおりて安心でしょうに。飽くほどに、夜もよく眠れるようになりましょうや」
ほほほ……と響く笑い声に、私は黙って立ち上がった。
片眉を上げて、一瞬憎々しげな目を露骨に向けた曼殊院だったが、私が座りなおす気がないことを悟ってか、さらにこれみよがしに侍女に囁いた。
「畠山も姫君がお一人きりでは選びようがないですものねえ。まあ、どんな姫でも女子であれば和睦に使えるのですから、よいご時世ですこと」
「ほんに」「まことに」と侍女がしかつめらしく頷く。
「これも宿命というものかしら。もし、そなたたちが畠山に生まれておればと恨めしく思うわ。気品も気遣いも違ごうておったでしょうに。さすれば、清和ももう少し華やいだ新婚生活を送れたであろうものを。ほほほ」
一時が万事、この調子だ。
これが、この一見穏やかで人のよさそうな尼君の、いじめのやり方だった。
そして、そんな曼殊院の陰湿で悪意に満ちた独壇場は、挨拶に赴いた初日以来、一日も欠かすことなく日課の如く続いた。
そこまで私を嫌っているのなら顔も合わせず無視すればよかろうと思うのだが、どうにも目の前に引き摺り出してねちねち虐めないと気が済まない性格らしい。
それでもひとしきり待てば次の展開に移行するだろう……つまるところ、そのうち飽きるだろうと、私は時折入れ替わる怒りや不快の感情を抑えながら、冗長に曼殊院の様子を見守った。
だが———。
恐ろしいことにこのババアの負の力は、いっこうに衰える気配を見せなかったのだ。
最初のうちはともかく、そのうち怒りを通り越して、次第に言葉もなくただ呆れるようになった。これが隠居した尼君のすることなのか!? あまりにも娑婆気が強すぎる。
姫君育ちの私だって、協調性というものが欠落しているわけじゃない。無益な争いより、出来ることなら何事も穏便に済ませたいもの。だから場合によっては不本意であっても相手に合わせる努力もする。
箏を弾けといわれれば弾くし、和歌を詠めといわれれば詠む。
しかし、弾けば技巧的過ぎて優雅さに欠けるだの、詠めば取り澄ましていて可愛らしくないだの、なんだかんだで文句がつけられる。
華やかな衣を身にまとえば、派手すぎる。大人しくしていれば、細川家の正室として地味すぎる……。
私『個人』がなのか『嫁』がなのかは定かではないが、結局のところ、曼殊院は何をやっても私の為すことすべてが気に入らないのだった。
そして今日も、知ってか知らずか——いや、このババアのことだから、知っていてわざとだろう。胃のムカツキを助長するかのような、粘着質ないじめを飽きることなく展開していた。
*
お付きの侍女に持参させた付け届けの品——桃の枝を添えた引千切——を、曼殊院はさして嬉しくもなさそうに受け取ると、「時節を過ぎてなんだかありがたくないわねぇ」とか「畠山は神仏に拝み込んでまでややを授かりたいみたいで浅ましいわねぇ」などと言い放ちつつ、その場でペロリと二個平らげた。
そばに控える侍女たちに残りを振る舞って、私からの気遣いなどこれで消えましたとばかりに反転攻勢に移る。
「……まさか、源氏絵巻をお持ちでないとは思いもよりませなんだ」
「畠山の姫君であれば、さぞやご立派な絵巻をお持ちと思うて楽しみにしておりましたのに。まこと残念でございますわ」
「ほんに、これではまるで肩透かしをくろうたようなもの……」
引千切に対抗するかのように、太宰府より明国の珍しい菓子が届いたのじゃった、と参上早々に曼殊院に菓子を振舞われた。が、実家が誂えた引千切ですら食べる気にならないのだから、況や珍しい菓子などと言われても、食指は動こうはずもなかった。そんな私の態度をなんと高慢かとひとしきり批判した後、いまは眼前に色とりどりの華やかな絵巻を広げて、絵巻合戦ができない私に当て擦りをしてるところだ。
目の前の絵巻は、確かに華やかで見事なものだった。
曼殊院ご自慢の、きらびやかな『源氏物語絵巻』だ。
その絵巻をめぐる侍女たちの曼殊院におもねった囁きに、私は毎度のことながら辟易する。
袖で口元を覆ってくすくすと笑う曼殊院、こちらもいつもと変わらず余裕たっぷりだ。
「これこれ、そなたたち。聞けば、沙羅姫は生まれこそこの京であったが、紀伊の国の鄙びた土地でご成長あそばされたとのこと。野山を駆ることはあっても、源氏のような雅な世界には触れる機会は少なかったのでしょう。ご興味がもてなくても、仕方がないというもの」
「まあ、曼殊院様、さようなことがござりましょうか」
「曼殊院様が所有の絵巻ほど豪華なものはなかなか無いにしても、畠山の姫君ならば絵巻の一つや二つはお持ちなのが当然かと……」
当然、私だって絵巻の十や二十は所有している。だがそれらは、今は懐かしの紀伊の畠山本邸で、主不在のため日の目を見ることなく埃を被って眠っていることだろう。あの騙まし討ちに近い輿入れで、父上たちはそれらを輿入れ道具の中に入れるだけの余裕を持たなかったのだ。
だが、そんなことを切々と説明したところで、この曼殊院たちの前では負け惜しみにしか聞こえまい。第一、同じ土俵に上がること自体が馬鹿らしくもあって、私はただひたすら沈黙を守っていた。
反応に乏しい私ではいじめ甲斐がないのか、曼殊院はやや声高に続ける。
「世の中は広いものじゃ。そなたたちが知っている姫君と同じとは限らぬこともあろう。ほれ、堤中納言にでてくる『虫めづる姫君』のように」
「いわれてみれば……」
連日のことに傷つき怯え気味の霞の手前もあって、私は開始から半刻を過ぎたあたりで、可及的速やかにその場を退出する隙をうかがい始めていた。
これ以上我慢しては、本当に私の身体も保たない。
曼殊院たち一同がしのびやかに笑いを終えたその一瞬の間をついて、私は小さく咳払いをした。そのまま退出の挨拶を口にしようと唇を開きかける。
が、間が悪いことにその瞬間、胃の腑を強烈な差込が襲った。
「………っ!」




