四
「どうかなさいましたか? 何やら、小さな悲鳴が聞こえましたが……」
———ああ。もう、今度こそ終りだ。
私は妻戸に背を向けたまま、静かに頭を振った。
「そうですか。ご気分はいかがですか? すぐれぬようでしたら、薬湯を用意させますが」
「けっこうよ」
ひとこと答えて、額にかかる髪をかきあげた。
こうなったら開き直るしかない。開き直って、はっきりとこっちの正体と意志を告げてやる。それでもだめだったら……その時は、太刀を交えてでも逃げてやる。
私は袿の裾を素早く捌いて、妻戸へと振り返った。
薄暗い戸口に立って、初対面のときと同じようにどこかぼんやりと穏やかな表情で私を見ていた貴公子は、逆光に慣れ私の顔をはっきりと認めると、ほんの一瞬その切れ長の目を細めた。やがて、小さく口元だけで笑う。
「………化粧を落とされたのですね。幾分、幼くなられた」
「化けの皮が剥がれたとでも云いたいの?」
凛と顔を上げて、私は本来の私を取り戻す。
だから、あんたも本性を現しなさいよ———とばかりに、それまでとは打って変わって好戦的な私に、清和はやや戸惑ったようだ。幾許かの沈黙のあと、相変わらずの穏やかな表情で一歩こちらへと近づいた。
「なにやら、私は嫌われてしまったようですね」
「………」
「素のままでも姫のお美しさに変わりはないと申し上げたつもりだったのだが……お気を悪くされたのなら謝りましょう」
あくまでも、見知らぬ貴公子を貫き通すらしい。
「へえぇぇ。謝るなんて……そんな殊勝なことができる男だったのね、あなた。それとも、相手がどこぞの馬鹿女ではなく、畠山の姫なら別だということ?」
「……姫?」
清和は依然、心底困惑したような様子で私を見つめている。
端から見れば、清和の反応は正しく、気がふれているように見えるのは私なのだろう。
万一、この男が狩場の似非貴公子とまったくの別人なら、以降、私は細川清和に<狂女>の烙印を押されることになるのだが……。
私には、確信があった。否、己の『負の記憶』に絶対的な執念をもっていたというべきか。
こうして二人だけで面と向かって対峙して、この目の前の男は、間違いなくあの狩の日の似非貴公子だと断言できる。
「物覚えが悪そうには見えなかったけど、私のこと覚えていないとでも?」
「———どなたかと、勘違いなされているのでは? 姫にお目にかかるのは、今宵が初めてですよ」
「……ほかの姫なら、その貴公子ぶりで騙せたかもしれないけど、私は違うわよ。生憎、あなたが思っているほど『馬鹿女』でもないの。……おっと! それ以上こちらには近づかないで!」
歩みを進めていた清和はそれ以上近づくことはせず、黙ったまましばらく私を見下ろしていたが、やがて軽い溜息をこぼした。
「どうやら、姫はお疲れが過ぎるようですね」
どこか傷ついたような声音を含ませて、独り言のように続ける。
「まあ無理もない、急な輿入れでしたからね。今宵はこの寝所にて、ゆっくりとお休みください。お話はまた、後日落ち着いてからにいたしましょう」
どこまでも、別人で通すつもりか。でも、そうはいかないわよ。
「話なら、今宵この場でつけましょうよ。似非貴公子」
「沙羅姫……」
引くつもりのない私に、清和は一体どうしたらいいのかと悩むように面を伏せて、長く大きな溜息をついた。
その溜息の深さに、本当にどうしようもない一方的な勘違いと理不尽な我儘を責められているような気がして、一瞬、私は揺らぐ。
まさか……本当に、本当に———あの狩の似非貴公子とは別人なの⁉︎
潮が引くように徐々に蒼褪めかけたそのとき、
「————……ちっ!」
高く響いた舌打ちに、私はえっ?と辺りを見回す。
いや、そんなことをしても、この部屋にいるのは私とこの清和だけで……。
今の舌打ちは紛れもなく、この目の前で面を伏せている清和が発したものに違いないのだが、あまりにも上品だったそれまでの態度との落差に、私の感覚がついていけなくなっていたらしい。
目を見張る私の前で、清和はゆっくりと面をあげる。
「——お互い、なかったことにしておけば、穏便に済んだものを……」
再び正面から見詰め合った清和は、もはや貴公子の仮面を脱ぎ捨てていた。この男は、やはり私が知る、狩場で出会ったあの似非貴公子に間違いなかった。
冷ややかな瞳が挑戦的に私を射抜く。
「最初から、どこかで見たことがあるようだとは思ったが……まさか都から離れた、あの山中で出くわした女だったとは。おまけに、さすがあの狩の『馬鹿女』だな。馬鹿ゆえに、融通が利かん」
微笑とは異なる形にゆがめられた唇が、微かに戦慄いている。それは、私へ向けられた嘲りなのか、運命への恨みなのか、それとも自分自身への憤りなのか……。
「……馬鹿はどっちよ。穏便とか融通とか云う、そっちの気が知れないわ。一生、別人のままで済ませられるとでも思ったの⁉︎」
「そう思ったから、ことここに至るまで初対面を演じたが……想像以上に、おまえが馬鹿だったから仕方ない。下手に騒がれては、面目がつぶれる」
「面目って……!」
私は言葉を失って、ただわなわなと体を震わせる。
清和はそんな私を一瞥して、寝所のある奥へと足を向けた。
「……ちょっと‼︎」
とっさに行く手をさえぎって、私は斜めに清和を睨みあげた。
「まちなさいよ、あなた! 面目云々って、まさか、この輿入れを了承するつもりじゃないでしょうね⁉︎」
「まさかも何も、すでに細川・畠山両家で決められたことだ。それに、婚礼の儀も終わっている」
「だから、受け入れるっていうの⁉︎ さんざん馬鹿だ馬鹿だっていう、この私と夫婦になるっていうの⁉︎」
「だとしたら?」
「あんたこそ、大馬鹿よ! 私は絶対に、受け入れたりなんかしないわよ! というか、そもそもこんな婚姻は無効よ‼︎」
「ほう……では、おまえはどうすると?」
「出て行くわ。いますぐに!」
その瞬間、行く手をさえぎるよう伸ばしていた左腕を清和につかまれた。咄嗟のことで踏みとどまることもできず、そのまま左肩からすごい力で近くの柱に押し付けられる。したたかに背中を打って、私は息をつまらせた。
「なっ……ん……」
両肩を押さえつけられて身動きのできない私を、清和は怒りを湛えた双眸で見下ろした。
「馬鹿も大概にしろ。婚礼の儀も終わっているといったはずだ。これは和睦のための政略結婚だ。おまえや俺の意志は二の次だ」
もうここに来るまでに、何度も聞いた正論だ。それを、この男も繰り返す。父上や兄上たちと同じように。
私と同じ、当事者であるにも関わらず———そして、お互いの本性を、皮肉にも知っているのに。
浮かびあがる嗤笑を隠しもせず、私は冷静な清和を見あげる。
「狩場で名を名乗らなかったことを、こんなに後悔するなんて思わなかったわ」
「……そうだな」
はじめて、清和が個人的な感情をみせた。
「噂など、本当に当てにならないものだ。あの狩場の『馬鹿女』と『畠山の今かぐや』が同一人物だと知っていたら、この縁談、何があっても破談にしたものを!」
心底、吐き捨てるように、憎憎しげに言い放ってくれる。
「なに自分ひとりが騙されたみたいな言い方してるのよ。騙されたのは、私の方よ! 文武に秀でた、優しい貴公子⁉︎ はっ、聞いて呆れるわ。根は傲岸不遜で嫌味なだけの男じゃない!」
「ふっ……優しい細川清和ならば、噂とは正反対のじゃじゃ馬のおまえでも受け入れてもらえると、期待でもしたのか?」
「なんですって⁉︎」
あの日と同じように冷ややかに笑う清和。私は押さえつけられた肩の下でぎゅっと拳を握った。それにチラリと視線を落として、清和はいっそう嘲るように笑った。
「なるほど『今かぐや』とはよく言ったものだ。縁談を断りつづけていたのは、やはり真の姿を知られるのを恐れてのようだな。俺は信心深くはないが、山の神か弘法大師か……いずれにしろあの狩りで天が与えた万に一つの機会を、俺はみすみす逃がしてしまったというわけか」
「……今更」
私はぶるぶると拳を震わせて、射殺さんばかりに清和を睨みつけた。
「今更そんなこと言っても遅いのよ! 私が好きで細川に来たとでも思ったら大間違いよ! あんたの妻になる気なんて、最初から爪の先ほども無かったんだから! 文句を言いたいのは和睦の道具にされた、この私のほうよっ‼︎」
輿入れさせた後で、断ったものをもクソもあるか! すべてあんたのせいだ! 馬鹿野郎‼︎
「力ずくでどうこうできるなんて思わないで! 刺し違えてでも、抵抗してやるっ‼︎ 和睦の意味なんて、最初からなかったようにしてやるわ‼︎」
我を忘れてわめく私を、清和はあの冷ややかな目で見おろしていたが、やがて私が息も絶え絶えに口を閉じると、押さえつけていた両肩から手を離してすっと体を引いた。不意に体が軽くなり、私は思わず腰をおろしてしまいそうになったが、そこは気力でとどまった。
荒い呼吸を整える私の耳に、清和の低い声が厳かにはっきりと届く。
「安心しろ。お前に言われずとも、こちらから願い下げだ。『馬鹿女』を妻にする気など毛頭ない。だが、既成事実などなくとも、和睦は和睦だ。それが不要になるときまでは、忘れるな」
「……ええ、ええ! 望むところよ! 一刻も早く和睦が解かれるよう、朝晩、神にでも仏にでも祈ってやるわ。何が東軍総領・細川よ!ここに比べれば、地獄の方がよっぽどましよ!」
さすがに言葉が過ぎたと思ったが、後の祭りだ。
「貴様……っ! 自分が今どこにいるか分かって言っているんだろうな⁉︎」
僅かに清和が声を荒げた時、渡殿の方から誰かがやってくる衣擦れの音がした。
すると清和はキッと私を睨んで、踵を返すように部屋を出ていった。
入れ違うように姿を見せたのは霞だった。
「……え? えっ⁉︎ 姫様、今のは……清和様では?」
「———そうよ。あのクソ野郎よ」
「姫様! またそんなお言葉を! かりにもご自分の夫になられた方に……」
「ならないわ」
「は……?」
言いきった私に、霞は間抜け顔で訊ねた。
「どういう事でございますか?」
「世間体と実生活は別だっていうのよ! 私はあいつの妻になんかならない」
「まあ……また、そんなこ……」
「うるさい! お前は何しに来たの!?」
癇癪的な私に逆らわないのが良策と見たのか、霞はおとなしく答えた。
「姫様お一人のはずが、何やらただ事ではないような声が聞こえておりましたので……弾正殿から清和様の用意が整ったとはまだ聞いておりませんでしたのに、一体、いつの間に清和様がお渡りになったのか——気づきませんでしたわ……」
「……用件がそれだけなら、もうさがって。とにかく、私とあいつは夫婦になんてならないの。合意の上よ。お前にも口出しはさせないわ。分かったわね!」
私の剣幕に押されて、霞はただこくこくと頷いた。おおよそ、事態がのみこめていないのだろう。
「じゃ、明日の朝はいつもの時間に起こしに来て。いいわね」
「はい……」
びくびくと身をちぢこませて、霞はあっという間に部屋を出ていった。
こういう時だけは素早いんだから。
私は大きく深呼吸を繰り返しながら仁王立ちのまま戸口を見つめた。
細川清和……あの二重人格男めえぇぇっ! どこまでも嫌な男だ。
狩りの『馬鹿女』とバレて大いに結構。今に目にもの見せてくれるわ。
鼻息も荒いままに、私は踵を返して夜具へともぐりこんだ。
何はともあれ、まずは健康な身体に戻さなければ、この先を戦い抜けない。
私はややもすると怒りによる興奮で大暴れしそうな自分をなんとか押しとどめて、輿入れのその初夜、東の空も白む明け方頃になってようやく、ひとり浅い眠りについたのだった。




