一
<登場人物>
沙羅姫…主人公。畠山宗家の姫君。
霞…沙羅の乳姉妹。姫付きの侍女。
細川清和…細川京兆家の若君。細川家の跡取り。
細川清元…清和の父。東軍総領・細川家の当主。
弾正…細川家の侍女
曼殊院…清和の祖母。先代当主の妻。
まるで梵鐘の中に閉じ込められて、四方八方からしつこく叩き回されるようだった。
ガンガンと容赦のない激しい頭痛に、私は無意識のうちに眉間にしわを寄せて両手で頭を押さえていた。だが、痛みはおさまらない。
体を捩っても、痛みから逃れる事は叶わない。それどころか、次第に背筋や額からすうっと体温がひいて、かわりに胸がむかつき、嫌なものが喉元までこみ上げてくる。
二日酔いの気分に似ていたが、一体どういうことだろう。酒はさほど好きではないし、宴で無理をして飲まない限り、こんな酷い有様にはならない。
だいたい、昨夜飲んだのは義貴兄様に勧められた一杯だ…け……!
とそこまで思い出して、私はガバッと身を起こした。あたりをうかがって、愕然とする。
見知らぬ部屋だった。
京風にしつらえられた部屋の真ん中に夜具が敷かれ、私はそこで横になっていた。辺りに人の気配はない。
国境の旧千早城屋敷じゃ、ない……。
どこが違うと言われても困るが、直感的にそう悟った。
首を巡らせると、唯一の出入口と思われる妻戸が目にとまった。戸の隙間から、眩しい日の光が差し込んできている。部屋は締め切られていて薄暗いが、外は日が照り輝く時間らしい。
兄上の裏切りは昨夜の事……と思ったが、現実的な時間の経過はつかめていなかった。ずいぶんと長く眠っていたような気もする。
あれだけ激しかった頭痛は目が覚めてから急速な勢いで遠のき、胸のむかつきも頭痛ほどではないにしろ徐々に治まりつつあった。
とりあえず状況を整理しようと、私は右手で軽くこめかみを押さえて、そのままうつむいた。その拍子に自分の身につけている衣装が目に入って、思わずギョッとする。
「なによ、これは……」
脱出時の男のような袴姿ではなくなっていた。
白練の下着に姫君らしい紅梅色の小袖を重ね、緋袴を履いている。打掛は幸菱を浮き織りにした白綾で、いつもかそれ以上に華やかで、いかにも姫君らしい姿だった。完全な礼服だ。間違っても寝間着がわりにする格好ではない。
私はいよいよもって確信した。
外に出て確かめてみるまでもなく、ここは国境の屋敷でも紀伊にある本邸でもはない。同じ畠山でも、京の畠山邸だ。
ようやく、裏切りのすべてがのみこめた。
昨夜……いや、ここまで私を移動させる行程を考えると、おそらく二、三日は前になるだろう。
家出を覚悟したあの夜、私はもっとも信頼していた兄上に騙されて、眠り薬の仕組まれた酒を飲んだのだ。
口にしたとき、やけに苦いと感じたはずだ、薬が入っていたのだから。そして私は眠らされたまま、船か輿かで運ばれてきた。……輿入れ先である細川の本拠地、この京へ。
まんまと先手を打たれたのだ。もはや、泣いても喚いてもあの楽園に戻る事は出来ない。私の意志を無視して、私の人生が進み始めている。
あわや混乱に陥りそうなところで、私は自分を何とかなだめようとした。
落ち着いて、沙羅!
そうよ、まだ完全に終ってしまったわけではない。
そう、こんな状況でも唯一の救いがあった。まだ、細川邸に入ってないことだ。
入ってない、と言いきるには自信がある。まさか、輿入れする本人を眠らせたまま祝言はあげられまい。
それにこの格好。これは、この先にある輿入れに備えて用意されたものだろう。
つまり、間もなく私を向こうに送り出すつもりなのだ。
「油断するには早いってこと、思い知らせてやる……」
寝起きの掠れる声で呟いて、私はのろのろと夜具から這い出した。人の気配は依然としてなく、不気味なほどの静寂の中に緩慢な衣擦れの音だけが響いた。
どうやらここに着くまで、私はほとんど飲まず食わずに近い状態にされていたらしい。からからに乾いた喉と、完全に空っぽらしい胃がキリキリと悲鳴を上げている。おそらく数度にわたる薬と、それに伴うわずかばかりの水しか貰えなかったのだろう。あまりの扱いに、更なる怒りがふつふつと沸いた。
だが、今は怒るより、食事をとるよりも優先すべき事がある。ーーー逃亡だ。
今度こそ、泣いても笑っても最後の機会になる。何としても成功させなくてはならない。
不幸中の幸いというべきは、ここが幼少期を過ごした屋敷だということだ。三年前の市街戦で屋敷の半分を焼失したとはいえ、新築したとは聞いていない。多少、造形が変わっていたところで、庭にまで出ればだいたいの位置はわかるはず。後は勝手知ったる『抜け道』から邸外に出てしまえばいいだけだ。
紀伊国内の屋敷にいたときよりもむしろ簡単なことに思えた。……妻戸を、開けるまでは。
その妻戸はなんの抵抗もなく、ひっそりと開いた。眩しく黄金に輝く西日が目に飛び込み、私は開かれた扉にもたれるようにして、二、三度激しく瞬きをした。間もなく外の明るさに目が慣れて、目の前に広がる光景が一望された。
妻戸のすぐ前の庇には、数名の侍女達が静かに頭をたれ、庭に下りる階の先には見事な白輿と、それを担ぐ侍たち、そして供をすると思われる立派な侍と侍女たちが畏まって控えていた。
私は声もなく、しばし唖然として立ち尽くした。
あまりにも郷愁的な情景だった。
その昔、心に描いた『竹取物語』の「かぐや姫の昇天」の場面そのものが、目の前に展開している。
私の登場に、一同は深々と平伏したかと思うと、微動だにしない。私が室内にいたとき同様、気配というものがなかった。
私は体中の力が萎えるのを感じた。ずるずるとその場にへたり込む。それを見定めたように、すぐ近くで聞きなれた声が上がった。
「沙羅姫様におかれましては、本日の細川家へのお輿入れの儀。一同、心よりおめでとう存じ上げ奉ります」
妻戸のすぐ脇に、霞は控えていた。やや緊張した様子で面を上げると、私をまっすぐ見据えて言を継ぐ。
「細川家より、お迎えの御輿でございます」
祝いの言葉よりも、一段と高らかに告げられた。——明らかな、牽制だ。
眼下を見下ろせば、なるほど畠山で見知った顔もあれば、全く見覚えのない者たちも多い。
畠山の人間だけでは心許なくて、あらかじめ細川に援軍を頼んでいたというわけね。
通常の輿入れならば、畠山の家臣が輿入れ先までの一切を取り仕切る。だが、私の最後の抵抗を予想していた実家は、先手を打って細川家の門をくぐる前から、細川家の家臣をよこすよう手配していたらしい。真意を告げずとも、人手不足とか護衛とか理由はいくらでも用意できるもの。
他家の人間がいる以上、どれほど意にそまぬとも、家名を汚すような行動はとれない。『畠山の今かぐや』の悲しい誇りが、私にそれを強いることを、霞はよく知っていた。
それに現実問題として、細川の家臣たちと大立回りを演じるだけの体力も、今の私には残されていない。
悔しいが、何もかもが計算されていた。私に味方は一人もいない。
睨みつけることすらできずに、ぼんやりと霞を見ていると、彼女はしきりに目配せをして輿のほうを気にした。無論、それを無視して彼女を困らせることも出来たが、ここにきてそんな大人気ない振る舞いをするのも無意味だろう。
私はしょうがなく口を開けた。
「ご苦労。……ご当家まで、よろしくお願い致します」
「ははっ」
お迎え役の責任者と思われる年配の男が、階の元まで歩み寄って深々と頭をたれた。
「細川家家老の谷川宗賢にございます。このよき日に、沙羅姫さまをお迎えできること、恐悦至極に存じ上げ奉ります」
それから更に型どおりの遣り取りをした後、錦の守り袋を首に下げて私は輿に乗りこんだ。
もはや、逃げることは叶わない。
帰る場所もない。
残された道は、愛すべき我が畠山のため、この身を細川へ捧ぐことだけか。
諦めの溜息とともに、輿は動き出した。
畠山からの生贄を待つ……細川へと。




