六
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そもそも、曼殊院から挨拶に来いと要請されたのは、輿入れした翌日———庭の美しさに心慰められた直後のことだった。
姑に当たる清元殿の正室——北山殿(清和の母君)はすでに他界されており、近しい側室の方は先だって姫君の輿入れに同行して赤松に移られ、その他の側室や愛人方は居を別に構えてらっしゃるとかで、現在この屋敷にいる女君は清元殿の母君だけ——ちなみに、現時点で清和に側室はいない——ということは、霞を通じてかろうじて私も把握していた。
まあ、屋敷の古い人に挨拶するのは当然の事だし、細川と畠山の家柄が同格である以上、嫁いできた私から伺うのは仕方のないことなのかもしれない。
それにどうせ、この初顔合わせが済めば、あとは年に数回の行事の席で挨拶を交わすぐらいだろう……なんてかるく考えていたのだけれど。
——それが、大間違いだった。
「あらあら、ようこそおいでくださいました。わたくしたちね、評判の『畠山の今かぐや』に会えるのを、それはもう皆でたのしみにしておりましたのよ」
初めて対面したその時、曼殊院は満面の笑みで私を迎えた。
清和の祖母といっても、まだ御歳五十五歳の若々しい尼君で、通った鼻筋やすっきりした顔の輪郭など、そこはかとなく清和に似た美しい人だった。
清和みたいに冷ややかな感じではなく、穏やかで人好きする感じもよかった。
少し戸惑い気味の私をやさしく部屋へ招き入れ、にこやかな侍女たちを伴い、場を和ますような雰囲気での対面だった。
そう———第一印象は、決して悪くはなかったのだ。
「畠山より参りました沙羅にございます。ふつつかものではございますが、細川家の室として恥ずかしくないよう勤めてまいる所存でございますゆえ、何卒よろしくお願い申しあげます」
例によって心にもない挨拶をしつつ、私は嫁として卒なく振舞ったつもりだった。
「まあ、殊勝なおこころがけだこと。でも、そんなに肩肘を張らなくても良いのですよ」
曼殊院も大人らしい鷹揚な対応だ。全ては予定調和に見えた。
あと二、三のやりとりで挨拶は終了だな——と、私は下げた頭の中で早くも退出の秒読みを始めるくらいだった。
しかし。
そこから事態は、予想とは異なる展開を迎えた。
最初の一手は、曼殊院が放った独り言のような言葉だった。
「——なぁに、最初からまったく期待はしておりませぬゆえ」
一瞬、聞き間違いかと思って、私は起こしかけた頭を途中でとめた。一呼吸ののち、そのままゆっくりと顔を上げる。つくった微笑で、確認するように曼殊院の顔を上目遣いに捉えた。
曼殊院は暖かい笑顔のまま、「どうぞ、楽になさって」と勧めてくれる。
やっぱり、聞き間違い……? なに、最初だからもっと気楽にいきなさい——とでも言ったのかしら?
もしかして、私、自分で思っているよりも緊張してる?
腑に落ちないながらも、時機よく侍女が私の前に茶菓を運んできたので、私は勧められるままにそれを手に取った。ただし、手にした器を通して伝わってくる温度はびっくりするくらい高くて、中の茶に口をつけるのはためらわれた。絶対に火傷する。
なんなの⁉︎ 歳をとるとこんなに熱い茶を飲むのが当たり前になるの? それとも、最近の京はこういうのが流行ってるの?
手にした手前、そのまま戻すのは礼を失する。器を口元まで運んで立ち上る湯気を吸い込んで、形だけ飲んだ風に見せかけた。
ゆったりと座したまま、曼殊院はそんな私の所作をしっとりと眺め、いたわるように話しかけてきた。
「京より遠く離れた、紀伊畠山からの輿入れはさぞや大変だったでしょう」
器を戻して、私は軽く頭をさげる。
「ご心配いたみいります……」
「慣れぬ京風に疲れてみえるのでは?」
「いえ」
「寝所にしつらえてあった調度の類に、不足はなかったですか?」
「十分すぎるほどの誂えでございました」
「そうですか。香なども用意があったはずじゃが……」
「以前より愛用しておりました品と同じものを、ご用意いただきました。お気遣いに感謝しております」
「えっ? おや、そうでしたか」
意外なほど大袈裟に驚いて、義理の祖母は袖を鼻先に当てた。
「では、なにやら獣くさいと思うたのは、気のせいか。畠山のものならともかく、細川の香が田舎じみた匂いを発するとは思えませんからね」
あまりにもさらりと言われて、危うく「ああ、そうですね」と聞き流してしまうところだった。
だが、今度こそ聞き間違いではない。曼殊院ははっきりと言ったのだ。
私のことを——畠山の姫を獣くさい、と。
それでも私は瞬きを二度して、冷静を保った。
うん、大丈夫。緊張のせいでおかしくなってるわけじゃない。私は正常。
念には念を入れて脇に控えた霞にも視線を投じてみた。霞はまん丸な目で曼殊院を見つめるばかりだ。その驚き振りが、取りも直さず我らの正常さを物語っている。
ということは———おかしいのは、この祖母ということになる。
ああ、そうかと私は考えを改めた。
お若くは見えるが、すでに五十路も半ば。耄碌がはじまっている……ありていに言えば、呆けてらっしゃるということか。
或いは、分別のある五十路の尼君だけに、孫の嫁の緊張を解こうと、ひどく斬新な冗談を繰り出されたのか。
私は眼前の祖母が、そのどちらを実体としてらっしゃるのか見極めようと眼差しを強めた。瞬きもせず曼殊院を観察すること数秒。
「では、慣れるまではさぞや大変でありましょうが、この細川邸でのこと、京での武家の振る舞いやしきたりなど、一日も早う習得してくださりませよ。わからぬことなどあったら、遠慮のうわたくしや古参の者たちに訊いてくりゃれ」
曼殊院は前言には一切触れることなく、親切めかして微笑むと、自分の前に出された器を取り上げた。小さく茶をすする音がして、枯れぎみの喉が上下に動く。
笑いは一切おこりそうにない。
「………」
私は開きかけた口を、思い直して閉じた。
このどこか噛み合わない会話が意味するところは、何なのか。
漠然とその答えがわかってはいたが、あえて結論を先送りにする。
そもそも、情報が少なすぎた。曼殊院という人がどのような性格で、この細川でどのような立ち位置にあるのか、嫁して間もない私はよくわかっていない。勝手な早合点で恥をかくのは避けたいし、最初の印象がこの後の関係に影響を及ぼすのは必定だ。
ぐっと自分を殺して、ここはもう少し様子を見るのよ、沙羅! と私は自らを鼓舞する。
退出する絶好の機会は、こうして失われた。
喉を潤した曼殊院はふぅっと息をついて、天井あたりへ視線を彷徨わせながら、ポツリと付け加えるように口を開いた。
「それにしても、評判と言うものは存外あてにならぬものねぇ」
……は?
孫の清和と同じようなことを口にして、視線を戻した曼殊院は、お付きの侍女たちと目配せをしてなにやら含みありげに笑うばかり。はっきりと続きを口に出そうとはしない。やがて、話題を変えるように、
「そうそう、清和とはもうたくさん話しをされましたか?」
出し抜けにそう尋ねられた。
急に清和との事を訊かれて、私は顔には出さないまでも焦る。
清和とは昨日の今日で話などろくにしていなかったし、話以前に私たちの仲は決裂している。けれど、敵とも味方とも知れない——否、限りなく前者寄りの匂いがする祖母君に、正直にそんなことを話せるわけがない。
「ええ……まあ……」
もごもごと曖昧な返事を返すしかない。
「そうですか。それはよかった。きっと、楽しかったことでしょうねぇ」
一人で満足げにうなずき、曼殊院は孫夫婦を思いやる慈愛に満ちた笑みのまま、はじめて私の双眸を正面から捕らえた。
顔は笑っていても、その眼は笑っていない。その眼と同様に挑戦的な声が続いた。
「あの子はやさしい子ですからねえ。それはもう、どんなに欠点のある姫であっても誉める事しかいたしませんのよ。昔からずっとそう。ですから、噂と現実がどれほど違っていようとも、姫を傷つけるようなことは決して口にはいたしますまい。安心なさいましね」
それはおそらく、投げた本人が思っている以上の変化球だった。
咄嗟にどう受けとって、はたまたどう返していいものか分からず、私はしばし言葉を失う。
清和は私のことを「馬鹿女」と平気で罵る輩だ。私を傷つける発言も厭いはしないようだった。現に昨夜も、『畠山の今かぐや』とはよく言ったものだ、云々と血が吹き出しかねない程の皮肉を浴びせられた。
しかし、曼殊院の言葉は、そんな清和の姿を打ち消している。
『優しい孫の清和は、昨夜からおまえに対してさぞや優しく歯の浮くような言葉を並べ立てたのだろう。だが、それは優しさからで、真実ではないのだぞ、おまえは評判ほどの姫ではないのだぞ』と釘をさしているのだから。
無言で思考をめぐらす私に、わざと聞こえる音量で曼殊院はつぶやく。
「……不憫なことよのぅ。どうやらお頭の出来も評判には程遠いようじゃな……」
思ったような反応がないのが面白くなかったのか。清和に似た底冷えのする、けれど清和以上に底意地の悪い声だった。
小波のように、曼殊院に追従する侍女たちの嘲笑がひろがる。
「くすくす。まさか、さようなことがござりましょうか……?」
「『今かぐや』ともいわれるような姫君ですのに……」
「なんだか私がっかりしてしまいましたわ。古の物語の可憐で賢しいお姿を想像しておりましたのに……」
沈黙を貫く私を、可笑しそうに侍女たちとちらちら様子見する曼殊院。その姿に、私はついに保留にしていた結論を出した。




