七
開口一番に放たれた言葉は、
「おまえ、本当に諦めたのか?」
だった。それは探るようで、また、信じられないという感情がありありと含まれていた。
「ええ、諦めたわよ。すっぱり、きっぱり」
「嘘だろ」
「本当よ。なによ、諦めて欲しいわけじゃなかったの? 私だって不本意だけど、しょうがないじゃない。この状況じゃあ」
私はしゃあしゃあと嘘をつきながら、兄上の目をじっと見つめた。
「沙羅……」
兄上は大きな溜息をついて、私を見つめ返した。
「気づいてないようだから教えておいてやろう。おまえは嘘をつくとき、いつもそうやって相手の目をじっと見る。賢い方法ではあるだろう。一般に、嘘をつくときは目を逸らしてしまう者が多いからな。だが、おまえをよく知っている俺にとっては、こういう場合、かえって嘘をついています、と教える結果になっている」
「!」
兄上がこの癖に気づいていたとは……。
私はうつむいて、ぐっと右手の拳を握った。
嘘だとバレては、明日の脱走決行に響く。ここは兄上をどうにかするしかない。
「………」
袖の中に拳を隠したまま、私は上体をゆらりと前へと傾けた。
「どうした……?」
怪訝な表情で、兄上は私の顔を覗き込もうした。刹那、私は強く握った拳を、兄上のみぞおち目掛け繰り出した———が。
パシンッ
そんな乾いた音をたてて、私の拳は兄上の左手で軽々と受け止められた。
「くっ!」
「落ち着け、沙羅。何のために人払いをしたと思っている。俺はおまえと差しで話をするために来たんだぞ」
逆上しかけた私に比して、兄上は穏便すぎる姿勢で、その左手を引いた。仕方なく私も拳を引っ込める。
相手はあまりにも私を知り過ぎている人だった。こうなってしまったらもう、腹を据えてかかるしかない。
それ以上の試みは諦めて、おとなしく元の位置に腰を下ろした。
「……沙羅。どうしておまえはそこまで輿入れを嫌う。すでに好いた男でもいるのか?」
兄上は私が悄然となるや、質問を切り出してきた。
「別に理由なんて……」
私は口篭もりながら、ぽつぽつと話す。
「好きな殿方なんていやしないわよ。そもそも身内でもない誰かに、特別な好意を持つことなんて想像できない。……いえ、わかっているわよ、私だって。最初から互いに想いを交わしての相思相愛の婚姻なんてそうあるものじゃないって。まずは相手ありきで、そこから愛情を育てるものだとか言うんでしょ。兄上たちだってそうだし、皆そうしているって。でもね、私は許嫁がいたわけでもないし、これまで結婚を強要される事もなかった。いずれそういう時期が来るかも知れない——私の中では、まぁ婿をとってもらえるのかなと思っていた——けど、少なくともその相手は、私が納得した相手であると思っていたわ。まさか、こんな急に……こっちの意志も関係なしで、いきなり輿入れなんてあまりにも強引すぎるでしょ!」
理由なんか……と言いつつも、気づいたらずいぶん理由を並び立てていた。
兄上は唯々諾々とそれを聞いていたが、やがてふぅむと小さく頷いて腕を組んだ。
「なるほどな。おまえの言い分や価値観は解った。その上で、確認したい」
真正面から、避けようのない石つぶてを投げつけられる気配がした。
「沙羅は生涯、結婚する気がない——といわけではないんだな?」
「それは……」
への字になりそうな口を無理やり開けて応じる。
「ない……わけじゃないわ。さっきも言ったけど、いずれ輿入れか婿取りかはするのだろうなと思ってた。……でもまだ、そんなことを具体的に考える時期じゃない気がするのよ」
「時期と言うが、おまえはもう十八だ。花ならば盛り。嫌なことを言うようだが、花の命は存外短いものだぞ。今輿入れを考えずに、いつ考えるんだ?」
「……へえぇ、兄上もそんな風に私を評価するの?『今かぐや』だとか散々持ち上げておいて?」
片頬を歪める私に、兄上は「そうではない」と頭を振る。
「おまえを妻にと望む声は、きっとこの先も絶えることはないだろう。だが、婚姻条件というものは変わってくる。現状の相手——細川宗家はこの血生臭い情勢の中でも格別好条件の家柄だぞ。他家が望んでもそうそう得られぬ相手だ。ことが性急にすぎるというなら、三月ほど猶予があれば得心できるのか?」
「畠山と細川にとっては好条件でも、『私』にとってはそうではないわ。時間はこの際関係ない。いいこと?——私は最初から納得できない相手だと言ってるのよ」
「はぁ……一体、どこが納得できないんだ?」
「そもそも細川京兆家(宗家)という家柄。名門だけに、常識やらしきたりやらにうるさいに決まってるわ。同じ管領家だけに、嫁いできた畠山の娘に対して優位性を誇示してくるに違いない。畠山で蝶よ花よともてはやされてきた私が、その環境で快適に過ごせるとはとてもじゃないけど思えないわ。……そうね、まず女であることを理由に、狩りや剣の稽古はさせてもらえないわね。それに、むこうは京の屋敷よ。畠山も京に屋敷は持ってるけど留守居をおいているだけだし、兄上達はきっとこの国から離れられない。気軽に会いになんて来てくれないでしょ。輿入れしたが最後、兄上達だけじゃなく父上とも義母上とも、峰や鷹丸をはじめとする屋敷の者達とももう絶対に会えないわ」
———でもね、と私は身を乗り出す。
「細川ではなく、私が納得するような相手なら、きっとそうはならない。たとえ家格が下だとしても、私はそういう相手を選ぶ。私は私の生き方がしたいだけ。誰かに強制される人生なんて、真っ平だわ。たとえ、自分の親でも」
私の言葉に、兄上は肩を竦めた。
「自分の生き方、か。しかし、そうやって一人で突っ走った後、きっとおまえは悔やむぞ。こんなことを言うと、また怒るかもしれんが……」
ちょっと逡巡するように口を閉じて、それから兄上は慎重に続けた。
「お相手の細川清和殿だが、俺は彼ならば、おまえのその生き方に理解を示してくれると思っている。いや、俺も直接お目にかかったことはない。だが、在京の折に親しくしていた方々……清和殿を直に知る方々から、そういう人物だと聞き及んでいるからだ。だから、細川に行っても、おまえが案ずるほどに縛られるようなことはあるまい。……おまえは何も知らず、ただ最悪のことばかりを考えているんだ。———たしかに、この件に関して父上はいささか強引だった。が、それも、おまえにとって最もよい結果を、と望んでらっしゃるからだ。相手が細川清和殿でなければ、父上はこの縁談を進めはしなかっただろう」
言い様はいくらでもある。だが、結局のところ私には押し付けに過ぎない。
私はゆっくりと頭を振って、もうやめてくれと示した。
「兄上には悪いけど、私は自分の意志を曲げるつもりはないの。これ以上、私を苦しめるようなことは言わないで」
義貴兄様はしばらくの間、そんな私を見つめていた。
が、やがて組んでいた腕を解くと、そっと視線を下ろした。
「そうか……仕方ないな。それほどまでに強固な意志であるのなら、俺ももう、無理を強いるつもりはない。おまえの好きなようにすればいい……」
急に理解を示されて、私は訝しく兄上を仰いだ。
「なぁに、まるで逃がしてやるとでもいうような口ぶりね」
冗談のつもりだったが、兄上は「そうだ」と真顔で返してきた。
私は唖然として、兄上を凝視した。




