三
「失礼した。噂には聞いておりましたが、本当にお美しい姫なので、少々戸惑ってしまいました。こちらこそ、宜しくお願い申し上げる」
私は信じられないながらも、その一連の言動から一つの仮説を導き出した。
別人ならよし。でも別人でないのなら、つまり……この男は<狩り場で遭遇した馬鹿女>と<畠山の沙羅姫>が同一人物であると気づいていないのだ。
「は、はい……」
金縛りから解かれたように咄嗟に目を伏せて、私は手に汗を握ったまま、ついでにごくんと唾を飲んだ。
確かに、白粉で塗り固めている上、狩装束とは打って変わった、この姫君らしいおしとやかな格好に動作だ。『畠山の今かぐや』の先入観があったなら、すぐに私とは分からないかも知れない。
だが、そう考える私自身の中で、そんなわけがないだろう、と否定する声がある。どうして、私だけが気づいて奴が気づかないわけがあろう。
では、全部わかった上で、この男はわざとすっとぼけているのだろうか。
会ったときから冷静で、感情の制御の得意そうな奴ではあった。驚きを顔に出さない程度のことは、難なくやってのけるだろう。
全身を硬直させたまま視線を落としていると、おもむろに隣に控えていた弾正が立ち上がった。
びくりと身を震わせて過剰に反応する私に、彼女は先程と同様の優しい笑みを見せると、ゆったりとした動作で私の胸元の守袋を取りあげた。見守るうちに、それを清和の手にそっと触れさせると、その後、部屋の左側にある折釘にかけおいた。
どうやら、婚礼の儀式が始まったらしい。
弾正は元の場所に戻ると、女性にしては低めの艶のある声で、粛々と祝詞を述べた。
その後、控えていた侍女により、前に据えられていた手掛け台が側近くまで運ばれ、箸初めとして熨斗鮑を口にするよう勧められる。私は混乱もあいまって、彼女たちの為すがままに従った。
私のこの状態を理解して欲しい霞は、銚子の酒を鬻げに移し、さらに鬻げから蝶の飾りをつけた二本の瓶子に注ぎ入れるという、何やら回りくどい動作をのろのろと行っている。
何やってんのよ、霞……。
味のしない鮑を噛み締めながら、霞の行動を胡乱に眺めていると、今度は巫女姿の少女たちが静々と再入場してきた。手には朱塗りの三盃を載せた台と、式三献の膳が載る懸盤を持っている。三盃の儀を交わすための小道具一式だ。
同時に私は、はっと現実に直面した。
……これは、非常に、まずい……。
現段階で清和が私に気づいていようがいまいが、そんなことはどうでもいい。問題は、私たち二人が<夫婦>になるということだ。それだけはなんとしても避けねば……!
しかし、この困難な状況を打破する方法は見当たらない。それどころか、極度の緊張と空腹からか、苛々ばかりして思考をまとめる力すら失われつつあった。
そんな私の前で、霞は蝶の飾りつきの瓶子に酒を移し終え、満足そうにそれを弾正へと差し出した。
私の手には、当然のように盃が手渡される。
盃を拒みたい。だが、細川一門に囲まれたこの場で、私一人が拒みきれようはずもない。
もう、どうしたらいいのか分からなくて、泣き出したいくらいだった。いや、実際泣き出しそうな顔をしていたのかもしれない。
弾正が、いたわるような優しげな眼差しで、私の盃にほんのわずかに酒を注いでくれた。輿入れの喜びに感極まって、涙ぐんでいるとでも思ったのだろうか。
私は一瞬盃を見つめて、三度目の覚悟を決めた。こうなってしまえば、ええい、ままよ。
私は儀式ばって盃の酒を飲み干した。
*
どうにかこうにか表面上は平静を保ったものの、三三九度……量的には僅かであっても空っぽの胃にいきなりの酒は、あまり思わしくなかったらしい。それまでの混乱とあいまって、私の意識はその直後からしばし朦朧となった。
ハッと我に返ったのは、舞台が家臣たちの揃った大広間に移り、場内が華燭の典に興じている最中だった。隣に座す清和が不意に話しかけてきたのだ。
「姫、まだご気分が優れないのでは……?」
「い……いえ」
蚊の鳴くような声で答えながら、私は激しく瞬きをした。断片的な記憶が、瞼の内に蘇る。
儀式を終えたあと、弾正たちに先導されてこの広間に移されたのだ。そこで清和の父であり、この細川京兆家の総領である右京大夫清元殿とお会いして、そこに居並ぶ一門や家臣を順に紹介された。
本来ならば、親族や家臣と対面するのは、お色直しといって婚礼の儀式のあと三日過ぎてからが慣例なのだが、今は戦の最中ということもあり、そのあたりの時間を端折ることを、あらかじめ畠山が提案してきたらしい。儀式や伝統を重んじる畠山・細川の両管領家にあっては異例のことだったが、今回は細川家もそれを受け入れた。
戦の最中ゆえですって? はん、そんなの関係ないわよ。父上たちは一刻も早く、既成事実を作りたかっただけのこと。逃げられないよう、私の顔を細川家の人々に覚えさせようって腹に決まってる。
輿入れ先に送り込んでなお、私の逃亡を阻もうという実家の企みにまんまと嵌まっているわけだ。
私の心境など露知らず、清元殿はたしか私の名前について、沙羅双樹がなんだかんだと言っていたような気もする。その後、白拍子による祝言の祝舞が行われ、料理が次々と運ばれてきて、みんなが謡ったり舞ったりするのを、私は張りつけたような笑顔で見ていた。だが実際には、ほとんど茫然自失の状態だった。そしていま——。
「無理なさらずともよいのですよ。お身体のお加減があまりよくないことは、お付きの侍女からきいております」
かつて馬鹿女と謗ってのけたその同じ声が、今は本当に心配そうに響いて、私は思わず伏せていた目を上げて、隣の『似非』ではなく『本物』だった貴公子をまじまじと見つめた。彼は先刻以来の優しい瞳で私を見下ろしながら、少しだけはにかむように表情を崩した。
私は再び背筋にゾクリとするものを感じて、慌てて目をそらした。
なぜだっ……なぜ、そんな顔をする!
おかしい! やはりおかしすぎる‼︎
時間の経過とともに酒気が消え、多少胃に食べ物が詰め込まれたことで、私の思考回路は慌しく再起動を始めた。
なぜだかは分からないが、清和は私に気づいていない。でなければ、どうして私を見てあんな表情になれる? 自分で馬鹿呼ばわりした女にのぼせるほど、まぬけではなかろう。
……ああ、本人に向かって、はっきりと訊いてみたい!
そんな私に懲りもせず、彼は再び話しかけてきた。
「本当に大丈夫ですか? お顔色が優れぬように見受けられますが……」
「清和の言う通りだ。疲れてらっしゃるのなら、無理をしてはいけませぬぞ」
清和の向こうから、清元殿が穏やかな父親らしい笑顔を見せる。
私の父上よりも一回りほど若いようだ。清和よりも少しだけ無骨な感じの、それでも十分に美丈夫な父上だった。
「我々に気兼ねせず、おやすみなさい」
「でも……」
「宴よりも、姫のお身体の方が大切ですから」
真顔でそんな事を言う清和に、私は心底怯えた。
相手が全く読めない。
そこで私は、またまた混乱しそうな頭を何とかするためにも、これがこの男の策略かもしれないと思いつつ、厚く礼を言ってひっそりと席を立った。
私のために用意された西の対屋へとむかう。
私に付き添う霞は、早く切り上げすぎたことに不満があるようだったが、裏切り者にはこれでも十分なくらいだ。
宴に借り出されているのか、西の対屋はしんと静まり人の姿がなかった。おかげで私はほっとする。ついでに、
「はああぁぁ」
気を抜くと人前でも漏らしてしまいそうだった大きな溜息を、思いきり吐いてやった。霞が呆れた顔でじっとその様を見ていたが、私はその無言の抗議を無視して、ぐるりと部屋の中を見渡した。壁際の鏡台が目にとまる。
そちらに足を向けながら、それにしても……と独白した。
一体、どういう巡り合わせなのだろう。よりにもよって、あのときの似非貴公子が細川清和とは……。しかも、私に気づいた素振りを見せぬところが怖い……。
だが、鏡をのぞいた私は、その時になって自らの変貌ぶりに気づいた。
これは、もしかしたら、気づかないかも……。
白粉で白くなっているのはもちろんのこと、自分でも驚くぐらいやつれていた。顔色どころの話ではない。これでは病人だ。
「霞、水! この白粉おとすわよ!」
「……でも姫様、まだこのあと……」
「いいから、早く用意して」
ぴしゃりと言うと、
「……祝言が終るまでは借りてきた猫のようだったのに、もう戻ってしまわれるとは、やれやれ……」
弟と同じようにぶつぶつ文句を言いながら、霞は私が化粧を落とすのを手伝った。それから堅苦しい婚礼衣装を脱ぐと、霞が用意してきた真新しい白い小袖に袖を通した。防寒のためにうえから袿を羽織るとようやく人心地ついて、私はぐったりと近くの柱にもたれかかった。
「では姫様、これを片付けて、明日の朝また参ります。なにとぞ<姫君>らしいお振る舞いでお願いいたしますわね」
「はあ……」
栄養不足にも関わらず、一時狂ったように回転した頭脳を休めようと、私は酷くぼんやりしていて霞の声は右から左に抜けていた。
彼女が妻戸から出て行き、その衣擦れの音も遠ざかったころ、私はぼーっと霞の言葉を思い起こして小さな悲鳴を上げた。
「ひいいっ!」
明日の朝って……明日の朝って……。
想像するのも恐ろしいが、このままでは私はあの似非貴公子と初夜を……いや、その先も延々と、夜を共にしなくてはならなくなるのだ……‼︎
「冗談じゃない……」
恥も外聞も、『畠山の今かぐや』もなかった。なんとか逃げようと立ち上がった。
その背後で人の気配がした。
そして、氷のような低く冴えざえとしたあの声が聞こえた。




