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京の街はいまだ一部が戦場になっているほどに荒廃し、殺気立っていた。その中を横切って移動する以上、いかに警備を固め安全と目される道を選んだとしても、絶対に何事も起こらない———と言い切ることは難しい。
私は輿に揺られながら、夕暮れの京を闊歩する賊、あるいは敵対する西軍の強襲に一縷の望みをかけた。だが、さすがに細川・畠山の両家を敵にするほど度胸のある者はいないらしい。期待も空しく、輿は無事なにごともなく、先年建て替えられたという真新しい新・細川邸の門をくぐった。
両家の者たちによる輿の受け渡しも順調に済み、やがて輿は私を乗せたまま妻戸を通り抜け、建物の中にまで担ぎ込まれた。
三間ほど先の部屋で輿を降ろされた私は、顔を隠すように「かづき」(角隠しのようなもの)を頭に被せられた。ふらつく足元を霞に支えられつつ、細川の待女房(介添え役)に先導されて、いったん化粧の間とおぼしき控え室に案内される。
部屋に落ち着くと、私たちを案内してきた待女房があらためて、深々と頭を下げた。
「これより沙羅姫様の介添えを務めさせていただく、弾正にございます」
四十路を過ぎたくらいの、ややふくよかな、どこか私の乳母の峰にも似た雰囲気を持つ侍女だった。輿入れの待女房を務めるくらいなのだから、古参のよく出来た侍女なのだろう。
その弾正は、ぼんやりとしたままの私に上品に微笑んで、それから実務を担う霞を几帳(パテーションのような仕切り)の陰に呼ぶと打ち合わせに入ったようだった。
その後、衣装の乱れを調えると、私は再び立ち上がり、婚礼の座敷に移動させられた。
主殿の一角と思しきその座敷には、格式を誇る家柄を象徴するように、見事としか言いようのない婚礼の用意が整えられていた。
磨き上げられた床の上には、蓬莱の台に栗や熨斗鮑、昆布を盛った手掛け台(という二重の台)、銚子や唯美な鬻げ、紙で折った蝶の飾りを口に付した瓶子が二つ飾られ、さらに足付き台には二組の鳥(雉)と鯉が載せられ、賑々しく左右に置かれていた。
それらを前に、畳を敷いた席がそれぞれ二つ、几帳を挟んで向かい合う位置に用意されていた。私はその下座にあたる席に座を勧められ、おとなしくそこに腰を下ろした。
人には悟られぬくらいの小さな溜息をつき、その席から左側に見える庭園を見やる。
最近流行の枯山水の庭園だった。よく手入れされている。砂に描かれた白波に、煌々と燃え立つ篝火の光が反射していた。太陽はとうの昔に沈み、月が昇る刻限だった。
「……姫さま、間もなく若君さまがお見えになります。お行儀よくしてくださいましね」
せっせと私の打掛の裾を整えていた霞は、仕上げとばかりに耳元で囁いて席から離れた。庭から目を戻して、目の前の几帳を見つめる。間もなくその向うに、私の夫となる男が現れるらしい。
目覚めてからもう何度目になるかわからない溜息をさらに一つついて、私はそっと左手をお腹に当てた。
霞のやつ、行儀を良くして欲しいのなら、何か食べるものを渡してからこの婚儀の席に送り出せというのだ。
目が覚めたことで活発に活動を始めたらしい胃は、今にも大きな音で鳴り響きそうだった。三三九度の途中でお腹を鳴らすのは、やはりまずいだろう。なにより、私の自尊心が傷つけられるじゃないか。
どれぐらいもつだろうか、などと胃の調子ばかりを案じているそのうちに、入口のほうからざわざわと人の気配が伝わってきた。ついに細川清和の登場らしい。
私は覚悟を決めて、左手を膝の上に戻すと、うつむくように視線を下げた。ややして、几帳の向こうに人の落ち着く気配がした。
いよいよ、対面の時だ。
巫女姿をした少女が二人で几帳を横にずらした。うつむいたままの私の視界に、純白の直垂が鮮やかに飛び込んでくる。
私は目を伏せたまま、ゆるゆると膝の手を床に下ろし、たいそう儀式ばって額づくと、型通りの挨拶を口上した。
「畠山頼政の娘、沙羅にございます。ふつつか者ではございますが、なにとぞ末永く宜しくお願い申し上げます」
それに応じて、細川清和が口を開いた。
「細川清元が嫡男、清和です。よくいらっしゃった。どうぞお顔をお上げください」
透き通った低い声が、私の背筋をひやりとさせた。生理的に嫌いな声ではない。だが、私の中の何かが警告を発している。
とはいえ、それが何であるのか考え込んでいる暇はなかった。私は依然、見せつけるかのようなゆっくりとした動作で面を上げた。
ぼんやりと視界に入る身体——組まれた長い両脚、その膝の上にのせられたしなやかで大きな手、直垂に隠されてはいるが、その手から想像できる引き締まっているだろう腕や胸、広い肩にすっと伸びた筋肉質な首筋……
それらは、ほとんど自棄になっていた私に、かすかな期待を抱かせるほどのものだった。
伏せた目を正面に向け、私はえいっとばかりに最後の一線を越えた。
最初に目に映ったのは凛とした切れ長の涼しい瞳だった。いい瞳をしている。
瞳以外にも、通った鼻筋や頬から顎にかけてのすっきりした輪郭といい、微笑しているような口元といい、ほれぼれとするような端整な顔立ちの貴公子だった。
なるほど……兄上たちと並ぶ……。
だが、そう思った刹那、
「————っ⁉︎」
私の目は、瞳孔に深く刻まれた屈辱の影を、そこに照合させていた。
ま、まさか——。
瞬きも忘れて、私は男の顔を凝視する。
こっ……こここ、この男は……!
喉元までせり上がった悲鳴を、危ういところでこらえた。
間違いない。目の前に座る男には、見覚えがある。
そう、忘れもしない、かつて私を『馬鹿女』呼ばわりした男!
あの狩で遭遇した似非貴公子。あいつが———ここにいる。
私の目の前に。
私の夫である男の席に!
こいつが————細川清和……⁉︎
「——————」
あ……ああああ!
このまま意識を失ってしまえたらどれだけ楽か。
誰か、これは夢だと言ってえぇぇっ!!
自分でも、見る見る血の気が引き、青褪めていくのが分かった。逃げ出したい気持ちを抱きながら、しかし、それを認めない矜持が、瞳を逸らすことすら許してくれない。
清和から目をそらせないまま、私は生まれてこのかたない後悔をしていた。
『今度会ったら額づかせてやる』⁉︎ なのに、どうだ。実際に額づかされたのは、私のほうではないか! こんな皮肉なことは初めてだ。
どうして私は、あの時、名を名乗らなかったのか!
名乗ってさえいれば、この輿入れは実現され得なかった。どんなに父上がごり押ししたとしても、きっと細川は断ってきたはず。そして二度と再びこの男と相見えることも、忘れがたい屈辱を思い出すことも、決してなかったはずだ……!
ほんの一秒か二秒の間に、私は驚愕と後悔を経て、覚悟に行き着いた。
ひとつ、瞬きをする。
次の瞬きまでに、目の前の貴公子が、今また冷ややかに笑うことは必至だ。
ところが———
「………?」
どうしたことだろう。
清和の反応は、想像していたものとは明らかに違っていた。
ぼんやりと、あるいは見ようによってはうっとりと私の顔を見つめていたかと思うと、次の瞬間、我に返ったように二度瞬きをして、こちらが驚くような極上の微笑みを浮かべたのだ。微笑みを……!
あの日の鋭かった瞳とはうってかわって上品で優しい瞳だった。そんな表情が出来るとは、とてもあの似非貴公子からは想像できない。まるで別人だ。
え———別人、なのか?
ものすごぉおく、似ているけれど、あの似非貴公子とは、赤の他人?
その別人のような清和は、落ち着いた低い声で囁くように云った。




