一
由良の門を 渡る舟人 梶を絶え
行方も知らぬ 恋の道かな
曽禰好忠 『新古今和歌集』より
『時代』という名の船が戦乱の荒れ狂う波に櫂を奪われ、行き着く先を見失っていた頃———。
私は少女でもなく大人でもなく——わずか十八年の生だけで世間を知ったつもりの、無邪気で傲慢な姫君として畠山に君臨していた。
無風で安全な入江の中から、大海の荒波に揉まれて今にも沈みそうに行過ぎる船を、ただのんびりと眺めるだけの日々——。
目下の関心ごとは『時代』の大船がどこへ辿り着くかではなく、『私』という船がどこへ向かうのか。畢竟するに、私にはそれをゆっくりと考え選択するだけの時間があると微塵も疑っていなかった。
———そう、私は本当に何も知らなかったのだ。
この世には、人生には……自分でも制御できない想いや抗えぬ流れ、宿命と呼ばれるような出会いや別れがあるということを。
命を賭して誰かを深く愛するということも、どれだけ愛しても報われるとは……結ばれるとは限らぬということ、それゆえに人は時に愛を憎しみにかえ生きていこうとするということを。
信念と情念の狭間で揺れ動くことも、絶望の淵と歓喜の頂きで涙することも、すべてを捨てる覚悟と自らの手を血に染めることすら厭わぬ決意をする日が来るということも。
そして、信頼と裏切りは紙一重であると気づく瞬間があるということを。
———私は知らなかった。
ただ漫然と我が世の春を謳歌していた。
自信満々で、自らの行く先も幸福も全て自分で決められると信じて疑っていなかった。
———大海の荒波がどれほどに厳しいものか想像もせず。
まったく、入江の内側は穏やかな波がさざめく、居心地のよい所だった。
いつ終わるかもわからない戦火に包まれている京の都に比べて、紀伊の国ではいつものように春を愛でる余裕があった。
春の兆しははや睦月から見え隠れし、福寿草や梅花を皮切りに、椿、桃、水仙、満作、それから早咲きの桜花が次々と咲き始める。淡い春の花々は鶯を呼び胡蝶を天に舞わせた。
戦乱とは背中合わせにありながら、あまりにも掛け離れたその安寧な日々は、もちろん私に何の警告も与えてはくれなかった。
そして如月の上旬。啓蟄を迎え、萌える生命の息吹とともに自然界の獣たちが目を覚ます頃、突如として私はこの愛すべき入江から荒れ狂う大海に向かって押し出された。
ときに応天七年——もっとも波乱に満ちた、私——沙羅の命を賭けた、青い春の始まりだった。
*
新芽が息吹、枯れ木の山が一転して緑に染まる早春。
冬眠していた獣たちがそろそろと目を覚まし山々を駆けてまわる。
そのにわかに活気づいてきた春の山中にあっては、狩猟を嗜む私の心も落ち着かない。
躍る心を抑えるよう敢えてゆっくりと馬を進ませながら、新しい獲物を慎重に探し求めた。
「やっぱり獲物が起きてこないことには、春は始まらないわぁ」
狩を始めて二刻(四時間)近くが経つが、これまでに兎二羽と山鳥一羽をしとめた。
今季初でこれなら、調子はまずますといったところか。
あとは満足のいく大きな獲物が、姿を見せるのを待つばかりだ。
「沙羅姫さまぁ。いつも申しておりますが、この時期は腹をすかせた熊がその辺りを徘徊していないとも限らないんですよ。危険な目に会う前に帰りましょう!」
供についてきた鷹丸が、隣の馬の背から今日何度目かの不平を漏らした。
「そうねー。鹿か猪か、大物をしとめたらね」
「そう言って、もうだいぶになるじゃないですか!」
「……私もいつも言うようだけど、冬を我慢してやっと迎えたこの時期だからこそ、狩りはおもしろいの。だいたい、怖いなら付いて来なくていいって言ったのにさ、勝手について来たのは誰よ」
「し、しかしですね、ここはいつもの慣れた狩場ではございませんし……というか、姫さま!下手したらこれ、金剛峯寺の禁足地に踏みいってますよ!獣もそうですが、気の荒い修験者たちにでも遭遇したらどうするんです!いざというとき姫さまをお守りするものがいなくては……」
「へええ」
軽く笑って、半眼で鷹丸を見据える。
「誰が誰を守るって? 自分の身ぐらい自分で守れるわよ。どうぞ、ご心配なく」
とほほ……と情けなく呟く鷹丸を無視して、私は馬の背丈ほどの笹の茂みに強引に分け入った。
ここは紀伊の国———東軍・畠山の領地。
火の海と化している京の都からは三つばかり国を隔てた所にある、南国の風吹く穏やかな土地だ。
幕府を真っ二つに分ける戦が始まってはや五年。
いまだ京には帰れそうもなく、それどころか争乱はあちこちに飛び火していた。
幕府管轄下の守護大名たちは、それぞれの利害によって東軍と西軍にわかれ、もはや本来の目的を失った争いに国を投じている。
この紀伊畠山もまたその例外ではなく、家督をめぐる骨肉の争いに東西の勢力をつけて、争いをより大きなものへと移しつつあった。
私はその渦中にある東軍・畠山宗家の<姫君>として、十八年前この世に生をうけた。時の権力者の一人、紀伊・河内の国の守護大名にして幕府の管領を務める畠山頼政の四人の子のうち、唯一の娘として。
おかげで、そりゃもう幼い頃からわがまま放題だった。望むと望まざるとに関わらずいつも最高の物が与えられた。
そして東西の戦が勃発するやいなや、いち早く戦場となる都から畠山の本拠地であるこの紀伊の国に移された。
戦火も飢えも知らないうちにだ。
穏やかな春を迎えられることを、またこうして狩りに甘んじられる身分を、今はこの身に流れる血に感謝すべきだろう。
そして、この血ゆえに私と縁を持つ者に同情する。
筆頭が鷹丸だ。
姫、姫とうるさいこの鷹丸は、私と同じ年の乳兄妹だ。
今では小姓として私に仕えているが、名前とは裏腹に心配性の臆病者で、いつも私に<姫君>であることを強調する謂わば小姑のような存在だ。
こういう狩場では特に口喧しくて、鬱陶しい。
無論、鷹丸とて好んでそうしているわけではないんだろうけどさ。
人知れず溜息をついたところで、茂みを抜けた。
目の前には、少しなだらかな丘が広がっている。
振り返って鷹丸を見ると、芸がないというか、まだ幼さの残るその顔に不貞腐れたという表情をあからさまに浮かべて、私と目が合う前にぷいっと顔を背けた。
「……わかったわよ。帰ればいいんでしょう、帰れば」
乳兄妹という柵によって小さい頃から振り回されっぱなしのせいか、最近ではこちらの機嫌を窺おうともしない。
しかし、「帰る」という言葉には心動かされたらしい。にやり、とその横顔が笑った。
私はそれを見届けて、視線を丘へと戻した。
「ただし、あの獲物をしとめてからね」