ニ
丘の上に、顔を覗かせている一匹の狐がいた。
斜面の少し下で地虫か何かを啄ばんでいる山鳥を狙っているらしい。私たちの姿には気づいているようだが逃げる気配はない。
素早く矢をつがえてぎりぎりと弓を引くと、軽快に飛び出してくるその狐めがけ、えいっとばかりに矢を放つ。
風をきる音をさせて狐めがけ一直線に飛んでいった矢は、一瞬緑の中に溶け込むようにして消えた。その直後、狐の前足と後足の間のわずかな隙間に突き立った。
危ういところで命拾いした狐と山鳥は、あっという間にもといた丘の向こう、あるいは天空へと逃げていく。
「おやおや…」
鷹丸はどこか嬉しそうに目を細めて、短い草の間に突き刺さった矢を見やった。
私はがっくりと肩を落す。
「……とってきて」
「はい。ただいま」
矢を拾いに馬を駆る鷹丸の姿を目で追いながら、吐息混じりにぐるぐると馬手の肩を回した。
冬場の狩りは嫌いじゃない。
それなりに獲物だっているし、雪の上に残された獣の痕跡を追い仕留めるのは楽しいものだ。
だが、残念ながら私がそれをすることを嫌う人がいて、冬場の狩りは許されていない。
私の我儘が通じない数少ない例だ。
「冬の間も稽古だけはしとくべきだったわ。やっぱり、少し腕が落ちてるみたい」
「いえいえ。わたくしはこれは天の啓示と取りましたね。神様が、そろそろ昔のような姫さまに戻られた方がよいぞ、とおっしゃっているのですよ。狐は神のお使いともいうではありませんか」
「ここがもう禁足地って言うなら、神様じゃなくて仏様の領域でしょうが」
「神も仏も同じでございますよ。あまねくこの世を照らす尊き方々が、姫さまに忠告をなさっているのです」
鷹丸は拾ってきた矢を差し出すと、ここぞとばかりに身を乗り出して、私が口を挟む隙を与えなかった。
「姫さまは、やはり姫さまです。世間の誰が見ても姫さまらしいと思われる生き方一本に絞られた方が、よろしいにきまってます。大体どこの世に遠乗りには行くわ、狩りはするわ、あまつさえ太刀は振り回すわなんていう目茶苦茶な姫がいるんです? 姫さまがお生まれになってはや十八年。その昔は実に姫さまらしく、都では『畠山の今かぐや』などともてはやされて、私は鼻が高うございました。それが……それがっ、十になられた頃から武芸や狩などに興味を示されて……。沙貴様亡きあと姫さまをお育てになられた北の方さまが、今の姫さまをご覧になってどの様にお嘆きか……その心中をお察しすると、私はもう面目がなく……」
鷹丸の説教が始まったら、当分は止まらない。
近頃では、これは鷹丸の鬱憤解消法なんじゃないかと思うくらいだ。
私は仕方なくそっぽを向いて、さっきの山鳥でもいないかしらとあちらこちらに目をさまよわせた。
昔の話をされても困る。今も昔も私は私なのだから。
たしかに幼い頃は、姫君たるもの静かに慎み深く女性らしい嗜みだけを身につけて生きなさい、と教えられて、私もおとなしくそれに従ってきたものだ。
だが正直なところ、私の本質は男勝りなものだった。
自覚したのは帯解の儀も終えた十のときだ。
ちょうどその頃、やむを得ぬ出来事に遭遇し、自身を守るのは自身でしかないと痛感した。
そして幸か不幸か私の周りには理解ある兄上たちがいて、彼らはこっそりと私に太刀の扱い方や馬の乗り方を教えてくれた。
まるで弟の相手をするように。
そんな私たちを父上も笑って黙認していた。
ところが。
私の稽古が過熱して、鷹丸たちをあっさり追い越し、今や兄上たちにも劣るまいという域にまで達した時、突如、武芸禁止令が出たのだ。
出したのは義母上だった。
義母上というのは、上の二人の兄上の実母で、父上の正妻にあたる方だ。
一番下の兄上と私は側室腹で、義母上の実の子ではない。
とはいえ、私にとって義母上は、生まれて顔も覚えないうちに亡くなってしまった実の母上よりも、本当の母のように思える人だった。
その義母上がある日、父上の放った「沙羅は女にしておくには惜しい。
そこらの生っ白い御曹司よりも、いっそ優れた武将になれそうだ」という冗談を耳になさったのだ。
これがまずかった。
彼女はそれをただの冗談と聞き流すことができず、兄上たちにこれ以上の稽古をつけることを禁じたのだ。
でもそれは、私を危ない目に遭わせたくないという配慮からで、鷹丸がいうような嘆くというほどに大袈裟なものじゃない。
現に、冬場でなければ狩は解禁だし、庭で太刀の稽古をしていても一人なら怒られない。
それに私だって、そうやって義母上が心配しているのを知っているから、それなりには気を遣ってる。
つまり、彼女に気づかれないよう行動している。
……知らなきゃ、心配のしようがないってものだ。
そもそも、鷹丸や乳母たちは細かいことにうるさすぎるのだ。
自分で言うのもなんだが、幸い私の見かけは十二分に女らしい。
おまけに小さい頃やらされたおかげで、姫としての教養全般——手習いに裁縫、箏の演奏に和歌など——は文句なく身についている。
これ以上の女らしさ?
そんなものがあるとしたら、それはなよなよした依存心しかない。
昔話の貴族の姫君のように、夫の訪れをひたすらまち、来ぬ人を恨んではよよと泣き暮らすとか……はあー、人生終わってるわ。
そんな人生、土下座されても御免だ。
絶対いらない。
「姫さま……沙羅姫さまっ! わたくしの申し上げることを聞いてらっしゃいますか!?」
あらぬ方を見ている私に向かって鷹丸がひときわ大きな声をあげたので、私はしぶしぶ目を戻した。
「聞いてるわよ。帰って筝でも弾けって言うんでしょ」
「その通りでございます。筝がお嫌なら琵琶でも結構でございます。つい先だっても、北の方さまが久方ぶりにお聞きになりたいとおっしゃっておいででしたよ」
……おまえは、義母上の代弁者か。
言いたい事を言ってすっきりしたらしく、鷹丸はニコニコと笑っている。
その様子を見ていると嫌味の一つも言ってやりたくなったが、また先程の説教をくらわされてはたまらない。
私は仕方なく、馬の手綱を引いた。
その時だった。
「……⁉︎」
左後方の茂みに気配があった。
私たちが出てきた茂みよりもより深い。
斜面の下手にあたり、小さな沢かくぼ地になっているようで、笹や雑木の背丈も高かった。
跨っている馬が幾度か抗うように鼻をならせる。
私は一度は取った手綱をするりと落した。
「……姫さま? いかがなされました?」
再び矢に手をのばす私に、さすがの鷹丸も異変を感じ取ったらしい。
同じ茂みの方に視線を這わせた。
地に積もったままの枯葉や枯れ枝を鳴らして、こちらに近づいてくるモノがいる。
囀っていた春の鳥の声はいつのまにか消え、深い静寂と高まる緊張感があたりに漂い始めていた。
……狼や山犬の類いではない。あいつらは足音をたてない。
それなりに嵩高い獣——猪か鹿……いや、熊だろうか。
小動物の動きでないのだけは明らかだった。
「ま、まさか……」
同じ事を連想したらしい鷹丸は、
「ひひ、姫さま、まだ間に合います! 逃げましょう!!」
馬の手綱をひしと握り、押し殺した声でそう言うや、私の乗っている馬の手綱をも掴もうとした。
私は静かにそれを拒絶する。
「おやめ。大丈夫……いけるわ。いざとなったら、おまえは逃げなさい」
手にした矢を素早く弓につがえて、ぐぐぐっと引いた。
「そんな、姫さま……」
恐怖心がなかったわけではない。だが、それよりも先行して、私には挑戦したいという挑む心があった。
この心が、幼い頃から私のうちに内在していた男の気性だ。
「さあ…来い……」
ペろりと唇を舐めて、私はガサガサと音をたてて動き出した茂みに向かい、限界まで矢をひきつけた。
そして、その茂みの隙間から大きな黒い塊が見えた刹那———
先手必勝!
っじゃない!
——これはまずい‼︎ 熊じゃ、ない!