五
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新・細川邸の西の対屋の庭先には、趣のある草木が絶妙の配置で植樹されている。私の輿入れに合わせて植え替えがなされたらしく、年中庭を眺めても飽きないような四季折々の系統となっていた。
どなたの心遣いなのか知れないが——少なくとも清和ではないと思う——そんな庭の機微は、明けた初夜の翌朝、ここはもう細川なのだという絶望的な私の心を幾分慰めてくれた。
あれから、半月余り——。暦は弥生に入り、あの日はまだ固く蕾だった桃の花が、今日はもう満開の盛りを過ぎ、時折ハラハラと薄紅の花びらを風に舞わせている。
その桃花の前では先ほどから、私付きの年若い侍女が菓子に添えるためのひと枝を吟味していた。ややして小さく頷くと、侍女はまだ開いてまもない花が五、六輪ついた良い枝振りを選んで慎重に鋏を入れた。
ああ、もっとゆっくり選んでいいのに……。
「姫様……そろそろ曼殊院様のご機嫌うかがいに参る時間でございますが……」
霞の遠慮がちな声が背中にかかって、私はのろのろと視線を室内に戻した。今朝がた実家(京の畠山邸)から届いた引千切(餅)が行儀よく台盤の上に並んでいる。
婚礼のあれやこれやで桃の節句には微妙に間に合わなかったが、いずれ私の元へ届けるよう誂えていたらしい。
賞味一日の生菓子であるが、とても一人で食べ尽くせる量ではないので、細川家への付け届け分も含まれているということだろう。
「……うん、わかったわ。用意する」
憔悴気味の私を背後から支えるように立たせると、霞はてきぱきと準備を始める。
嫌なことというのは、嫌であればあるほど待ったがきかない。いつも驚くくらいの早さで迫ってくるものだ。半月前の輿入れしかり、そして今から行かねばならない曼殊院への挨拶しかり。
朝餉を終えて間もない巳の刻近く、私は衣装を整えて、細川邸の東北の対屋に出向く。それが輿入れした次の日からの日課になっていた。東北の対屋にいる前当主の正室……つまり、清和の祖母にあたる尼君の曼殊院さまへの、ご機嫌うかがいのためだ。
霞が用意した桜襲の袿を羽織って、仕上げに桧扇を袴に差しこむ。しゅっと袿の裾を捌いて几帳の影から出ようとしたその時、胃の府のあたりから苦いものがこみ上げてくる気がして、私はとっさに手で口もとを覆いその場にうずくまった。
「姫様っ!」
駆けつける霞の手を肩で払って、視線を格子戸の向こうの緑にやる。そのままゴクリと生唾を飲んだ。
「大丈夫でございますか?」
「……大丈夫よ。すぐに、おさまる、から」
吐き気をこらえ、絶え絶えに答える私の横顔を見ながら、数秒の後、霞は何かに気づいたようにはっと息を呑む。
「姫様……、あの、それは……その……」
口篭もりながら、とんでもないことを口にした。
「……恐れながら、もしや……ご懐妊の兆しでは……」
「おまえは阿呆なの⁉︎」
一喝して、私は手の甲で唇をぎゅっとぬぐうと立ち上がった。
なんてことを言うんだ? まったく、吐き気も吹っ飛ぶわよ。
「私の側仕えなら、ちゃんと思い出しなさいよ。つい先週、私には月のものが来たわよね? そもそも、輿入れして半月ばかりで懐妊がしれるだなんて姫がどこにいるのよ。むしろ、そんな事になったら畠山の信用を失う大問題になるわよ。いくら姫君育ちだからってね、お前よりはイロイロ知ってるのよ」
声高にしかりつける私に、霞はおろおろと戸口の向こう——他の侍女たちがやってきはしまいか——を気にしながらも、小声で続けた。
「しかし姫様、ここ数日は特にお身体の具合が悪いわけでもないのに、ご気分が優れぬようでしたし、お食事もなかなか進まぬ様子でしたから……清和様は、その、毎夜こちらにお渡りになってらっしゃることですし」
「清和が渡ってきたからって、必ずしも……」
言いかけて、さすがに私も続く言葉を飲みこんだ。
霞が訝しげに私を見上げる。
私は苦虫を噛み潰したように、渋い表情を浮かべたまま、もう一度唾を飲みこむと几帳の影から足を踏み出した。
——輿入れから半月。清和が毎夜、部屋にやってくるのは事実だ。だが……。
はっきり言っておこう。
私たちの間に夫婦の営みは存在しない。いやそれどころか、会話すら存在しない。
初夜の夜に言い争った通り、私は清和の妻になる気はなかったし、向こうもその気はなかった。清和はただやってきてとなりの部屋(几帳で仕切った向こう側)で休み、朝、霞が来るまでに起き出して、無言のまま朝餉を取ると、本殿へと戻っていくのだ。
仮面夫婦に——子供は作れない。
「とにかく、懐妊とかじゃないの。これは……」
不調の原因はわかっていた。いわゆる、精神的苦痛だ。
清和のことはさておき、今私を最も苦しめる精神的苦痛の根本は、九分九厘、曼殊院の存在にある。御機嫌伺いという名の連日に及ぶ面会は、これまでの人生で経験したことのない種の苦痛を私にもたらしていた。
それに比べたら、というかむしろ、先週は月のもの(生理)がきて、生まれて初めて「月の障りって素晴らしい!」と感激したくらいだ。
なぜなら、その期間は不浄を祓うために物忌と称して、人と会うことを極力避け、自室に引きこもることになるからだ。当然、曼殊院への挨拶もその期間は取りやめとなる。
はぁ〜、まさに極楽のような数日だった。以前は不快で憂鬱でいっそ来なければいいのにと思っていた月のものが、もう月に一度じゃなくて毎日でもいいと思えた。あっさりと物忌が明けたときには、健全な肉体を持つ自分が恨めしかった。
ならば、逆に曼殊院の物忌に期待をしたいところだが、よくよく考えてみれば、残念ながらとっくに月のものは上がってらっしゃるお歳か。
曼殊院のことを考えると霞に八つ当たりをしそうで、目を合わさないままぼそりと応えた。
「……気鬱にすぎないわ。この私を細川に売った実家からの差し入れの菓子なんて見たから、余計気分が悪くなっただけ」
「そうですか……」
今一つ納得いかない様子だったが、それでも霞はそれなりに私のことを心配してくれているようで、
「本当にお加減が優れぬのなら、本日のご挨拶はご遠慮申し上げてはいかがですか……?菓子の付け届けならば、わたくしが手配いたしますゆえ」
なんてしおらしくすすめてくれるじゃない。
私だって、できることならそうしたいわよ。曼殊院の顔を見ないで済むなら、毎朝えずいたっていいわ。
でも、そんなことしても無駄だという事もここ半月でわかった。
「……私の具合が悪けりゃ、向こうからやってくるでしょ。流石に物忌中はなかったけれど、その翌々日に行き渋ったら、まさかの来襲なんてね。何刻(時間)も居座られたんじゃ、よけい具合が悪くなるわよ」
戸口で振りかえると、霞は神妙に頷いた。その視線が、近づく足音に反応して、渡殿を見渡す格子戸へと移動する。
どうやら、ごたごたしているうちにお迎えが来てしまったらしい。
曼殊院という方はよほど暇なのだろう。私の挨拶伺いが遅いと、有難いことに向こうから様子見をよこしてくださるのだ。
渡殿へと向きなおりながら、私はふぅぅと深く息を吐き呼吸を整えた。それから穏やかな表情をつくって、こちらへと渡ってくる侍女を迎えた。
侍女が跪いて口を開く前に、私の横をすり抜けて霞が労いの言葉と一緒に、今から曼殊院の御前に向かうので先触れを宜しく、と頼んだ。
心得たもので侍女は文句も言わず、畏まりました、と今来た渡殿を引き返していく。
そのあとに続くように、西の対屋から本殿に続く渡殿を渡り、私は曼殊院の待つ東北の対屋へと向かった。




