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そもそも妙な胸騒ぎが起きて、それから本当に胸騒ぎの原因となる出来事に遭遇することもない程度には、俺は自分の直感に信用のおける人間ではなかった。しかしながら今日、胸中の予感じみた死ぬかもしれないといった思い込みは一体どういうわけか変に気を逸らせる。
自宅マンションを出て近くの駅までの道のりを歩きながらぼんやり思考が泡のように浮かんで消える。
まぁしかし、死ぬだとかそんなことはどうでもいいのだ。彼女ならなんて答えをだすだろうか。
こんな問いは何の人生の伏線にもなりもしない、日々につぶされ埋没していく塵芥だ。いい加減暇つぶしにグダグダとものを考えるくらいなら面を上げて周辺の景色でも観察するがいいさ。いくらか有意義だろう?いいやそんなことはないさ。どんなことであっても今の自分を形作る要素になるだろう。記憶になくても積み重ねのすべてが俺なのだから。無意味にも意味はある。意味がないことには各々が意味を見出していい。
「はぁ」
これは意味のある溜息だ。重要な足音に、貴重な視線移動。世界最高峰のすれ違う人々だ。なんて意義深い数秒だろう。感動しちゃうね。
駅に着いた。休日の午前中なのだから当然のように人で溢れている。騒めき……。人々の往来が駅構内に生命を与えている。泰然とした佇まいの建物の中を歩き回る人の群れは同化し一つの生命体のように思えた。
できるだけ壁側に、服がこすれそうなほど近くを歩く。外に出ず構内を進めば左右に雑貨屋や喫茶店が立ち並ぶ通路に向かえる。ここに店を構えるドーナツ屋がお気に入りなのだ。しかしこういくつも店が並んでいてもドーナツ屋にしか入ったことがないのだが。店に入って、知るを得なくとも立ち並んでいるだけで価値を感じるものだ。わざわざ覗いてみるだけの興味がないだけでもあるが。
通路を進み外に出れば、すぐ目の前に家電量販店が見える。一階と二階が家電、三階はゲームを売っていて、隅の一角はゲームセンターだ。四階が本屋になっていて、今日の目的はそこだ。目的の本があるわけではなく、なんとなく気に入った小説でも見つかればと時間つぶしも兼ねた買い物だ。暇つぶしは非常に益の有る行為の一つだ。
一つ興味をそそられる本を見つけた。似非オカルトスピリチュアル本とでもいえばいいか。魂の在り様、精神世界、霊界、宿業、高次元、etc…
まぁ。本気で信じていると他人には言えない程度に、あったら面白い、なんてほんのちょっぴりの期待をかけるが、本気で語っている奴がいるなら軽く茶化してしまう、俺にとってはそんなジャンルだ。普段なら背表紙を見ただけで手に取ることもしないが、今日はほんの少しだけこの世界に深入りしてみようと思った。
集めている漫画の新刊が出ていたので購入。ほかに面白そうな漫画もついでにいくつか購入。一階下に降りてゲームショップを覗く。いつ買おうか悩んでいてゲームが安くなっていたので、購入を迷う気持ちが発生する前にさっさとレジにもっていく。
帰宅して購入した漫画を読み始めた。内容がいまいち頭に入ってこない。同じページのキャラクターのセリフを何度も繰り返して読むも、どうにも集中できない。
いつも気になっていたことがある。自分が「読む」としている行為はただの「見る」ではないか。小説を一冊読み切って感じたのは、漠然と「面白い」とか誰でもいえる感想。文字を見ていただけで登場人物の心情も、作者の思いも考えもしない消費行為。読むは、見るじゃないのではないか。行為に意識が向かっていないのではないか。
「食べる」は口に食物をいれ咀嚼し味わい飲み込んで、そしてその時自分は何を考えている?何を食べているか気にかけているだろうか。きっとスマホをいじりながらであればお腹を満たしているだけでその瞬間に自分の心は「食べる」事に意識を向けていない。心がそこに存在していない。
誰かと話すとき、俺は言葉に心をのせているだろうか。考えず反射的に空虚な返事を繰り返してはいないか。意識は言葉に向いているか。
一体なんだろう。その時その行為に対して俺は真剣に取り組んでいないようだ。そんな気になってきた。きっと?何事にも、日常的に無意識でできる行動にも注意してみれば価値?が生まれる?ような気がする?
眉間に皺が寄ってきた。漫画を机にそっと置いた。現実はすぐ其処にあった。意識は今どこにあるのだ。意識は俺か?どこまでが俺だ?自分の肉体はなんで自分のものだと思ったのだ?肉体は俺の所有物か?俺とはなんだ。俺は意識なのか。意識は内か外か、どこにある。
どうして今、こんなことを考えているのだ。自分の意識に意識を向けて、それで、一体何が、どうなっていく。
夢に現れたあの女は、この現実世界で語る口を持たない。
風もない午後、部屋の内も外も静けさを保ち続けている。