第4話 佐藤はる④
ネイルサロンに向かいながら今週の出来事を思い出す。いつもは楽しい気分で向かう道のりも気が重い。というかそもそもネイルを直すなんてのんきなことしてていいのかとも思うが、ネイルをやめたらこれまで大好きだったものを自分から捨てるようで、自分自身を否定するようで、それだけはできなかった。
バスを降り、少し歩くと道路に面したそのお店は、スマホで見た通り、あたたかい空気に包まれていた。少しだけ息を吐く。
カランー…
ゆっくりドアを開けるとドアについていた古いベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。」
奥から店員さんが出てくる。
「あ、予約してた佐藤で…」
そこまで言ってびっくりして言葉が続かなかった。出迎えてくれたのが男性だったからだ。
エプロンをしているから受付専門とかでもないだろう。店内はそこまで広くなく、見える範囲では施術台は1つしかない。
もちろん世の中男性ネイリストがいるのは知っているが、今までネイルしてきた中で会ったのは初めてだ。
どぎまぎしている私をよそに、ネイリストさんは爽やかな笑顔で挨拶した。
「ご予約の佐藤はる様ですね。お待ちしておりました。ネイリストの中村と申します。よろしくお願いいたします。こちらへどうぞ。」
丁寧な口調と穏やかな表情に、緊張感が少し抜けた。
促されるまま店内を進み、
「では、こちらに腰掛けてお待ちください。」
言われるがまま、術台の前に座ると、タブレットが渡される。
「佐藤様は当店のご利用は初めてでしたよね。お手数ですがこちらの内容をご確認いただき、ご署名いただけますでしょうか。」
タブレットには、アレルギーの確認や、ネイルに不備あった場合の直し可能期間、そのほかお店のルールが書かれていた。
よくあるそれらの項目をざっと眺め、署名し、おずおずと話しかける。
「あ、あの、署名しました。」
「ありがとうございます。確認させていただきます。」
「ちなみにこのお店は中村さんおひとりでやっているんですか?」
私の質問に一瞬きょとんとしたのを見てまずいことを聞いてしまったのかと思ったが、すぐに爽やかな笑顔を向けられた。
「ネイリストは私一人です。ほかにエステやマッサージをあちらの個室で行っていまして、そちらは姉が担当しています。本日予約もないので姉は休みです。」
指差す先には白い壁とカーテンで区切られた部屋があった。部屋の上部は空いているのでマッサージ店みたいだなと思ったが、なるほど、エステ用の部屋だったか。
ということは今日ネイルをやってくれるのは中村さんということ。
別に男性ネイリストに偏見はない。素敵なデザインを作ってくれるならそこに性別は関係ないことは重々わかっているけど、如何せん女子高、女子大育ちで彼氏もいたことがない私は男性に手を触られることに緊張してしまう。
「あ、もしかして男性ネイリストは苦手でしたでしょうか。」
私の質問と表情から何かを感じ取ったのか、中村さんが優しく問いかけてくれる。
「一応サイトには注意書きを書かせてはいただいているのですが、見落とされる方も多くて。苦手でしたらキャンセルでも大丈夫ですよ。」
そう言って少し残念そうに微笑む。その顔がまるで大型犬がしょげているようで、思わず実家で飼っているゴールデンレトリバーの福丸を思い出してしまった。
「あ、苦手とかではなく、男性ネイリストさんって初めてで緊張してしまっただけです。大丈夫ですよ。」
福丸の影響か、根拠はないが大丈夫だろうと思いそう返すと、途端にパッと笑顔になった。ブンブンと振られてる尻尾が見える気がする。
「よかったです。あ、お飲み物をお持ちしますね。紅茶と緑茶とコーヒーどれにしますか?ホットもアイスもあります。」
「じゃあアイスの緑茶で。」
「承知しました。少しお待ちください。その間にカラーの色味をご覧ください。」
そういって色を塗ったネイルチップがきれいに並べてある色見本を渡された。色数がとても多いわけではないが、肌馴染みのいい色から差し色、アートに使えそうな色に、マグネットやミラーまで、一通りなんでも揃っていた。
この色味試してみたいな、なんて思いながらまた仕事のことが頭をよぎり、
ため息を吐く。
「――……さま、佐藤さま?」
呼びかけられて、はっと顔を上げる。
「お待たせしました。こちら、アイスの緑茶です」
きれいなガラスのグラスに入った緑茶が、そっと置かれる。
蓋付きになっているところに、さりげない気遣いが感じられた。
中村さんはそのまま私の前に腰を下ろし、手際よくオフの準備を始める。
「では最初に、今のデザインをオフしますね。傷があったり、触れられたくない箇所はありますか?」
「大丈夫です。」
私の返事をうけて、中村さんは慣れた手つきで電動マシンで削っていく。
マシンの静かな音が、一定のリズムで続く。
電動で削られているはずなのに、指先に伝わるのは不思議とやさしい感触で、痛みも熱もなく、その丁寧な施術に、手を預けていても不安はなかった。
段々と削られていくネイル。このひと月私を励ましてくれていた手元は甘皮まできれいに処理されて今か今かと新しいデザインを待っているようだった。けれど・・
(はあ・・)
心でため息をつく。
「持ち込みデザインでのご予約ですよね。やりたいデザインは決まっていますか?」
作業台の上を片付けながら中村さんが聞いてくる。
「あー・・、ちょっといろいろあってワンカラーに変更してもいいですか?ベージュ系とか、あまり目立たなくて爪がきれいに見える色がいいなって思っています。」
そう答えると、中村さんは一瞬だけ私の手元に目を落とし、すぐに頷いた。
「もちろん大丈夫ですよ。急に気分が変わること、ありますよね。ベージュでも、肌なじみがいいものや、少し血色がよく見える色もあります。色見本だとこの辺ですかね。」
そう言って、中村さんは傍に置いてあった色見本を指し示し、柔らかな笑顔を向けた。
並んでいるのは、爪先をきれいに見せてくれる色ばかりだ。でも、そこにはいつもの“私の爪”はない気がした。
もちろん、嫌というわけではない。
それでも――花や模様を描いてもらった爪を見るたび、知らず知らずのうちに自分を奮い立たせていたことに気づく。
それはまるで、小さなおまじないのようで。ささやかだけれど、確かに私を鼓舞してくれるものだった。
そんな思いが顔に出ていたのか。中村さんは色見本を指したまま、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
視線が、色見本から私の爪へ、そしてまた私の表情へと静かに移る。
「……あまりピンとこないですかね?」
優しく確認される。
核心を突かれたことに少し驚いた。
その声色には、詮索の音は一切なく、ただ、思ったことをそのまま言っていい、と伝えてくるような響きだった。
「無理に決めなくても大丈夫ですよ。今日は整えるだけでもいいですし。」
どう答えていいかわからない私を急かすことなく、中村さんは静かに言葉を添える。
それは答えを引き出そうとする問いかけではなく、こちらの気持ちが今どこにあるのかを、そっと確かめるためのもののように感じられた。
少しだけ、間が空いた。
色見本に落としていた視線を、私はもう一度自分の爪先に戻す。
「……実は仕事で、ちょっと言われちゃって……。やっぱり社会人にもなるとネイルアートって控えなきゃなんですかね。」
苦笑いしてごまかすようにそれだけ言うと、言葉が続かなくなった。
初対面の人にこんなこと言うのは変なんだろうけど、お店の雰囲気なのか、中村さんの雰囲気なのか、吐き出してもいいと言ってくれているようで、思わず胸の奥に溜まっていたものが、少し外に出た。




